奇跡の銀メダル、人見絹枝選手の物語
昨夜、NHKテレビの番組「その時歴史が動いた・奇跡の銀メダル、人見絹枝」が放映さ
れました。
人見選手の名前はオリンピックのメダリストということで知ってはおりましたが、番組を
見て、このようなドラマティックな活躍をしたことは初めて知りました。
1928年のアムステルダム大会はオリンピックで初めて女性の出場が認められた大会で
した。人見選手は40数人の日本人選手団中、ただ一人の女性でした。
次の人見選手の記録をご覧になってください。
1924年(17歳)岡山県陸上競技会
三段跳び10m33世界新
1926年(19歳) 第二回万国女子オリンピック(スウェーデン)
走り幅跳び5m50世界新
個人総合優勝
1927年(20歳)女子体育大会
200m26秒1世界新
立幅跳び2m61世界新
そしてアムステルダム大会で初めて女子選手の出場が認められながら、人見選手が得意と
する種目がオリンピック女子競技には無いのです。彼女は100メートル競走で出場する
ことにし、猛訓練をするのです。そしてその結果が、
1928年(21歳)日本選手権
100m12秒2世界新
走り幅跳び5m98世界新
100メートル競走の世界記録保持者になった彼女に金メダルを期待する日本国民の思い
は大変なものがあったようでした。
いざ、ふたを開けてみると男子選手達は軒並み初戦敗退で、ますます世界記録保持者の人
見選手への期待は集中していきます。
そんな重すぎるプレッシャーの中で人見選手は精神的に動揺し、100メートル競走で思
いもかけぬ4位という痛恨の敗北を期するのです。
女が太ももを露わにしてスポーツに熱中して、などの世間の中傷を浴びても「私が誹謗中
傷されるのはいい。しかし、これから出てくる後輩の女子競技選手たちには指一本触れさ
せないような実績を私は日本のスポーツの世界に築きあげてみせる」と日ごろ誓っていた
人見選手はこの無惨な結果をどうしても受け入れることができず、団長やコーチたちに直
訴するのです。
「800メートル競走に出場させて欲しい!」
100メートル競走と800メートル競走では走り方も、鍛錬の仕方も、筋肉の付き方も
全然違うから無理だ、という団長はじめ、選手団のそうそうたる人たちは反対したのですが
、「私はこのままでは日本には帰れません」と泣く人見選手の姿に誰もが言葉を失い、結局
、彼女の800メートル競走は許可されたのです。
国の輿望を背負うということがどんなプレッシャーであることかを一緒に見ていた娘はひ
どく実感したみたいで、「今の日本にこんな責任感、義務感を持った女性なんて本当にい
ないやろうね」と感に堪えないという声で口にしておりました。
800メートル競走までわずか3日。
団長は人見選手にこうアドバイスしたそうです。「100メートル競走の君は必ず、後半
足が動かなくなるだろう。そのときは思いっきり腕を振るのだ。そうすれば足もそれにつ
いてくる」
予選で人見選手は優勝候補筆頭のドイツのラトケ選手にぴったりくっついていく戦術をと
りました。これで人見選手は2位で予選を通過したのです。大きな手応えを感じて明るい
気持ちで宿舎に帰ってきた人見選手を迎えたのは深刻な表情をしたコーチの人たちでした。
何と、人見の予選通過の成績は総合で13位。ラトケ選手は決勝のために余力を残して走
っていたのです。人見選手の自信は粉々に砕けました。
決勝前夜、彼女は一睡もしていないと伝わっております。
決勝当日、彼女は前半上位についておりましたが、後半、段々と下がっていきます。これ
はテレビ番組の解説によれば作戦のようでしたが、最後の第4周目に入ったとき、猛然と
ダッシュしていくのです。団長のアドバイス、「腕を振る!」を実行しながら、6位から
一人一人ごぼう抜きで突進するのです。実写のフィルムが流すその人見選手の走る姿、涙
無しでは見られませんでした。娘は「鳥肌が立つ」と言いました。
結果的にラトケ選手にわずか及ばずの2位のゴールインでしたが2分17秒6は堂々の世
界新記録でした。日本人女子初の銀メダルでした。
番組「その時歴史が動いた」は松平アナの終わりの挨拶のあと、その後の登場人物の人生
を手短に伝えながら終了します。
人見選手は帰国後、引きも切らぬ講演依頼に応えて全国を行脚し、女子スポーツの重要性
を訴えて行くのでした。
そして、次回のロサアンゼルス大会に向けて精進していた人見選手は何と、1931年8月
、急性の肺炎で亡くなるのです。享年24歳。
あまりのことに私と娘は一瞬声も出ませんでした。
しばらくして気をとりなおした娘が言いました。
「人見さんは私よりも2歳も下なのに、とてもそんな女性には見えない。短かったけれど
、十分に人生を生き抜ききったように思える。私の心の中に永遠に人見さんのことは残り
続けると思うし、多くの日本人が人見さんのことを思い出し続けるだろうから、人見さん
には悔いは無いのでは」
私も娘とまさに同感の思いです。
人見さんが無くなった翌年の1932年 (昭和7年)にチェコ・プラハの町に人見絹枝像
が建てられたそうですから、日本人だけでなく、世界中の人が人見選手の短い人生に深い
銘を受けたのではないでしょうか。
忘れ得ぬ日本人として私はこの人見絹枝さんのことを我がホームページに残したく、この
手記を書きました。
「その時歴史が動いた・奇跡の銀メダル、人見絹枝」は平成16年8月24日(火)17
:15〜17:58 BS2で再放送されます。
参考サイト
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/sonotoki_syokai.html
http://brains.te.chiba-u.jp/~itot/work/genius/g1/hitomi.htm