大阪府○○市からまいりました○○と申します。
 講堂体験談のお話をいただいたとき、先生の教えにかならずしもしたがっているわけではなく、
熱心でもない私のような者がこのような席に立ってもよいものだろうかと躊躇する思いがありました。
 しかし、我が家の今の幸せが先生とのお出会いがなければ絶対にあり得なかったことをも私は
強く感じております。
 私はもしまた来世、人間として生まれてくることがあるなら、家内以外の女性を妻としては考えられ
ないいくらい、家内のことを愛しております。
 しかし、私は来世、家内と一緒になることができても、できるものならその最初の10年間の期間は
省いて欲しいな、という思いも持っているのです。
 今生における40年間にわたる家内との結婚生活の最初の10年間は私にとって二度と繰り返した
くないくらい、夫婦げんかの絶えない辛い年月だったのです。当時、小学生だった二人の子どもたち
は私たちがいつか離婚するかもしれない、という不安感を持っていたようでした。

 それが、私たちがこの教えに入信して、家内が○○先生の教えに深く傾倒するようになっ
て、家内は先生が望ましく思われる人間像、女性像に自分を近づけていこうと日々努力し、家内の
人間性が徐々に変わっていったのです。そしてそれにともない私ら夫婦の不和も比例するように徐々
に取り除かれていき、結果的にこの教え入信以前とは格段の開きがある現在の我が家の幸せを実
現できたことを痛感しているため、かならずしも教えに従っているわけではないのですが、先生に
は深い恩義を感じつづけ、感謝の思いを持ち続けて28年間会場に通ってきております。
 このような男の体験談もある意味では信者のみなさんがたのご参考になることもあるのではと思い、
この講堂体験談をお引き受けすることになった次第です。

 私は、母と歳の離れた姉がクリスチャンだったため、幼いころからキリスト教的雰囲気の中で育ちま
した。高校生のころから聖書も熱心に勉強し、19歳のときに洗礼も受けてクリスチャンとなりました。
 ところが結婚して30代前半のころ、キリスト教が信じられなくなって教会から離れていき、やがて親
友の奥さんが若くしてガンで亡くなったことに強い衝撃を受け、それがきっかけとなって仏教にひかれ
るようになり、原始仏教の世界にのめり込んでいった頃にこの教えとのご縁ができたのでした。
 家内が職場の小学校の同僚の先生に誘われて会場に行ったのは29年前の夏でした。
 そのとき家内は見学だけで帰ってきたのですが、どんなところだった?、と尋ねる私に家内は聞いて
きた話のいくつかを話してくれたのですが、その中の一つの話しに私は大変な興味を持ったのです。
 「人は祖先から受け継いできた遺伝のままの生きかたをし、その遺伝の支配を免れるのはむずかし
く、祖先と似たような人生、運命を送ることになる」
 このような意味合いの言葉でした。
 私は「遺伝の支配を免れない」という言葉に大変な新鮮さを感じ、私もこの教えの詳しい話しを聞きた
いなと思いました。
 それから半年がたってから、家内の同僚の先生が3人の信者さんたちを伴われて我が家にやってこ
られ、宅説というのでしょうか、会場の説明会を開いて下さったのです。
 そのとき、お聞きした話はもう覚えていないのですが、同僚の先生が持参された会場の本をお借りし、
私はむさぼるようにしてその本を読んで深い感銘を受け、そう日をおかずして、家内と二人の子ども連
れて大阪会場に行き、その日に家族全員、入信しました。

 そして入信してからは土曜日、日曜日に会場に通いながら私は先生のお話を熱心に聞くように
なりました。
 「心の動きが身体の体調に影響し、それはやがてその人の運命をも変えていく」という、その当時は
「心情、身情、事情」という表現がされていましたが、悪い感情を使うとそれはその人の身体を損ない、
むしばみ、その人の風貌も雰囲気にもダメージをあたえ、やがてそれは周囲の人にも悪い印象を残す
ので自然と人がよりつかなくなる、つまり結構な人や結構な事態に出会う機会も少なくなり、結果的に
幸せとは言えない状況に陥っていきやすい、という先生の教えは実に論理的であり、科学的であ
ると私は感銘を受け、以後、私は自分の心の動きに強い注意を払うようになったのです。

 そのころ先生は貪・瞋・癡(とん・じん・ち)の三毒を滅するという言葉をよくご法話の中でお使い
でした。
 むさぼりをあらわす貪欲(とんよく)、いかりをあらわす瞋恚(しんに)、おろかさをあらわす愚癡(ぐち)
の三つの毒を滅することは仏教の世界でも根本的な概念ですが、先生もとても重要視されていた
ようでして、信者さんたちに三毒を滅する必要を何度も繰り返し説かれました。
 そこで私はいっぺんに3つの毒を克服するのは私には困難ではと思い、どれか一つの毒にしぼって
滅することを努力しようと思いました。

 私は生まれつき気が短く、また正義感が強いと言えば聞こえがいいのですが、不正なこととか卑劣
なこととか、卑しいことなどに対して人一倍敏感に反応するたちでして、いつもそのようなことで人を批
判し、怒りを覚えることが多かったのです。
 先生は、たとえどんな正当な理由があろうと、人やものごとのなりゆきに怒りをおぼえたり、非難
の気持ちをむけたり、そっぽを向いたりなどの感情をつかったら、なんのいいこともプラスになることも
ありません。浄滅とはおよそ言い難い心の状態であり、悪い事態でさえ招きかねないことにもなります、
というお言葉が深く、私の心に染み入りましたので、私は素直にこの正義感ゆえの怒りであろうと、極
力抑えていくことを努力しようと思ったのです。
 つまり、怒り、瞋恚の毒をおさえることを選んだのです。
 そのころ、座談会の席であるご婦人が、「道ばたに痰を吐く人を見ると昔は嫌悪感を覚えていたの
ですが、先生の教えをお聞きすることによって、あの人が痰を吐くのは遺伝がそうさせているのだ
と思うと、もう何も嫌悪感を抱かなくなりました」と言われたことに私は感銘を受け、以後、私は他人の
好ましくない素行、振る舞いに対して、本人の責任ではなく、生まれついた遺伝がそうさせているとい
う認識でもって相手を見ることができるようになりました。
 怒りの毒をおさえることに、これらさまざまな先生の教えをマニュアルとして実践していったのです。

 そして私が実践した瞋恚の毒を滅する具体的方法は次のようなものでした。
 私はピアノ調律師をなりわいとしているのですが、仕事でも車を利用することが多く、車を運転する
とき、とても多くの感情を使うことに目を付けたのです。
 私は根が真面目な性分なものですから、交通ルールもきちんと守るほうでして、それゆえ、それを
守らないドライバーの運転がいつも目に付き、腹を立てていたのです。
 ルール破りのドライバーに出くわすと車の中にいますから聞こえないのをいいことに、
 「なんて割り込みのしかたをするんだ、このどあほ!」とか、
 「おばはん、信号に止まってからウインカーをだすなよ、ぼけ!」とか
 「どこに車を駐めているんだ!ええ加減にせいよ」など、もうまるで、やくざも顔負けの暴言や悪態を
つくのです。
 この悪態をつくことを私はやめるように努力しました。
 何度も何度も失敗して悪態をつくことがありましたが、めげずに続けていったら、やがて私の悪態をつ
く回数は減っていき、そして声にして出さなかっただけでなく、心の中でも無法運転に対する怒りの心
を覚えることが少なくなっていったのです。
 そしてこのドライブ中だけの浄滅の取り組みは思いもかけぬ波及効果を及ぼしまして、私は日常の
人間関係でも怒りや批判がましい気持ちになるのが激減していくのを実感するようになったのです。
 自分がいつのまにか穏やかな心境のなかで日常生活を送っているのを見いだしたとき、自分の三
毒の一つへの浄滅はある程度の成果をあげたことを自覚したのです。
 仏教の教えに熱中していたときにはなしえなかった怒りの克服を会場につらなるようになって成し
得たのはひとえに先生のお言葉、いかなる正当な理由があろうと負の感情を使うのは間違いであ
る、というお言葉を信じられたからこそであることは今、私はすなおに思い、先生に深く感謝して
おります。

 この教えに連なるようになって私が大変有り難く思ったのは先生が信者さんたちに本を読むこと
をしきりにお勧めなさったことです。
 私も読書が好きで、梅田に出る機会があって紀伊国屋書店や旭屋書店などに行くと、多いときは十
数冊、少ないときでも二、三冊は本を買っておりました。しかし家内は本題が高くつくことを苦々しく思い、
私が買ってきた本を一冊、一冊裏返して値段をしらべ、顔をしかめるのです。それは実に嫌みな態度
でした。
 そこで私はたくさん買いこんできたときは、車のトランクに大部分を隠しておき、目立たないように一
冊ずつ家の中に持ち込んだものでした。
 その家内が、先生が様々な知識を身につけ、教養を高め、情操を深めるために皆さん、本を読ん
で下さい、多くの本を読むのですよ、としきりに仰るのを聞いてからは私が何冊本を買ってこようと嫌な
顔をせず、むしろ、それまでそう読書が好きではなかったのに自分も先生がお勧めになる本を買い
求め、積極的に読むようになったのです。
 家内は当初は読み出しても、うつらうつらと居眠りしてしまうことが多かったのですが、家内の素晴ら
しいところは何事でも取り組んだことはあきらめずに何度も何度もアタックすることでして、徐々に読書
力を高めていきまして、現在では家内が読んで勧めてくれたことがきっかけで私も読んで大変感銘を
受け、友人にも勧めるといったことがしばしばあるようになったのです。
 そのようにして手に入れた本が我が家には二十冊をくだらないくらいございます。
 同じ本を読んで同じような感銘を受けるとその内容のことで家内との話が長々と続くことがあり、家内
が読書好きになったことは私ら夫婦の絆をより一層強めてくれました。
 家内が読書好きになったこと、これも先生のおかげであると私は感謝しております。

 西宮会場ができました翌年の平成5年の春に私は家内と講堂の前の方の真ん中の通路に面した席
にすわっていました。
 そうしますと壇上の教師の先生方が私の方を見つめながらひそひそと語り合っておられるのに気が
ついたのです。気のせいかなと思ったのですが、しばらくしてから若い女性が私の側にやってきて「祭
礼劇に出てくださいませんか?」と言われるのです。私は祭礼劇の大ファンでしたが、自分が出演する
なんて滅相もない、と即座にお断りしました。
 そしてこのお話はそれで終わったものと思ってましたら、それから半月ほどたったころ、我が家に会
場から電話がかかってきたのです。祭礼劇のスタッフの方からのもので「お稽古に全然来られないの
でお電話したのですが」と言われるのです。私の知らないところで私は出演者に登録されていたよう
なのです。そのときもお断りしようと思ったのですが、そばで一部始終を聞いていた家内が手を合わせ
て拝むように「お願い!祭礼劇に出て!一生のお願い!」と言うのです。
 家内の必死の表情を見るとそんなにまで願うのなら気は進まないけれど出てみようかと私は出演す
ることをお引き受けし、次回の練習には必ず行きます、と言って電話を切らせてもらいました。
 そして祭礼劇の練習日に出かけて行ったのですが、何と私はその日のうちに祭礼劇、つまり演劇の
世界にはまってしまったのです。
 役者と乞食は三日やったらやめられない、と言いますが、私はまさに本当だなと自分の体験でその
ことを実感しました。
 その祭礼劇は西宮会場における最初の祭礼劇でした。
 飛鳥時代が舞台となり、唐と新羅の連合軍が日本に攻めてきて占領するというストーリーで私の役
柄は遠征軍の将軍の副官というものでした。
 高い船べりの上から将軍に付き従って鎧甲をまとい、腰には青竜刀を帯びて階段をズカズカズカと
降りてきて大勢の兵士たちや捕虜となった大和の豪族や民衆たちがひざまずかされている舞台の上
を縦横に歩きながら、「蘇我入鹿は、どこだ!」と怒鳴るところなんか何回やっても心身が震えるような
高揚感を感じたものでして、19年たった今でもありありとそのときの感触を覚えております。
 二十回にわたる本番のあいだ、私が感じた心の高鳴り、胸のときめきはそれまでの人生では決して
経験したことの無いものでした。
 先生は信者さんたちにこの心の高揚感、活性化を願われて祭礼劇をお作りになったのではない
だろうかと思うくらい、それは日常生活では決して知ることのない興奮、快感でした。
 私は祭礼劇がますます好きになり、祭礼劇を2度見たいが為に祭礼劇があるたびに、カナリア席(注:
決められた期日に新しい人を連れてくると一緒に祭礼劇をもう一度見られる席)確保のために急に活
動(注:新しい人を誘うこと)に熱心となるようになりました。
 私はまた、宝塚歌劇が好きで観に行くことが多いのですが、宝塚歌劇を観た直後に祭礼劇を見たと
き、一つも祭礼劇が見劣りしないことをいつも不思議に思っておりました。
 宝塚歌劇は宝塚音楽学校を出たプロのタカラジェンヌたちによって演じられるのにくらべ、祭礼劇は素
人の信者さんたちが演じるのですから、当然、プロとアマの差が出ると思うのですが、祭礼劇がまった
く見劣りしないというのは驚くべき現象だと思いました。
 いえ、見劣りしないどころか、観客の心を惹きつけ、涙無しでは見られない感動のシーンを何回も演
出する凄さは、宝塚歌劇よりもうわまっているとさえ私は思っています。

 様々な一流の舞台芸術を鑑賞し、目も耳も肥えた老婦人をカナリア席にお誘いして一緒に観劇した
ことがございます。それは金沢を舞台にした老舗の料亭の物語でして、私が受けた深い感動をいつま
でも忘れられない祭礼劇でしたが、劇が終わったとき、その老婦人は「う〜ん」と唸ってしばらく身動き
せず、そして祭礼劇ホールから信者さんたちが退出していくのを見て、「役者さんたちにお礼の拍手し
たいのにカーテンコールは無いの?」と私に尋ねるのです。彼女は私たち夫婦が変な宗教団体に入っ
ているのではと心配し、そのご主人からも「変な団体だったらすぐさま連れだしてきなさい」と言われて
いたそうですが、こんな素晴らしい感動的な劇を作るところだったら心配はないでしょう、と言って帰っ
て行かれました。
 数多くの一流の舞台を見てきた人が祭礼劇に深い感銘を受けたのですから、私が宝塚歌劇にも見
劣りしないと祭礼劇のことを思った感覚は間違いのないものと思ったのでした。

 そしてこの祭礼劇の公演中に私の父が亡くなったのです。
 私はこの世に生を受けて一番の幸運は私の父の息子として生まれてきたことと思っております。
 しつけには実に厳しい父でしたが、深い愛情をもって私と二人の姉を大切にはぐくみ育ててくれまし
た。
 自らは仏教徒でしたが、自分の妻と娘と息子がキリスト教徒となっても信仰と信条は日本国憲法が
定めるところの個人の自由の領域に属するものと信じ、いっさい干渉することなく、暖かく見守ってくれ
たのです。私たち一家がこの教えに入信したときもそれは変わりませんでした。
 父はとてもモラルの高い人でして、恥を知ること、信義を重んじること、何事も美意識をもって行動す
ることを私たち子ども達に求め続け、また日本の伝統芸能や歴史、文学、詩歌にも広く通じ、花鳥風
月をこよなく愛した教養人でしたので、私たち家族は父をとても尊敬しておりました。
 私との会話をとても喜んでおりましたので、私は父の晩年、毎年盆と正月には私だけひとり郷里の
福岡に帰り、父とお酒の杯をくみかわしながら様々なことを語り合ったのです。
 父は私との会話の中でそのときの話題にぴったりあった万葉集や古今集、千載和歌集などの歌を
披露するのがとても上手な人でして、私が幼い息子のことを不慮の事故や病気で失うことがあったら
私は決して耐えることができないでしょう、と申しますと、父は山上憶良の「わかければ みちゆきしら
じ まいはせん したえの  つかい おいてとおらせ」の歌を詠んでくれたのです。
 山上憶良が幼くして死んだ我が子のことを「まだ幼い子供ですから、冥土へ行く道の行き方を知らな
いと思いますので冥土のお役人さん、贈り物をいたしますから、どうか足の弱いあの子を負んぶして冥
土へおつれ下さい」とそういった意味のことを父は解説してくれ、万葉の時代から親の子を思う気持ち
の変わりないことに私はしみじみと感じさせられたものでした。
 父が70代半ばとなったころから、私は父のもとを辞去するとき、もしかしたらこれが今生の別れにな
るかもしれないという思いを抱くようになり、いつも心のなかで父に別れの挨拶をして大阪に戻ってき
ておりました。
 父は88歳まで生きてくれましたが、その死に目に私は会えませんでした。
 父の危篤のしらせが私の仕事の出先に届いたとき、私は今、仕事を中断して帰っても父の死に目に
は会えないと思い、そのまま顧客宅で仕事をやり続け、それを終えて新幹線に飛び乗って福岡に帰っ
たのですが、父は既に亡くなっており、お通夜の席で私は父の遺骸と対面したのです。
 穏やかな父の死に顔を見たとき、私は死に目に会えなかったことに対して、何の後悔も感じず、悲痛
な思いも湧きませんでした。
 ただただ、父が安楽に大往生したことへの深い安堵の気持ち、そして深く敬愛した父との別れをこれ
ほど冷静に受け入れることができるほどに長生きしてくれ、私との心の交流に多大な努力を払ってくれ
た父への尽きせぬ感謝の思いばかりでした。
 私はこの教えに入信して以来、多くの人が父親との葛藤で苦しんでおられることを知り、私が如何に
恵まれた遺伝のもとに生まれてきたかを痛感したのでした。そしてそれは私の努力のたまものではなく、
ただただ、良い遺伝に恵まれただけのことだということを痛感し、私は父母だけでなく、祖先に感謝する
思いを強くするのでしたがこのような思いを抱くことができたのも先生の教えのおかげだと思っており
ます。

 私は父の葬式のために祭礼劇を一日だけ休ませてもらいましたが、祭礼劇の公演が終わったあと、
先生にお手紙を書き、父が祭礼劇の公演中に死んだこと、そして私は心の動揺がなかったことをご
報告したところ、先生は「お父様は最高の状況のなかでご生涯を終えられましたね。極楽浄土に行
かれましたよ」と仰られたのです。
 先生が極楽浄土などという仏教用語を使われたことはこのとき以外、後にも先にも無かったよう
に記憶しており、父の死を理想的なものと仰ってくださったことに深い感動と喜びを覚えました。このこと
への先生への感謝の思いは決して忘れることができません。

 最後に4時半座(注:このの集会が閉会した後に開かれる壮年男子だけの特別の集まり)のこと
をお話したく思います。
 4時半座ができたとき、家内はそこでどんな話しがなされているのかを知りたいから是非、出席して欲
しいと言いますので当初のころから私は4時半座に加わっておりました。
 そこで私が驚いたのが4時半座は壮年部の集まりですから、社会的立場もそこそこの所に立ち、
人生経験も多くしてきた人たちばかりなのに、男性の多くが、こんなにも悩みを多く抱えておられる
のかということと、悩み事を語られるときの姿の若者のような純真さと率直さを示されることでした。
 それを興味深いと言っては語弊がありますが、私は熱心に聞き、帰宅しては家内に話して聞かせ
るのでした。皆さんの話があまりにも興味深く、感動的なので私は出来る限り、4時半座には行くよ
うにしました。
 そうしましたらある日、婚活中の娘が家内に「自分が30歳過ぎても途絶えずにご縁の話しがやっ
てくるのはお父さんが4時半座に通い続けているからだと思う」と言ったそうです。
 4時半座にそんな御利益があるとも思えませんでしたが、娘がそう思うのなら私は可能な限り4時
半座に参加し続けようと思い、仕事や用事で会場に行けない日でも間に合えば4時半座だけのため
に会場に駆けつける日が何日もありました。
 そして娘は会場でいただいたご縁が急速に発展しまして昨年の12月に結婚式を挙げることができ
たのです。私は私の人生で娘の結婚ほど嬉しく、幸せな思いに浸ったことはありませんでした。
 娘は「私が結婚したあともお父さんは4時半座に行くことはやめないでね」と言いますし、私もやめる
つもりはありませんのでその後もずっと4時半座に参加しておりましたら、娘はすぐさま妊娠し、今年の
9月に出産することになりました。
 娘の言うとおり、4時半座は我が家に大きな幸せをもたらしてくれた集まりのように今では思ってお
ります。
 そして私はこれからも先生への感謝の思いを抱き続けながら会場に通い続ける所存であります。
 最後に粘り強く誘い続けてくださって私たちをこの教えに導いてくださった家内の同僚の先生に深い
感謝とお礼の言葉をこの場を借りて申し上げたく思います。
 本当に有り難うございました。心より感謝しております。
 本日は私の体験談をご静聴いただきまして有り難うございました。