ケルトに惹かれて            2009.03.26    by k.mitiko
 
ケルトブームと言われてからずいぶんになりますが、私もいつの頃からか
ケルトに関心を持つようになりました。生来の歴史好きもあって文明や
文化の成り立ちに興味を持ち、イギリスのストーンヘンジやドルメン、
フランス、ブルターニュのカルナック列石群、マルタ島の神殿群などの
巨石文化を知るにつけて、ヨーロッパの始まりはどのようだったのか、
知りたいと思うようになりました。
  
01「オシアンの夢」(アングル 19世紀)
メンデルスゾーンの管弦楽「フインガルの洞窟」に間接的な
影響を与えたケルトの英雄の伝説を描いた絵。
 
ヨーロッパと言えばキリスト教文化というふうにイメージしがちでしたが、
それ以前はどうだったかということから色々と調べたときにたどりついた
のがケルトでした。そのころはケルトブームの始まる少し前で、私はパソコンも
まだ始めておらず、図書館でブームの火付け役になった鶴岡真弓さんの著書を
はじめケルト関係の本を読みふけっておりました。
 
02「アポロンの出現」ケルト人のギリシャ、デルフォイ神殿侵入に怒るギリシャの神々


一方子どものころから馴染んできた「庭の千草」や「蛍の光」の歌など音楽や、
「アーサー王伝説」や「妖精伝説」などの物語が、ケルトに由来していること
を後年知りました。クリスマスやハロウインなどのルーツもケルトにあること
を知るにつけ、ケルトは心惹かれる存在になっていきました。
 
03「カエサルの足下に武器を捨てるケルト人の英雄ウエルキンゲトリスク」
彼は19世紀にはナショナリズムの台頭とともにフランスの民族的英雄に
祭り上げられていきました。

古代ギリシャ人が「ケルトイ」と呼び、古代ローマ人に「ガリ又ガラタイ」と
呼ばれたこの民族はBC800年ごろにはヨーロッパ最初の鉄器文化
(ハルシュタット文化)を、BC500年ごろには高度な鉄器文化(ラ・テーヌ
文化)をヨーロッパに出現させました。
 
04 ハルシュタット文化の遺跡があるオーストリアのハルシュタット。
ハルはケルト語で塩を意味する。
 

ケルトは 言語、宗教、文化を同じくする民族ですが、統一国家をつくることなく部族社会と
してヨーロッパの各地域に勢力範囲を広げていました。書き言葉を持たなかったため
その全体像はいまだに謎に包まれていますが、考古学上の発見により次第に全貌が
あきらかにされつつあるようです。 
 
05 ラ・テーヌ文化の遺跡のあるスイスのヌーシャテル湖
 
ケルト人は先住民族として紀元前から何世紀もの間、広大な地域に
居住していましたのでケルトにルーツを持つ国はヨーロッパの22カ国に
およぶと言われています。「パリ」「ロンドン」「ウイーン」「ベルギー」
などの都市名、「ドナウ川」「ライン川」などドイツの多くの川の名前は
ケルトの部族名やケルト語に由来すると言われています。
  
06 「ケルト貨幣」
 

ケルト文化の特色のひとつに宗教があげられます。ケルト民族は霊魂の不滅と
輪廻転生を信じ、宗教的指導者「ドルイド」の指導のもと、多神教を信じ樫の木の
宿り木を神の化身として崇め、特別な儀式を行っていました。死後の世界を信じ、
死が終わりでないと信じるケルト人の勇敢さは広く知られていました。
「ドルイド」はケルト社会のエリート層で、神々の祭祀を司るだけでなく、
文字に頼ることなく記憶を鍛え、法律、数学、天文学、詩歌に秀でて、裁判や
部族同士の外交も兼ねました。
 
07 「神話の登場者たち」(ラテーヌ文化 BC5世紀)
 
ギリシャ・ローマの人間中心的な神話や世界にたいして、ケルト神話的・
ドルイド的世界は、目にみえない妖精や幽霊が共存しあう宇宙的なひろ
がりを持つと言われてきました。
 
 
08 「ゴネストロップの大鉢」(デンマーク 紀元前2〜1世紀)側板の内外両面に
男女の神像や猪や鹿、龍などの動物や怪物が登場して、ケルトの神話が
描かれています。

ケルト人の宗教観からかケルト美術の特徴は渦巻き、螺旋、S字型が複雑に
入り組んだ抽象模様が多く人間、動物、植物などが極度に抽象化,文様化され
ています。ケルト様式はギリシャに起源をもつ模様化された植物のモチーフや
スキタイ人などの遊牧民族がもたらした象形化した動物文様などに特徴があり、
人間の像にはあまり重きをおいていませんでした。ケルトの美術は文字を書かな
かったケルト人にとって、自らの存在を後世に伝える最大の手段となっていると
言われています。
  
09「王の黄金製首飾り」(ハルシュタット文化 BC8世紀)
 
  
10「玉とペンダント」(ハルシュタット文化)
 
11 「渦巻き文様」(ハルシュタット文化)
 
  
12「黄金の兜」(フランス ペラ洞窟出土 BC4世紀)華麗なラ・テーヌ期
美術の絶頂期の作品
 
  
13「黄金の首輪(トルク)と腕輪」(ドイツ ラ・テーヌ文化 BC4世紀)トルクとは
ケルトの神像や戦士像がつけている首輪
 
 
14「青銅製の鏡」 (イギリス BC1世紀〜AD1世紀)の裏
 

15「ワイン注ぎ」(チェコ BC3世紀)ブロンズのすかし細工の獣面装飾。

  
16「ワインの瓶の怪物たち」(オーストリア BC4世紀)
 
紀元前5世紀ごろには、その勢力範囲は東はハンガリーからバルカン半島、西は
イベリア半島、北はイギリスやアイルランドといった島々にまで広がり、ギリシャ、
ローマなど地中海文化圏を脅かす存在として恐れられていました。ヨーロッパの
黎明期に大勢力を誇ったケルト人も紀元前1世紀半ばのカエサルのガリア征服
以来、古代ローマ帝国の支配のもとにしだいに勢力を失い、吸収されてヨーロッパの
歴史の表舞台から姿を消していきました。
 
 
17「瀕死のガリヤ人」(BC3世紀)ローマ人が表現したケルト人、この像は
ヘレニズム時代の傑作と言われ、ナポレオンが魅了されたと伝えられています。
 
18「妻と自害するガリヤ人」(BC3世紀末)ケルト人は自らの姿を造形することは
ありませんでした。
 
 
しかし古代ローマ帝国の支配がおよばなかったブリテン島、アイルランド、
フランスのブルターニュ地方にケルト系の文化は残り、アイルランドではやがて
到来したキリスト教とも融合して独自の文化が華開いていきました。
 
19モハーの断崖(アイルランド)
 
 
3世紀ごろから波状的にキリスト教信仰がもたらされ、古代には
部族同士争乱にあけくれた人々の心にも、その信仰が深く根付きはじめていた
アイルランドに、5世紀にはいると聖パトリックをはじめ、ブリタニヤの
宣教師が教会を建設し、修道院が開かれたアイルランドはケルトキリスト教の
中心地となりました。
 
ケルト・キリスト教修道院のネットワークは内外に広がり、土着の文化や古代の
伝承はつぶされること無くキリスト教の中で生き続け、修道院の学芸は比類のない
キリスト教美術を花開かせ、ケルトルネサンスと言われる時代をイングランドや
ガリヤに先駆けて出現させました。
 
20「黄金の船の模型」(アイルランド、デリー州、BC1世紀)
ケルトの英雄たちを海底(異界)に連れて行く船
 
アイルランドに花開いたケルト文化の美術特徴は、@ 石彫美術
A 金工美術 B 装飾写本美術があげられます。
 
@石彫美術
アイルランドをはじめブリテン諸島には、ストーンサークルや
ドルメンなど先史時代より巨石モニュメントが点在していました。
ケルトの人々はそれらの圧倒的な存在感と神聖さを自らの文化の
中に引継ぎ、守り育てていったのではないかと言われています。
 
21「ケルト十字架」ケルト修道院文化のシンボルである円環と十字架を
組み合わせた十字架。砂岩や花崗岩などに聖書の図像やケルト文様、
神話的図像が刻まれている。
 
 
A 金工美術
ケルトの装飾美術の様式は、古代ケルトの金工美術の技法に支えられてきました。
金工の傑作である「タラブローチ」と「アーダーの聖杯」などによって、金工美術の
黄金時代を出現させました。
 
22「タラのブローチ」(アイルランド 8世紀)
金の透かし細工の入った銀メッキ製で琥珀や多色ガラスの宝石が
ちりばめられている。このブローチはアイルランドだけでなく、
後のイギリス工芸にも大きな影響を与えました。
 
  
23「タラのブローチ」の部分。渦巻模様、組紐模様、動物模様が見られる。
この時代のブローチはマントを肩で留めるものでした。
 
 
24「アーダーの聖杯」(アイルランド 8世紀)銀カップに金線、エナメルの装飾。アーサー王
伝説の聖杯を彷彿させる。
 
 
25「バタシーの盾」(ロンドン、テームズ川出土 BC1世紀)
 
 
B 装飾写本美術
聖書に装飾を加えた写本が中世の修道院で専門の写本修道士によって
つくられ、「ダロウの書」「ケルズの書」「リンデスファーンの福音書」は
ケルト系の三大写本といわれています。
 
26「ダロウの書」(6世紀)世界最古の写本。紀元前500年ごろのラテーヌ美術の
文様が1000年の時を越えてキリスト教美術に蘇りました。
  
 
27「リンデスファーン福音書」(7世紀)「ダロウの書」の文様に
繊細さが加わる。
  
 
28「ケルズの書」(9世紀)典礼用福音書写本の傑作。アイルランド美術の精髄と
言われ、アイルランドの国宝であるとともに世界の至宝と言われています。
 
 
「ダロウの書」「リンデスファーン福音書」「ケルズの書」に現れた
渦巻き文様は「反転し捻れながら無限に連続・増殖するかたちが一貫して
守られています。抽象的な文様であるにもかかわらず、得たいのしれない
蠢きがある」といわれています。
 
29「ダロウの書」の組紐文様。結び目を強調している
 
6世紀から9世紀にかけてのアイルランドは、戦乱にあけくれる当時の
ヨーロッパ大陸のなかで唯一平和が保たれ、何世紀もの間修道院は文化の
精神的な場、または聖域として存在し、学問が奨励されて「聖者と学者の島」と
言われていました。キリスト教会の華麗な宝飾聖具の数々が生み出された
8世紀から9世紀は、複合文化としてのアイルランド文化が頂点を極めた時代と
いえます。 
 
30「ケルズの書」の悪魔的な動物が聖書の文字の体と化していっている。

 
アイルランド文化の黄金時代は9世紀のヴァイキングの襲来によって陰りが出始め、
続いて12世紀から為政者として入り込んできたアングロ・ノルマン人の貴族たち
よってアイルランド文化の独自性が圧迫されていきました。やがてアイルランド固有の
言語ゲール語(ケルト語系)を禁じて英語教育を強制するなど、英国への同和
政策が進み、ケルト文化は衰退していきました。
 
ケルトはギリシャやローマのような大理石文化とは違い、自然の樹木、川や泉を
尊重して石造りの壮麗な神殿こそ残しませんでしたが、鉄や金属の技術を発達
させ、全ヨーロッパの文明史に飛躍をもたらしました。ローマ人から見ても
ケルト人は自由闊達、新しもの好きで、色彩感覚に優れ、金銀の細工もので
身を飾ることが好きな人々であったようです。現代に生きる私たちがケルトに
惹かれるのは自然とともに生きたその自由さにあるように思います。
 
31アレシアの古戦場に建つ「ウェルキンゲトリスクの像」フランス最初の英雄として
ナポレオン3世によって建てられました。
 
1990年代に入り、目覚しい発掘や科学的検証の成果からケルトの見直しが
イギリスで特に進み、ブリテン諸島の「島のケルト」の存在をめぐる賛否両論の
論議がされはじめています。ケルト人がかって広範囲にヨーロッパに居住
していたこともあって、現在ヨーロッパ統合の象徴として政治的に利用されるように
なっているためか、イギリスの学会のケルト概念の批判は大陸部では認められず、
特にフランスの学者はそれを激しく批判しているようです。日本でもケルトの
概念や定説が変化していこうとしています。


【参考資料
 
世界の興亡史  ケルトの水脈  原聖  講談社
図説ケルト   サイモン・ジェームス  東京書籍
ケルトの歴史 文化・美術・神話を読む  鶴岡真弓  河出書房新社
                    松村一雄
ケルト人   鶴岡真弓  創元社
ケルト人   ゲルハルト・ヘルム    河出書房新社
ヨーロッパの文化・文芸とケルト 本田錦一郎   松柏社
 
サイト
http://www.snn.co.jp/snn/sc/offshore/celt/all.pdf#search='ケルトの魅力'