ケルトあれこれ by k.mitiko
ヨーロッパの主要都市や河川にその名を残したケルト人は、文字を
持たなかったために記録がなく、古代に広範囲に居住していた一大
民族でありながら、その実像については今だに論争が続いています。
ケルトを考える時には三つの区分があると言われています。
01丘陵像(ヒル・フィギュア)馬 1世紀 イングランド
一つは紀元前の古代ギリシャや古代ローマとは異質の文化で、
ヨーロッパのいたるところで勢力を広げていた古代ケルトの時代
です。
二つめは紀元後古代ローマ帝国や民族大移動のなかで、吸収同化さ
れて6世紀から9世紀にかけて、ブリテン諸島で独自の華を開かせ
た中世ケルトの時代です。三つめは近代のナショナリズムと結びつ
いて語られるケルトです。
いまだに決着のつかない、この三つの時代のケルトについて私なりに
理解したことをエピソードを中心に紹介したいと思います。
1.古代ケルトの時代
古代ケルトについては同時代のギリシャやローマの著述家によって
述べられていることや、19世紀の考古学の目覚しい成果によって
多くの謎が解明されていきました。
02ヴィクスの女王の首輪(トルク)の部分
03黄金の透かし彫り容器 5世紀
紀元前3世紀初頭拡張を続けていたケルト軍の使者たちが、BC
335年ドナウ河畔でアレクサンドロス大王と会見しました。
大王から一番恐れているのは誰かと問われたケルト人は「天が降って
でもこない限り、自分たちに恐いものはない」と答えたそうです。
大王は彼らを友とよび、同盟者とさえしましたが、後にはホラ吹きと
呼んで追放しました。
04硬貨に刻印されたアレクサンドロス大王の肖像
紀元前3世紀には、ケルト人の世界は最大の領土を誇り、その勢力は
絶頂に達していました。西はスペイン、アイルランドから、東はドナ
ウ川流域、トルコ中部まで広がっていました。
ケルト世界は一つの帝国ではなく、ケルト語を共通言語として、さま
ざまなな部族が寄り集まった豊かで多様な世界でした。
05仔馬のかぶり物と角 BC2〜3世紀 スコットランド
死を恐れぬ好戦的なケルト人の勢いはとどまらず、エトルリアをはじめ
周辺地域を侵略して、やがてローマをも占領し略奪の限りをつくしました。
有名な「ローマの屈辱」は、ローマはたちどころに立ち直りましたが、
その後何世紀も影響が残ったできごとでした。紀元前4世紀から前3世紀が
ケルト人の全盛期でした。
06ツィウメシュテルの兜 BC3世紀 ルーマニア
力をつけた古代ローマ帝国によって次々と敗退をよぎなくされて、
前58年にはじまるカエサルの「ガリア戦争」によってその敗北は
決定的になりました。カエサルはガリアで100万人殺し、100万人
奴隷にしたと言われています。ローマと戦ったウェルキンゲトリスクは
捕縛され、その武勇を恐れたカエサルによって処刑されて、ガリアは
ローマの属州になりました。
07ケルト人の兜 BC4世紀 イタリア、カノーサ
ケルトの宗教としてドルイドの存在がありますが、カエサルの「ガリア戦記」
以外にほとんど資料がなく、いまだに謎につつまれています。ドルイドは
神殿をかまえず、森の奥の天体のよく見える土地を選んで祭壇にしていました。
ドルイドがもっとも神聖視したのは樫の木のヤドリギで、冬至と夏至の日に
採取され祭祀に使用されました。
08「ゴネストロップの大鍋」の神話部分 BC2世紀〜1世紀 コペンハーゲン
古代ケルト人の知的階層集団としてのドルイドは、ギリシャの
ピタゴラス派の影響力のもと、ガリアで形成されました。霊魂の不滅や、
幾何学文様の多様、人身御供ではなく動物供儀、天文学の知識、学問の
体系化、口伝による長期間教育(ガリア戦記には20年と記載)白衣の
着用などの決まりがあり、政治家、司法家の役割がありました。宗教、
学問、行政、司法の三重の権威は強大で他に類をみないものでした。
09フラゴン取っ手装飾の人面 ドイツ
ドルイドについてはその異質性と野蛮性の象徴として人身御供の例が
あげられますが、考古学的な発掘によっても聖域での処刑のあとを
もつ人骨の出土はまれで、あるのは動物の供儀だったということが
わかっています。「ガリア戦記」で述べられている例は、罪人や敵の
処刑が、宗教的な人身御供と混同されたとみるべきのようです。
10「神像」 BC1世紀 フランス
賢者としてのドルイド集団は前1世紀には崩壊していましたが、その
ころ巫女としての女ドルイドが出現しました。女ドルイドはそれまで
のドルイドとは異質の祭祀者、祈祷師だったと考えられています。
その活動はブリテン諸島では細々と続いていましたが、キリスト教化
後は妖術使い、巫術使いとして敵視されるようになり姿を消して
いきました。
11女ドルイド ラ・ロシュ画 19世紀
2.中世ケルトの時代
ヨーロッパ大陸では歴史の舞台から消えたケルトの文化は、周辺の
ブリテン諸島(アイルランド、スコットランド、ウエールズ、など)
やフランス、ブルターニュ地方で、その地方古来の文化と融合して
キリスト教の修道院文化として華開きました。これらの地域には
新石器時代からドルメンやメンヒルなど巨大モニュメントが残り、
以前から土着の文化がありました。
12ドルメン イギリス・コーンウオール
ブリテン諸島やフランス、ブルターニュ地方には先史時代から高い
レベルでの固有の文化を持つ民族が居住しており、大陸のケルト
文化との交流が行われていました。
13カルナックの巨石群 フランス・ブルターニュ
古代ローマ帝国の支配や、当時の民族大移動の影響を受けなかった
アイルランドでは、ケルトの遺風はおりから到来したキリスト教に
摩擦なく引き継がれていきました。そのためアイルランドでは
キリスト教の布教にともなう殉教者が出なかったと言われています。
14スケリグ・ヴィヒール島 アイルランド
アイルランドの初期のキリスト教会(修道院)は、学問と芸術に
おいて貢献し、修道僧たちによって、ローマに征服されなかった
ケルトの人々の口承文学が記録されたことは大きな功績でした。
15修道士の住んだ石室 スケリグ・ヴィヒール 7世紀〜13世紀
ヨーロッパに現存する最古のキリスト教遺跡として世界遺産に登録。
ヨーロッパの伝説でもっとも有名な「アーサー王伝説」はケルト神話、
とくにウェールズの伝承を素材につくられています。ケルトの神話が
中世の騎士物語りに変貌するには、歴史上の人物としてのお膳立てが
ひつようでした。それは12世紀のイングランドの修道士ジェフリ・
モンマスによって「ブリテン王列伝」でアーサー王は歴史上の人物と
なりました。
16ブリテン北部の騎馬兵 6世紀
長らくケルト起源とされてきた「アーサー王伝説」が、スキタイ起源にあるの
ではと言われはじめています。名剣エクスカリバーの入手方法や、重傷の
アーサー王が従者に命じてエクスカリバーを湖に投げ込ませるエピソード、
円卓の騎士による聖杯探求などが、現代もコーカサス地方に住むオセット人
の伝承、「ナルト叙事詩」にも描かれています。こうしたモチーフの一致は
偶然とは言えない事をフランスの中世文学研究者が指摘しています。
17「聖杯を探求する円卓の騎士」エドワード・バーン=ジョーンズ 1890年
アーサー王伝説の素材を提供したケルト人とオセット人の祖先である
イラン系騎馬民族とが、太古の時代から共通の神話を伝えてきた結果
ではないかとも言われています。
18「アーサーとモードレッドの戦い」 14世紀初め
その論拠としてスキタイ系とされる1部族が、ローマと和を結んで
8000人の傭兵を提供し、うち5500人がブリテン島の守備隊
として派遣され、土着化した事実があげられています。これらの
出来事が、ケルト文化圏にスキタイ文化が混ざりこんだ直接の原因
ではないかと言われています。
19「円卓の騎士と聖杯の出現」 15世紀 パリ
「アーサー王伝説」はブリテン島の先住民族ケルト人の神話、伝説から
発生した物語が、その後のブリテン島の支配民族となったアングロ
サクソン人の神話に変化してきたもののようです。
20「アヴァロンのアーサーの眠り」エドワード・バーン=ジョーンズ
悲恋物語として有名な「トリスタンとイゾルデ」もケルトにルーツ
があり、二人が恋に落ちるきっかけの「媚薬」やアーサー王伝説に
登場する魔術師マーリンなど随所にケルトの影響が残っています。
9世紀にはいってヴァイキングの襲来やその後のアングロサクソン人
の侵出によって、文化的頂点を極めたアイルランドの繁栄は終焉を迎え、
外国の介入という長い悲劇の歴史がはじまりました。
21「トリスタンとイゾルデ」 ダンカン 1912
2.近世ケルト
18世紀から19世紀にかけて産業革命が始まる中で、ヨーロッパの
人々は個性を失って労働力としてのみ生きざるをえない中、非日常、
超自然の世界への憧れを求めていきました。その結果この時代には
遺跡や遺物を探す考古学、不思議な別世界への関心としての文学や
美術におけるロマン主義、霊的世界との交流を試みる心霊主義などが
人々の関心を集めました。
22「詩人(バルド)」 トマス・ジョーンズ 1774年
18世紀の半ば、スコットランドの文学者ジェームズ・マクファーソンが、
ゲール語の古歌を基にした古代ケルトの叙事詩「オシアン」三部作を発表
しました。紀元3世紀ごろのフィアナ騎士団の栄光と衰亡を、首領フィンの
息子である盲目のオシアンが竪琴を弾きながら歌った物語とされています。
「オシアン」の発表と同時に各国でセンセーションを巻き起こし、ドイツ語
フランス語など8カ国語に翻訳されました。
23「天国でナポレオンの将軍たちを迎えるオシアン」 ジロデ
この詩集は、ゲーテ、シラー、ルソー、シャトーブリアン、ワーグナー、
シューベルト、メンデルスゾーン、アングルといったロマン主義の作家、
詩人、画家、音楽家に大きな影響を与えただけでなく、一般の人々に
おけるケルト文化への関心を高めることになりました。「オシアン」の
ヒロイズムに心酔したフランス皇帝ナポレオン一世の注文によって
アングルの傑作「オシアンの夢」が描かれました。
24「オシアン」 ジロデ 1767年
しかしジェームズ・マクファーソンが古代ケルトのオシアン伝説をまとめた
という古代詩が、実は彼の創作ではないかと疑問をもたれるようになりました。
1707年イングランドに吸収合併されて祖国を失ったスコットランドのアイ
デンティティを求めて創作されたのではないかと言われています。真偽は
ともかくとして作品の価値は高く、ナポレオンやゲーテはこの詩集に魅了
されてしまいました。
25「踊る妖精たちとオベロン、ティターニヤ、パック」ブレイク1786年
古代ローマ人やゲルマン人によって圧迫され、ヨーロッパの周縁部に
追いやられたケルトも、忘れられていた別世界として脚光を浴びるように
なりました。ケルトの異界や妖精が再びクローズアップされるように
なりました。
26「妖精王の勝利の行進」 リチャード・ドイル
16世紀にフランスがブルターニュ地方を吸収し、イギリスは
16世紀半ばから19世紀はじめにかけてウエールズ、スコットランド
アイルランドをなかば強制的に吸収合併しました。ケルト文化が
色濃く残るこれらの地域は、それぞれのナショナリズムと結びついて、
アイデンティティ確立のためにケルトリバイバル(復興)が言われる
ようになりました。
27「キルデア大聖堂」 アイルランド ケルト文様の復活
イギリスの植民地として過酷な支配下で喘いでいたアイルランドでは
ケルト意識の高揚によって、19世紀前半からの独立運動と結びついて
20世紀にかけて文学やケルト美術など芸術活動が盛んになりました。
ケルト語文化圏で唯一の独立国であるアイルランド(エール)では
自らのアイデンティティ擁護のためケルトをしばしば持ち出して
アングロサクソンのイギリスとの違いを強調しています。
28漫画「アステリクス」のキャラクター
またフランスでもアレシアの敗者ウェルキンゲトリスクは、最も
人気のある漫画「アステリクス」として蘇り、カエサルのローマ軍に
しぶとく抵抗を繰り返す豆戦士として国民的なアイドルになって
います。フランスでディズニランドが流行らないのは「アステリクス」
のテーマパークのせいだと言われています。
紀元前のヨーロッパを席捲したケルト人も、居住した地域の都市や河川に
名を残して歴史の表舞台から消え去りましたが、その文化は古代
ギリシャやローマの文化とともにヨーロッパの基層をつくり、時代を変え
場所を変えて21世紀の現代に不死鳥のように蘇みがえり、ケルトとは
ケルト的とはと今も私たちに問いかけているようです。
参考資料
興亡の世界史 ケルトの水脈 原聖 講談社
ケルトの歴史 文化・美術・神話を読む 鶴岡真弓 河出書房新社
松村一雄
ケルト人 鶴岡真弓 創元社
図説ケルト人 サイモン・ジェームス 東京書籍
図説ケルト文化誌 ばりー・カンリフ 原書房