十七回忌に母をしのぶ by 川島道子 2010.02.09
二月十三日は私の亡き母の十七回忌。
父の一周忌も終わらないうちに父の後を追うように逝きました。後二カ月で八十八歳の米寿でした。
01 父と母 1932年結婚当初
自分を語ることの少なかった母は、従兄だった父と結婚して一男二女をもうけ、サラリーマン家庭を
切り盛りするごく普通の主婦として過ごしていました。この時期の母にとって最大の悲しい経験は、
当時3歳で可愛い盛りの長男を病気で亡くしたことでした。そのときの両親の悲嘆は、今も忘れられ
ない記憶として残っています。
02 家族の記念写真 (前列右は母、左は母の妹、父に抱かれているのは妹、真ん中は私)
昭和16年に始まった太平洋戦争の末期、米軍の北九州への初空襲をきっかけに私たち一家は、
それまで住んでいた門司から父の郷里(島根県)に家族5人(両親に妹二人と私)で疎開しました。
それからまもなく40代の父は軍隊(海軍)に召集され、母はなじみの薄い環境の中で舅、姑の世
話をしながら慣れない農作業に励みました。
母は疎開先で父の留守中に双子を出産しましたが、そのうちの一人は生後すぐ死亡して両親にと
っては、子どもを亡くすのは二人目でした。
軍隊に入隊した父は転々と移動しましたので、母は背中に乳飲み子を背負い、片手に交代でおと
もをした私や妹の手を引き、もう一方の手におむつや荷物をもって、夜汽車にのって広島県の呉、
四国の松山、長崎県の大村などに慰問に行きました。
連れて行ける子どもは一人だけでしたので、後の二人の子は祖父母のもとで留守番をしていました。
母にとって、食料難や満員の列車での道中は筆舌に尽くしがたいことだったと思います。
大村に行く途中、停車した博多駅の屋根越しの夜空に赤く炎が燃え上がっていて、後でそれが博多
の大空襲だったことを知りました。
03 父と母 中は弟 1967年
戦争が終わり、父も帰還して勤務先の関係もあって、両親と私たち子ども4人は下関に転居しました。
昭和20年の秋のことでした。敗戦直後の食料不足や衛生面での問題から当時赤痢が蔓延して我
が家も次々かかり、9月末双子のうち生き残った幼い弟と妹が3日間のうちに相次いで亡くなりまし
た。両親の悲嘆はたとえようもありませんでした。悲しみのどん底にいた私たち家族にとっての朗報
は昭和22年の弟の誕生でした。現在のリワキーノこと、森脇久雄です。
04 父と母 1967年
日本社会が復興するなかで、我が家にも弟をかこむ家族の団欒が戻ってきました。
父の仕事のために福岡に移り住み順調に進むかにみえた我が家に父の失職という問題が起きま
したが、母は生来の手の器用さを生かした編み物で生計を支えました。
家計の厳しいときに私たちがあまり不安を感じず、食糧難の時代にも飢えに苦しまなかったのは、
料理上手でやりくり上手な母のおかげでした。私が中学生のころには、当時の少女たちの人気雑
誌「ひまわり」を見て、妹や私の洋服を作ってくれたり、仕立てにこそ出しましたが、父のオーバーか
ら私のオーバーを作るなど才覚を発揮して思春期の妹や私の気持ちを汲みとってくれるしっかり者
の優しい母でした。
05 母 1972年
そのことは母だけが例外ではなく、当時の日本の女性は、炊事、洗濯、料理などはすべて手仕事
で、朝起きてから寝るまで休みなく働き、暮らしの中で創意工夫をこらして家族を喜ばせていたよ
うに思います。父が珍しいもの好きで食事を重要視する人でしたから父の好みの味にするために、
料理には絶えず工夫をしていました。父が外で美味しいものを食べてきたときは、早速我が家で試
して食卓にのせていました。
一方父が身だしなみを重視する人でしたので、母もそのことは大切にしていましたが、もともと美的
感性に優れていた母はその点では父とは共通することが多く、それが晩年のレザークラフト(皮工
芸)で花開いたようです。
06レザークラフトの展示会 自作の前で
子育てが一段落するころからろうけつ染めなど染物に関心を持ち出していた母は、縁があって64歳
で始めたレザークラフトは、手の器用さと独特の感性で、オリジナルな作品を数多く創りだし、それは
趣味の域を超えてプロとしての製作になりました。それを陰で支えたのは父で、母の代表作の「鹿」
や「吉野山」、高句麗の古墳の壁画やキリシタン鍔などオリジナルな図案を母に提案して作品化を
アドバイスしました。
07 未完に終わった作品
この分野では夫唱婦随ならぬ婦唱夫随が作品に反映されて他には見られない創作となりました。
64歳から亡くなる88歳まで膨大な量の作品を作り続け、亡くなる直前まで関心を持ち、未完に終わ
った作品は今も私の手元にあります。母は一昔前の日本女性らしく夫を立てながらも、自分の可能
性を追い求め、7人の子どもを生みながらそのうち4人を亡くすという衝撃を乗り越えて、自分の才能
を見事に発揮して生を終えました。その生涯には、娘として学ぶこと多く、母のようには生きられなく
ても私なりの人生を歩みたいと今母をしのびながら思っています。
08 晩年の両親 旅先で
母が亡くなりまして2カ月後に遺作展を我が家でひらきました。
母のレザークラフトをまとめた「森脇秀子の世界」がございますので、ご覧いただけますと嬉しいです
http://homepage3.nifty.com/higotainohana/top-set.htm