9/8 2004掲載

編者より
武藤さんが著したこのレポートオリジナルには画像は一切添付されてません。
ここに添付されている画像はすべて私、リワキーノがインターネット上からダウンロードしたも
のです。
従いまして画像の無断掲載についてトラブルが生じたときは責任の全ては編者の私、リワキ
ーノにあることをご承知おきください。

画像上の紺色文字で記入されたコメントは、この添付画像に対する武藤さんの感想及び、指
摘です。
画像をよりよく楽しんでいただきたく、そのまま載せました。

後立山縦走記〜白馬から穂高まで (前編)  (四十年目の報告) by 武藤和尚

 高校の部活動は生徒が収める生徒会費から活動費を支給されている。従って、各々の部
はその活動状況を全校に報告する義務がある。
 当時の私も、山岳部の部長として二年生の夏山の報告をするのはした。ただ、ほんの数行
の行程表を提出しただけだった。あの頃の私は文章を書くのが苦手だったので、そんなもの
でお茶を濁したのである。近ごろ、いくらか物を書き慣れて、あの体験をまとめたくなった。
四十年も出し遅れた報告であるが、読んでもらえれば幸いである。

序章

 何にしても目標があるということは悪いことじゃない。僕の高校1年の夏からの目標は、翌
夏の後立山縦走だった。

No.1後立山連峰
爺ヶ岳あたりから鹿島槍を望んだところ。
三日目に雷雨に遭って急遽キャンプしたのは、右のピークとその左のピークの間の鞍部。



 北アルプスは、音叉のような形をしている。左の方が、剣、立山から薬師岳を経て三俣蓮華
岳で右の又と合流し、足にあたるのが槍、穂高というわけだ。1年の夏、僕達はこの左側を、
立山から槍まで歩いた。当然、来年はもう一方に行こう、ということになる。
 間に黒部渓谷を挟んで、そのもう一方の右側は、白馬岳から始まり、唐松岳、五竜岳、鹿
島槍ヶ岳、スバリ岳、針ノ木岳を経て針ノ木峠に到るまでを、後立山コースと通称する。針ノ
木峠から蓮華岳を経て烏帽子岳までの稜線には別称はないが、烏帽子岳から野口五郎岳、
鷲羽岳をとおり三俣蓮華、槍に到るルートは裏銀座コースと通称される。ついでに云えば、
槍から右上に跳ね上がるように分岐して、大天井岳、燕岳にいたるルートが表銀座コースだ。
ここでコースと云っているのは、ガイドブックの類いが、稜線を手頃な日数で行けるブロックに
くくってそう名付けているのであって、正式な名称ではない。ガイドブック的に云えば、1年で
歩いたところは立山・槍縦走コースとでもなり、槍から穂高の稜線も槍・穂高縦走コースとして
解説される。

 高校2年の夏休みが始まって二日目の夕刻、僕達6人の一行は白馬大雪渓の末端を指呼
の間に望むキャンプサイトに幕営していた。夕食も終え、寝る前のひととき、大雪渓を眺めて
いた。太陽は既に、のけぞるほどに見上げる白馬の稜線のむこう側にかくれている。家なら
まだ明るい時刻なのに、あたりは早や薄暮れている。雪渓に空気が冷やされるせいだろう、
靄がかかり、時折り冷たい風が吹き下ろしてくる。
 一昨夜、僕たち2年生3人と顧問の檜垣先生の4人して夜行急行で博多を発ち、次の日の
日中を、じっとしていても汗がしたたるような名古屋駅で半日過ごし、また夜行の松本までの
急行に乗り、さらに大糸線の電車で、白馬駅に下車したのが今日の昼前。ここで、コーチとし
て同行する横田先輩とその友人の西さんと合流。猿倉山荘前までバス。それから2時間ほど
歩いてやっと此処に着いたのだった。

 1年の夏、同行者は1年生が大田輝久、佐座政弘、守田恒彦、僕、2年生のNさん、顧問の
檜垣先生、コーチのA先輩、の一行八人。実は1年生の中では僕が一番弱かった。縦走三
日目、五色ヶ原からスゴ乗越までの予定が、スゴ乗越には水がなくて泊まれず先に進むこと
になった。あの辺りは樹林帯で風が通らず、おまけに蒸し暑い日で、暑さに弱くすっかりまいっ
ていた僕は、この予定変更にがっくりきてしまい、ついにバテた。バテるというが、体力が限界
に達するよりも先に、精神的にまいってしまったのだ。人並みにも強くない自分が情けなく、
大声で泣きわめきながら一行に遅れて何とかたどり着いたテント場。夕食の片づけも終えた
日暮れ前のひと時、今日の自分が恥ずかしくて淋しい僕に、だれかが稜線まで上がって後立
山を見てこいと云った。ここは薬師岳の北の、幅広い稜線に窪みができてそこに雪がたまり、
7月末くらいまで雪田として溶け残る。それを水源にしたテント場なのだ。二つの低い尾根に
挟まれたテント場から、重い足を引きずって東の尾根に登ってみた。黒部の谷はもうとっぷり
と暮れているが、東の空には明るさが残っていた。その薄明るい空を背景に彩りが淡くなった
山並みが、左から右まで視界一杯に連なっている。右の方で尖っているのが槍だとは、直感
的に判った。左の遠くて高いのが白馬だろう。だとすると、それから右に連なっていく峰々が
後立山なのだろう。
 この時まで”後立山”という名前としての知識しか僕にはなかった。室堂から室堂乗越に上
がって以来、ずっと尾根通しに歩いてきたのだから、それまでに見ているはずなのだが、それ
が後立山だとは意識していなかった。上級生の建てたプランに従ってただついてきただけで、
北アルプス全体の概念図が具体的に頭に入っていなかったのだ。それなのに、そのシルエッ
トを見ただけで、ああ来年はあそこに行こうと決めてしまったのだった。
 学校での毎日のトレーニングは西新から愛宕まで走り、石段通しに神社まで走り登る。夏ま
では持久力がなくて途中でへばっていた僕も、秋になるとなんとか休まず上までいけるように
なった。それに秋は岩登りのシーズンで、背丈があるだけにリーチを活かせる僕は、岩が好き
だしまた上手だったと思う。修猷館は戦後の創部期から岩登りをやっていた。当時から高校
山岳部で岩登りをやっているところは少なかったので、僕たちにはそれが自慢であり誇りで
もあった。だから、岩が上手だということは必然的に発言力が増すことにもなる。佐座はだん
だんラグビー部に引き込まれていったし、残る3人の中では、僕が口数が多かったせいだろ
う、2年になるとリーダーということになった。
 3年生は受験で、夏休みの合宿には参加しない。したがって、そのプランは僕らがたてるこ
とになる。リーダーの僕は大田、守田の二人を強引に説得して後立山に決めた。後立山は
岩場の難所が多い。だからそれまでに、新入りの1年生を、重荷を担いで岩場を歩けるように
訓練しなければならない。逸り立っていた僕は、新入部員にそうとう激しい訓練を強いた。
そして6月の梅雨の中、野北の半島を海岸の岩場伝いに一周する訓練行でとうとう新入生の
一人に怪我をさせてしまった。急斜面を登らせていた時に、雨で緩んでいた岩が転がってき
て足にぶつかったのだ。向う脛を3,4針縫う程度の怪我だった。岩を避けきれなかったの本
人のヘマだが、そういう状況に導いてしまった責任は僕にある。それまで、僕の強引さに嫌
気がさしていたのだろう、これを契機に新入部員は全員退部しまった。
 現在振り返ってみれば新入部員全員退部というのは、部長としての資質、責任を問われる
事件だったが、若さゆえの無恥、傲慢、「あんくらいの怪我でびびってから、弱虫がみんなヤ
メテしもうた」位にしか考えていなかった。塞翁が馬、と言うとそれこそ傲慢だが、2年生だけ
ならかえって難コースでも危険度が低下する。OB会や顧問の檜垣先生もそう思われたの
だろうか、結局、後立山だけでなく白馬から槍、更に大キレットを経由して穂高に至る、高校
生としては超弩級の縦走案が決定したのだった。

 と言うわけで、高校2年の夏休みになって二日目。明日から始まる穂高までの縦走を前にし
て、17才になったばかりの僕は、緊張と不安にシビレていたのだ。

第1日目
白馬大雪渓の登り

 明けて23日。出発前のラジオ体操をすませると、いよいよ始まりだ。
「イクゼーッ!」と一声かけて、白馬大雪渓の末端に踏み出す。空は明けきらず雪渓の表面
はまだ凍っている。それでも踏み跡はついているし、ごみが在る部分が日射で早く溶けるた
めに、凹凸が出来ていて、慎重に歩けば滑ることもない。計画立案の段階で、アイゼンを携
行するか否かさんざん検討したが、結局、軽量化を優先して持ってこなかったのが正解だっ
たようだ。

No.2 白馬大雪渓
雪の量からすると夏山シーズンの初め頃。遠くから見ると真っ白な雪渓も近くでみると結構汚い。
下から見上げる分には緩やかな登りだが、、、



 隊列は、僕が先頭で次に大田、守田、檜垣先生、西さん、横田先輩と続く。山岳部では、
まずまずの経験があるサブリーダーが先頭でルートファインディングの任にあたり、最も経験
があり全体の統率をするチーフリーダーが最後尾から目を光らせるということになっている。
その間は弱い順になる。弱いといっても、体力ばかりでなく、経験、安定度などを総合的に
判定してのもので、大田にしても弱いわけではないのだが足の運びにやや無造作な癖があ
ってそれが弱点になっている。守田は寡黙だが強い、の一言だ。檜垣先生は山の経験は相
当お持ちなのだが、山岳部流の 本格的な山はやっておられないと判定されているわけだ。
横田先輩は大学の山岳部でバリバリやっていた人で体力、経験共に油の乗っている頃合い。
西さんはその山仲間。客分なので横田先輩の前。こういう経験則で順序が構成されているの
であって、なんとなく一列に歩いているのではないのである。

 出発前、大雪渓については先輩達からさんざんに脅かされていた。「よかやー、あそこは
脇の谷やら斜面からやら落石のようあるけん、しっかり注意しとかないかんぜぇ」、「そうたい。
それからクサ、雪の上ば転げてくる落石は音のせんけんねぇ。先頭のもんは、いっつも上見
とかないかんとぜ」、「落石てクサ、早よぉから脇い避けとっても、跳ねてからかえってそっち
さい飛んでくることのあるけん、よぉーと見てから直前によけるとぞ」等々。
 緊張と重荷に火照る身体に雪渓の冷気が心地よく、脅しのわりにはなにごともなく、朝の
間は行程を稼げる。しかし、だんだん雪に照り返された日射が熱と湿気を帯びて苦しめる。
前にも言ったが、ボッカつまり荷物担ぐのに弱い僕はその日の行程がまず第一の不安の
タネだった。滑り易い雪渓をまる半日、高度差約1000メートルをひたすら登るのだ。予定で
は、昼までに雪渓を登り終えて、稜線に出たところで昼食だったのだが、結局大雪渓と稜線
の中間に在る小雪渓付近で昼食をとった。

No.3 大雪渓を上から
見下ろすと、「こんな所を!」と驚く程急傾斜。


 今回は、昼食に三日目まではフランスパンを用意した。乾パンのほうがかさ張らず日持ち
も良いのだが、飲料水に制限があると口がカラカラになって食べにくい。副食はソーセージ
一本かチーズ一個の日替わり、粉末ジュース、ジャムくらいのもの。現在では、考えられな
いどころか、怖じ気を振るいそうな簡素さだった。

No.4 白馬山荘
山荘右上のピークは頂上ではなく、頂上はその向うに隠れている。



 昼食後、三十分ほどで稜線に出る。そこに荷物をおいて白馬岳の頂上まで往復する。尤も
大人三人は「俺達は行ったことのあるけん、行ってきやい」と留守番である。頂上には直径
一メートルはあろうかという方位盤がある。これが、新田次郎が直木賞をとった「強力伝」の
ものと知ったのは、後のことだ。方位盤には、四方八方の山々が夫々刻まれている。だが、
僕達にとってどれも大して意味がない。これから向かう槍、穂高だけが関心の的なのだ。
南の方、遥か彼方に、情けないほど小さく槍のとんがりが見えた。
 引き返して、いよいよこれから三千メートルの稜線散歩、と云いたいところだが、肩の荷は
重いし風もなくジリジリ暑い。この辺りは、信州側が急傾斜で落ち込んでいる反面、黒部側
はなだらかな斜面なのだが、森林限界を越えているのだろう、所々に這松が生えているくら
いで岩と土が剥出しの荒涼とした風景である。白馬とならんで白馬三山と称される杓子岳、
鑓ヶ岳は頂上稜線を通らず、山腹を横断していく。これを「まく」と云う。鑓ヶ岳のほうは黒部
側にゆるやかに延びる尾根をこすために、ルートがぐっと右に迂回している。午後の日盛りの
中、岩だらけの地面の照り返しに意識が半ばボーっとしてくるころ、稜線から左手の信州側
へくだって、やっと今日の泊まり場、天狗池へ着く。鑓ヶ岳をすぎたあたりから信州側も傾斜
が緩くなり、百メートルほど下がったところにこぶがあり、主稜線との間がくぼ地になっていて
池ができているのである。池といってもそこらの残り雪が消える八月にはなくなりそうな浅く
せまいものだ。

No.5 右が杓子岳、真ん中奥が白馬岳
白馬岳の左のピークは旭岳、間の鞍部の向うに遠く見えるのは朝日岳。ややこしい!
鑓ヶ岳辺りから撮った写真でしょう。(槍ヶ岳とは違います。アア、ヤヤコシ!?)



 夕食は定番のカレー。現在のように食料の保存技術がすすんでいなかったので、生の肉
はこの日あたりまでと記憶している。あとは、味噌漬けにして豚汁だったように思う。それと
て三日しかもたない。その後はよくてコンビーフ、ふつうはソーセージ、それも魚肉の奴が乏
しい動物性蛋白の補給源だった。
 支度をしていると、西さんが「これば使てんナイ」と提供してくれたのが、月桂樹の葉。現在
でこそ、そこらのスーパーで多種多様のハーブや香辛料を売っているし、家庭でも使うことが
珍しくないが、そんな高尚なものにお目にかかったのはそれが初めてだった。「山ン中でも、
ちったあ食べることば楽しまなねぇ」とのたまうご本人、ちょうど新聞に連載されて話題になっ
ていたので、口の悪いのが「ニューギニア高地人」と陰口するのもむべなるかなのご面相。
そんなごつい男が優雅なことを言い出したギャップに驚いたものだ。

第2日目
不帰の嶮(かえらずのけん)の難所を越えて唐松岳、五龍岳へ

 24日。夏山の朝は早い。朝の涼しいうちに行程をかせぎ、気象の不安定になる午後はな
るべく早くテント場に着いて雨を避け、次の日に備えて早く寝るのだ。その為には遅くとも夜
明け前後には出発しなければならない。起床して朝食の支度をしながら身の回りを片付け、
食事がすんだらテントを畳んで歩きだせるように荷造りをする。これを「撤収」と言う。事にも
不慣れな1年生がいると、出発までに3時間近くかかってしまうこともある。だが、さすがに
2年生ばかりだと手早くできる。現にこの山行中終わりの頃は1時間を切ることもあった。
それでも、いよいよ大雪渓を登る前日の朝は2時間半ばかりかかった。なにしろ6人分の食
料、燃料、鍋類、テント二張り等ほとんど全部、我々3人が担ぐのだ。ギリギリまで切り詰めて
計画をたてたのだが、それでも1人35キロ前後にはなる。キスリング型という上の開口部が
幅1メートル位ある大型のリュックに荷物を積めるのだが、収まりきれなくて上の方は開いた
まま、ロープをかけてなんとか収拾をつける。担ぐと頭の高さよりも高くなる。二晩分の食料を
消費してはいるが、テントが夜露をすっているのでさして軽くもなっていない。

 今日は、不帰の嶮(かえらずのけん)を越えねばならない。名を聞くだけでも、どんなところ
か不安になる。「しまって行くぜー」の声で出発。僕たちは30分歩いて5分の休憩をとる。これ
を1ピッチといい、休憩することを「ピッチ入れる」とか「ピッチにしよう」とか云う。その2ピッチ
目で、大きな下りにかかる。地面は岩盤でそれが外傾、つまり階段の踏み板が下に傾いて
いるようなもの。こういう地層を逆層という。瓦屋根を下りるのに似ている。おまけにその上に
岩が崩壊して小砂利を撒いたようになっているので、滑りやすく剣呑だ。荷が軽ければさして
危なくもないのだが、重荷と相まって要注意で気疲れする。百五十メートル程下るのに30分
以上かかったが、休む場所もなく一気に下る。

No.6 不帰の嶮(かえらずのけん)
これも北側、天狗の下り途中から撮った写真だと思います。
ここは不帰の嶮の前哨戦みたいなところで、画面中央の岩場やピークは通らずに
右側をまいていくので、困難は何もないところ。
画面上辺まん中のピークが前の写真の第1のピークです。



No.7 不帰の嶮(かえらずのけん)の尾根
北側、天狗の頭辺りから望遠で撮った写真だと思います。
左の信州側の緑の多い急傾斜の上縁ちが主稜線で、ルートは大体これに沿っていますが、
手前第1のピークは左側の岸壁の下を緑の縁の沿って左へ廻り込んで稜線を越え、
右の第2のピークへは上らずに(写真では見えない)左の中腹をまいて行きます。




 下りきったところでピッチをとり、平坦だが大きな岩がゴロゴロしたところを過ぎると、岩の稜
線がいきなり立ち上がっている。
いよいよ不帰の嶮だ。とっかかりは十メートルほどの岩壁で鎖が下がっていた。

No.8 不帰の嶮の核心部・その1
とっかかりの鎖場を過ぎてしばらく行った辺りか?
遠くから見ると困難に見える場所も、近づけば、 結構手がかり足がかりがあって、
少し岩登りの経験さえあれば意外に簡単なのです。
蟻サンになったようなもんです。
本文中には
「ルートは信州側の岩交じりの急斜面にとられている。」
と書いていますが、どうも記憶違い。
前の写真から見るとほとんど黒部側で、信州側は次の写真の辺りだけ。



「オーイ、鎖に頼るなー、かえって危ないぞー、自分の手足で登れー」と後から声がかかる。
先刻承知。こんな場面ではいつもこう云われているから慣れているのだ。ルートは信州側の
岩交じりの急斜面にとられている。一,二ヶ所、横ばいで通らねばならない所もあったが、心
配していた程の難所ではなかった。実は、これを書いている現在、きわだった記憶がないの
で、そう思うのかもしれない。その時は、緊張して余裕もなく登ったのかとも思う。

No.9 不帰の嶮の核心部・その2
新しい写真 不帰の嶮もあともう少し
正面の岩峰へはとても直登できない。
ここから左へ岩壁の下をまいて、向こう側へ回り込めば、
難所はもう終わりです。



 ともあれ、不帰の嶮を無事に越え、続く唐松岳も越えると黒部側の斜面が一面の草地だっ
た。岩場ばかり歩いてきた目に緑がしみる。だがそれもすぐ終わり、また痩せた稜線の下り
だ。それでも、土の地面にところどころ岩が混じっている程度で、それも長くは続かなかった。

No.10 唐松岳
これは南側からの写真。右へ延びる尾根が八方尾根。
中央のピークのから手前へ一段下がった辺りが、唐松山荘かな?



このあたり、標高も二千五百メートル内外で、植物の背も高くなり、人の背丈ほどの這松か
五葉松の林があったり、笹の原があったりする。こういう草いきれのするところは蒸し暑くて
弱いのだが、さいわい霧雨模様になり涼しい。きっと雲の中を歩いているのだろう。なだらか
な白岳をこえるともう五竜山荘で、今日の泊まり場はそのすぐ先だった。夕刻には、雨がパラ
パラ降ってきたが宵の口だけで、夕食の後片づけを終える頃にはあがる。就寝前、用便に出
ると、行く手に平らな頂上の五竜岳が城塞がのしかかるように高まっていて、その上に満月
が寒々とした色でかかっていた。

No.11 五竜岳
北側、白岳から撮った写真だと思われる。左下、人がいる辺りが五竜山荘。
中央、天守台みたいなのが五竜岳。
後立山を「ごりゅうざん」と読んで「五竜」になったとも。



第3日目
八峯のキレットを越えて鹿島槍ヶ岳から爺ヶ岳へ

 25日。早朝四時頃に起床。五時半頃には出発したと思う。五竜岳の頂上までは、陽が射
さぬ早朝の涼しさもあり一時間足らずで着いた。ルートも岩場だが広い山腹にとられている
ので登りやすかった。その反面、南側に下りだすと昨日の天狗からの下りと同じ逆層に小砂
利。その上、昨日のは幅広い川底状の地形だったのに比べて、痩せた稜線で両側が切れ
落ちている。下りのところは快調にとばして行程を稼ぎたいのだが、逆行してくる登山者もい
て、なかなかはかどらない。この日も快晴で暑さもあって、イライラしてくる。ひとしきり降って
からは、おなじような尾根道が登ったり降ったりダラダラと続く。
 やがて、今日の難所、八峯のキレットにつく。 【キレット】 というのは、稜線が鋭く切れ落ち
ているところを云う。これは信州の言葉で、越中では 【窓】 というようだ。語感として キレット
の方が鋭さが出ていて感じがよくでているように思う。英語ではギャップだ。今までさして高
低もなくダラダラと続いてきた痩せた稜線が十メートルも落ち込み、やっと人一人立てるくらい
の最低部の向こう側は岩壁がぐーんと立ち上がっている。黒部側は鞍部から狭い谷が落ち
込んでおり、左の信州側は絶壁だ。鞍部へ降る少し手前、稜線の左側に低くへばりつくよう
にキレット小屋が建っている。行き交う登山者が結構多く、ちょうど道路工事中片側一方通
行のように順番待ちなので、ついでに昼食大休止とする。

No.12 八峰のキレット
北側から。向うの黒い岩壁を右へまいてから、左上の鹿島槍へ登っていく。
当時は、人がいる最低点から右上の尖った岩へ直登していたのだが、
現在は右の岩壁の下を手前へまいていく路ができたようだ。



 三十分の昼食休憩を終えると道も空いてきたので出発。鞍部の底までは岩登りの要領で
後向きに降り、向き直って向こう側の岩壁を狭い足がかりを伝って右に横ばいしていく。高
校入学以来岩登りはみっちりやっているので、さして怖くはないが、なにしろ肩幅の倍くらい
横幅のあるザックを背負っているので身動きしにくく、やや緊張する。十数メートル程で、ル
ートは登りに移る。ずっと急傾斜でザックを置いてゆっくり休む場所もない。担いだまま斜面
に荷物を預け、立ったままでしばしの休憩をとる。眼下にさっきのキレットから発する沢が見
える。今いるあたりからの落石が多いのだろう、沢は赤茶けた岩でうずまっている。やがて
北に向きをかえて五竜岳の西あたりでさらに再度西を向いて黒部の深い谷に続いていくよ
うだ。
今までずっとこんな景色を見ていたのに、このとき初めて黒部の谷の深さと広さを実感した。
いつか、この沢を遡行してみたいものだと思った。

No.13 黒部峡谷
と云うよりも、これは黒部湖ですなア。ずっと南、針の木岳辺りからの写真と思う。
鹿島槍辺りからは黒部渓谷は見えない。湖面中央の白い船からまっすぐ上の稜線の辺りが
五色ヶ原、一番右のピークが立山の雄山、左の雲が懸かっているあたりが薬師岳。



さらによじ登って行くと、やがて緩やかになり、一時間ほどで鹿島槍の北峰をまいて吊り尾
根にでる。鹿島槍は有名な双耳峰で、稜線が二つの峰の間に吊り橋をかけたようなので、
こう呼ぶのだ。吊り尾根の信州側には大きな雪田があり、水の補給をかねてまた中休止。
急傾斜で休む場所もなく、ほとんどノンストップで登ってきたのだし、なにしろこれで今合宿の
前半の難場を終わったのだから、お祭り気分だ。

No.14 鹿島槍ヶ岳
朝日に映える鹿島槍、デス。北側、五竜辺りから。双耳峰と云われるのがよく判る。
右の南峰の右肩に遠く見えているのが、穂高連峰?
左の北峰とを結ぶ吊り尾根からチョコンと顔を出しているのが、槍ヶ岳か?



 南峰を越えると、ルートはしだいに緩やかになり、尾根も信州側はこれまで同様切れ落ちて
いるが広くなる。道も地道で歩き易い。ザッザッ、ザッザッ、と靴音も快調だ。辺りに植物も多
く目に心地よい。緑のゆったりした斜面が黒部側に連なり、間に在る筈の黒部峡谷をはさん
で向こう側に剣の山塊が雄大に見えている。これまで険路続きで足下しか注意しておらず、
この辺ではじめて景色を見ながら歩く余裕ができたのだ。
 すでに陽は西にまわり右の頬にさしている。縦走路は信州側に切れ落ちている縁を付かず
離れずしてのびている。谷底からだんだんと雲が湧きだし稜線にまで達しようとしていた。
その雲に僕たちの影が落ちているのだが、ふと気がつくと自分の影の頭の周りに後光が差
したように見える。ブロッケン現象だ。ウィンパーのマッターホルン登頂記で読んでいたので
、ピンときた。さすが三千メートルの山だと嬉しかったが、まだ明るいせいかボンヤリとしたも
ので、なんだこんなものかとがっかりもした。
 南峰から1時間ばかり降ると、冷池(つべたいけ)のテント場に着く。だが池は干上がってい
る。十分ほど先の小屋で水を分けてもらえるか聞てくるように云われる。もし、だめなら2時間
ほど先の種池まで進まなければならないので、大人達は荷物をほどかずに待っているという。
あるだけのポリタンクを集めて三人で行ってみたが、有料だし分量も制限している。仕方なく
引き返し、また歩き出す。去年スゴ乗越でバテたことを思い出し嫌な予感がした。冷池の乗越
を過ぎると前途は緩やかな登りになる。落胆もあり疲労感がつのる。主稜線はこの先の爺ヶ
岳から右に急カーブし、またダラダラと同じ位の高度まで下がったところに目指す種池小屋が
あり、それが見えているのだからたまらない。あそこまで頑張ればいいのだと、自分に言い聞
かせながら歩くのはやるせない。

No.15 冷池乗越
南側、高千穂平への別れ辺りから。赤い屋根が冷池山荘。
冷池は小さい小汚い池でがっかりする。むこうは剣岳。
大きな二つの雪渓は右が小窓の、左が三の窓のそれ。
「乗越」とは所謂、峠、鞍部のこと。
山腹を這い登ってきて稜線を乗り越すという感じがよく現れている呼称だと思う。



 そのうち、さっきの雲がとうとうここまで上がってきて、パラパラ雨粒も落ちだした。涼しくなり、
やれ助かったと思っていると、ゴロゴロ、ドッカーン。雷だ。「荷物下ろせーっ、低いところに離
れて、ハイ松の下に伏せーっ」と横田さんが言いざま、自分はピッケルを持って数十メートル
すっ飛んで置きに行った。金物が危ないのだ。僕たちは未経験だったが、彼は以前、間近な
落雷にあって非常に怖い思いをしたのだという。やがて雷は遠のき、また歩き出す。雨の方
はやまず濡れて冷たくなったのでヤッケを着る。本来ヤッケは防風衣なのだが、あの頃は現
在のように軽くて良い雨具が無かったので仕方なしだ。
 爺ヶ岳の手前で、稜線の信州側直下に雪田を発見した。テントもなんとか一張だけは張れ
る平地もある。急遽そこで泊まることになった。指定のテント場ではないが、先の種池で水が
確保できるか判らないのだから、やむおえない緊急措置だ。これまで僕たち二年生三人と荷
物を収容していたほうのテントに六人がぎゅうぎゅう詰め。荷物は、ツェルトという簡易テント
で覆うことにする。雨の中、鍋に雪をとり夕食の準備をしていると、国立公園巡視員が通りか
かって、見つかってしまう。しばらく檜垣先生と折衝していたが、始末書をとられ、明日早々に
テントを畳むということで、勘弁してもらった。
 夕食後、重大なことが発表される。明日は、すぐ先の種池までで、半日休養にあてることと
する。明後日、体調のすぐれない檜垣先生と登山靴が破損した大田は下山し、残りの四人で
穂高まで行くことになった。実は、昨日あたりから大田の靴はイカレかかっていたのだが、と
うとうパッカリと口を開けてしまった。靴の甲と底を縫い合わせている糸が切れてしまったのだ。
針金をぐるぐる巻いて応急処置としていたが、この先の行程に持ちそうもない。こういう時の
為に従来は予備に運動靴を一足持参していたが、今回は軽量化をはかってやめにしていた。
大田は自分の靴の危ないことが判っているので持参を主張していたのを、僕が押し切ってし
まったのだ。三人とも去年買った靴なのに、守田や僕の靴は何ともないのだから、普段の手
入れや歩き方の差で、彼のだけ傷みがひどいのだ。もとはといえば彼自身が招いたことなの
だが、意気消沈している大田を見ると、気の毒になり申し訳ない気もした。

第4日目
種池での沈殿

 26日。今日は指呼の間の種池まで、三十分あまりで終わり。池の水は供給源の雪田が
もう溶けてしまっているのでなまぬるく、たまり水なので塵芥も浮いている。黒部側に少し
下りた水場まで汲みに行ったような記憶もあるがあいまいだ。行動せずに一ヶ所にじっとし
ていることを、僕らは沈殿という。雨や雪に降りこめられてやむなくする場合もあれば、休養
の為にあえてすることもある。今日はいくらかでも歩いたのだから、云わば「半沈」だが、天
気はいい。縦走中のこのような休養日は非常に嬉しい。昨日の雨で濡れたものを干したり、
明日下山する二人に託すために荷物を整理したりもするが、のんびり昼寝もできる。なんと
なしに気分は浮き浮きしているが、大田は悔しかったことと思う。
 ところが天佑神助があることもあるのだ。昼過ぎ、冷池のほうから懐かしい顔触れのパー
ティーが到着した。去年、僕達に随行してくれたA先輩の仲間で、福岡の北稜会という社会
人山岳会の人達だ。実は、去年も僕達とほとんど行動を共にしていた。その後も、福岡周辺
の山でよく顔をあわせて親しくなっている。今年も僕達と同じコースを1日遅れでたどってき
たのだという。この中に、本職の靴屋さんがいたのだ。早速、修理してくれた。これで、大田
もあすから一緒に行くことが出来る。しかも、彼らは明日ここから下山するのだという。まった
く偶然とはいえ、昨夕あそこで雪田を発見していなかったら、今日ここで半沈にはなっていな
かっただろう。そうであれば、今朝も下山組と二手に分かれていつものように早立ちして、大
田の続行はかなわなかったことになる。後のその日は、嬉しくて、いつにもまして、賑やかな
僕達だった。

No.16 爺ヶ岳より種池山荘を望む 奥、右端は剣岳
前途は左へ続いて行く。

剣の右、まっすぐ手前に下っているのが、三の窓の雪渓。
頂上すぐ右下は「剣岳 点の記」で一行が登る長次郎の雪渓。
正面が別山(べつざん)、その右に剣御前が顔を出している。
左へいって白っぽくなだらかなのが真砂(まさご)岳。
それから、鋭く尖って富士ノ折立(おりたて)、大汝山、雄山と続く。