後立山縦走記〜白馬から穂高まで (後編)  (四十年目の報告) by 武藤和尚

第5日目
針ノ木岳から黒部の谷へいったん下降。

 27日。檜垣先生や北稜会の人達と別れる。彼らはここから大町ルートの扇沢駅へと下り、
北稜会の人達はすぐに帰福。先生は松本市で僕らが下山するのを待つという。先生には、
テント一張りやその他不要になった品々をお願いしたので、僕達の荷物も随分と軽くなって
いる。半日の休養で疲労も回復し、足取りもかるくずんずん快調にとばす。道も良く上り降り
も適度な程度で、身も心も晴れ晴れとして歩く。新越乗越の辺りで、先頭を行く僕の前を、
雷鳥の一家が道案内をするように、しばらく小走りに歩いたのも楽しい想い出だ。黒部の対
岸は立山の峰々や五色がヶ原から雄大な薬師岳、黒部湖も眼下に大きく見えてきた。信州
側も見える限りずーっと遠くまで幾つかの山塊が散在している。八ケ岳や南アルプス、戸隠
や上越の山々まで見えたのかもしれないが、その当時はどれがどれやら知らぬままだった。
富士も見えたと思うが記憶が定かでない。

No.1 新越乗越
まさにこの写真のあたりで雷鳥一家と歩いた。
後立山で一番のんびり歩けるところ。
現在はこの写真の手前に、当時はなかった、新越乗越山荘が出来ている。
あるサイトで「しんえつじょうえつさんそう」とよんでいるのに出くわして吃驚仰天!
「しんこしのっこし」だからネ。



 朝から、付かず離れずで、同じく南へ向かうパーティーがあった。千葉方面の大学山岳部
の三,四人の一行。剣から黒部を横断して白馬岳へ上がり南下してきた様子だ。長旅の終
わりに近いのだろう、背中のザックが小さくなっている。ところが、彼らと僕らのスピードがあ
まり変わらないのだ。彼らは1時間ピッチ、僕らは30分ピッチだから、僕らが2回休憩をして
いるときに追い抜かされるのだが、そのうちまた彼らの休憩の時に僕らが追い越す。出会う
度に会釈するが、向こうは高校生に負けたようで苦笑い、こちらはしてやったりのニタリの笑
いである。
 白馬からおよそ一直線に南下してきた後立山の主稜線は、昨日の爺ヶ岳で九十度右、西
に方向を変え種池を少し過ぎたあたりからまた、西南へ向きをもどし、岩小屋沢岳、新越乗
越、鳴沢岳、赤沢岳と続く。鳴沢岳と赤沢岳の中間あたりの地下を黒四ダムの東側の建設
道路、大町ルートは走っている。赤沢岳からまた南へ方向転換し、スバリ岳、針ノ木岳と走り、
針ノ木岳から今度は左九十度、東へまわり、佐々成政の雪中横断で有名な針ノ木峠から蓮
華岳へ至り、更に右九十度以上に大転換で北葛岳。さらに西へ折れて船窪岳へ。少し過ぎ
てまた左へ曲がり不動岳、南沢岳、烏帽子岳へと南下する。地図でみると爺ヶ岳から南沢
岳まで巨大なS字を描いている。南北に並んでいた後立山が、南側からぐっと押されてグニ
ャリとS字に曲がったような感じだ。

No.2 針ノ木岳(飛騨側)
飛騨側って、これもほとんど信州側ですゼ。
蓮華岳辺りから望遠での写真でしょう。
右奥、剣岳から左へ前剣、剣御前と続いている。



No.3 針ノ木岳(信州側・下から続いている雪渓が日本三大雪渓の針ノ木大雪渓
岩小屋沢岳か遠く爺ヶ岳あたりから望遠で撮ったものでしょう。
頂上から右へ双耳峰をなしているのはスバリ岳。
針ノ木との間が鋭く落ち込んで見えるが、
針ノ木から北西へ延びる尾根とのかねあいでそのように見えるだけ。
右奥、なだらかな右上がりの稜線は薬師岳かな。
針ノ木の左奥は黒部五郎岳か?



 スバリ岳のあたりで昼食をとり、針ノ木峠に着いたのは二時近くだった。本来なら、稜線通
しに蓮華岳、北葛岳、船窪岳と進みたいところだ。ところが、ガイドブックなどには蓮華岳と船
窪岳の間は非常に難路だとある。本によっては登山路の線が入ってないものすらあった。
コースタイムを計算しても、針ノ木峠から次のテント場の烏帽子岳までどうしても一日では無
理だ。そしてこの間には泊まれる場所がない。しかたなく、ガイドブックにあるもう一つのルー
ト、針ノ木峠から黒部の谷に下る針ノ木谷を下り、谷の途中「南沢出合」とある地点からまた
稜線へ登りなおすルートを選んだ。
 縦走しているのに、稜線を離れて谷に下りまた稜線へ登りなおすなんて、言語道断。しかも
向こうに見えているところに五百メートル近くも下ってまた登るのだから、まったく嫌になる。
六年後にこの空白部分を埋めに行ったのだが、よほど人が通るのが稀なのだろう、道は荒れ、
判り難く、壊れかかったはしごがあったり、どうかするとザイルが欲しくなるような所もあり、
不帰の嶮や八峯のキレットよりも気疲れするようなコースだった。 「くそっ、誰かあっちまで
橋かけてくれー」などと云いながら、ずんずんと針ノ木谷へ下る。午後の日差しが顔をジリジリ
と焼くが、「おうい、今日は雪解け水で行水できるぜぇ」と、気だるい心にむち打って下る。ひと
しきり下ると、谷の主流に着いたのだろう、傾斜は緩いが水量豊富な流れに添って歩くことに
なる。いつのまにか、木々が背丈を越し、久しぶりの木陰の風も心地よい。3時を過ぎた頃、
「南沢出合」はまだ先のようだが、流れのそばにやや開けたところがあり、今日はここまでに
する。とは言え一昨日のようにまた巡視員につかまると厄介なので、日暮れまでテントは張ら
ず、夕食だけ作り休憩しているような振りをする。だが、通る人も無くこの気遣いも杞憂に終わ
った。杞憂といえば流れの水はまさに雪解け水、食器を洗う手がじんじんしてくるほどで、とて
も行水などできる温度ではなかった。ごうごうと騒ぐ水音が耳慣れないが、ゆっくり行けば二
日分の行程を飛ばしてきた疲労が、すぐに眠りに引きずり込む。

第6日目
船窪岳から烏帽子岳へ

 28日。谷底なので、いつもより朝が暗い。歩き出して、三十分もすると、「船窪新道」という左へ分
岐する道標があった。「武藤、お前、南沢ば登って稜線へ出るごと云うバッテン、俺はそげな道知ら
ん。どっちにしたっちゃ、先はおんなじやけん、これば登ろう」と横田さんが云う。プランを起てたのは
僕なのだが、経験は彼の方が上だ。なにしろ、昨年は大学の山岳部で槍から白馬まで北上して、
黒部を渡って剣へ、それから南下してまた槍までと、北アルプスぐるり一周をしているのだ。不承不承
ながらも、従わざるを得ない。
 道は、いきなり胸を突くような登り。しかも、「新道」というだけあって、樹林帯を切り開いたばかりで
草いきれもする。僕がいちばん苦手とする状況だ。ぜえぜえと息切らしながら、二時間程の直登。
現在、地図で確認すると三、四百メートルばかりなのだが、苦しかった。やがて、船窪岳の東側の鞍
部に到達。向こう側をのぞき込んで驚いた。大崩落。辺り一面、山崩れの痕なのだ。この辺りは花こ
う岩を細かく砕いたような砂質の地面なので、崩れやすいのだろう。前述したように、やはり何か大
きな力が加わって、山を形作る岩塊が押しつぶされて砂質になったような印象だ。

No.4 船窪岳の東側からの展望
山肌の白い所は岩壁ではなく、砂質。
崩落してまだ樹木が茂る前だと思われる。
左の遠く鋭いのは槍ヶ岳だろう。



 ルートはここから稜線通しになるが、しばらくはまだ樹林帯の中。小さいが急な登り降りを繰り返し
ていく。砂質なだけに滑りやすく、所々道も崩れて速成のはしごがかかっていたりする。けっこう難路
だ。それでも次第に高度を稼いでいたのだろう、やがて這松帯にでる。ところが、横に延びる這松の
枝を切り落として除けただけの道だ。道と云っても、切り落とした下にある枝を踏んでいくのだから、
これまた非常に歩きにくい。
 結局、「南沢出合」からのルートはなかった。やはり横田さんの経験の方が正しかったわけだ。僕が
「南沢出合」を固執したのは、当時よく売れていた「山日記」という登山手帳に、簡単なルート図では
あるが、記載されていたからだった。人が余り通らない処だからいい加減な図面にされたのかもしれ
ない。出版物でも信用できないこともあるのを身をもって体験したわけだ。或いは僕の解釈が間違っ
ていたのかもしれないが、もしあれで南沢に迷い込んで遭難という事態になったら、出版社の責任は
どうなるのかと、現在にして思う。

No.5 烏帽子から下降する尾根
烏帽子のすぐ北側稜線からの写真?



 この日は、登りのきつかったことと、船窪岳前後の歩きにくい道の印象だけで、あとは大して記憶に
ない。不動岳から南沢岳あたりはまた、アルプス的な岩交じりの道になった筈なのだが、さっぱり憶え
がないのは、疲労の所為もあったのだろうか。南沢岳を越えてほとんど起伏のない、池塘(小さな池
)が散在するなだらかな斜面をとおり、名前の通りとんがった岩の烏帽子岳の頂上を右に見る頃には、
また小夕立。烏帽子小屋の先、烏帽子池の畔のテント場に着いたのは、午後三時は過ぎていたと
思う。雨雲のせいで薄暗く、もう夕暮れの光景だった。

No.6 烏帽子岳頂上
北側の南沢岳から撮ったと思われる。中央が頂上の烏帽子岩、
左下の縦走ルートから見上げると烏帽子状に見える。
ここは、2度通ったが頂上へは行かずじまい。



第7日目
野口五郎岳から鷲羽根岳、三俣蓮華岳へ

 29日。今日も快晴。もう朝の撤収も素早くなって、日の出前に出発。いよいよ槍ヶ岳が大きく見え
だした。三ッ岳までは二百五十メートル程のダラダラした登りだが、道がよく一時間もかからない。
まだ涼しいので快調に歩けて、休憩するのが勿体ないくらいだ。三ッ岳は頂上を通らず黒部側をまい
て、西側の肩へ出る。そこは広く平坦な尾根で、軽飛行機なら離着陸出来そうだ。土埃を被って見え
ないがどこかに残雪があるのだろう、水が湧きだすようにチロチロ流れている。歩きながらヒョイと腰
をかがめて、冷たさを手で味わう。こんなことが出来るくらいに、背の荷物も軽くなってきているのだ。
道はわずかな投降を繰り返しながらだんだんと高くなる。烏帽子岳からおおよそ地道だったが、野口
五郎岳が近づくにつれて名前のとおりゴロゴロした岩の道になる。二,三十センチ程の岩塊で辺りの
地表が覆われている。信州だったか、飛騨だったか、こういう地形或いは岩塊を【ゴーロ】といい、そ
れが訛って五郎岳だという。黒部の谷の最奥部にも黒部五郎岳がある。こちらが何故、野口五郎な
のかは知らない。同名の歌手は、この山名をもらったと知るのは後のこと。

No.7 野口五郎岳
場所は、正直どこか判りません。
強いて云えば、左へ高まって急に下っているのが鷲羽岳だとすると、
野口五郎岳から真砂岳の間かな?ゴーロの感じがよく出た写真です。



 ゴロゴロしているわりには、岩が踏まれて落ち着いているので、道は歩き難くはない。前にも述べた
が、この辺りは裏銀座コースと云われているように景色は良いし、道も険しくなく、登山者と行き交うこ
とも多い。昨日は一日ほとんど人に出会わなかったのとは、えらい違いだ。山の決まり事に行き合うと
「今日は」と声をかけあうというのがある。ところが、こんなに人が多くては、わずらわしい。重荷にあえ
いでいるときなんかは腹が立ってくることもある。今日のように快適だと機嫌よく挨拶を返すが、それ
でもだんだんみじかく「ハイ」、「ウッス」となってくる。しまいにはもう黙殺である。
 稜線は徐々に西に向きをかえる。右側の谷は東沢谷という黒部の支谷だが、広々と開けていて明
るくのどかな印象である。眼下には高原状の地形もあり五郎池が見えている。先を急ぐのでなかっ
たら、下りていってしばらく逗留したいほど魅力的だ。対して、左側はこれまで同様急な斜面だ。こち
らは、これまでのように信州側と云うよりも、湯俣川の谷と云ったほうがよいだろう。その湯俣川から
北鎌尾根が突き上げている槍ヶ岳は、山肌の襞が見分けられる程近くになった。だが、僕達は槍を
横に見てさらに進み、西側に大きく迂回してから、明日そこに登りつく予定だ。
 やがて、【ゴーロ】が赤茶けた砂利にかわり、やや痩せた稜線を登ると水晶小屋につく。ここから、
十キロ足らずの尾根が北へ走り、これが黒部の本谷と東沢谷を分けているのだ。行くてはまた南へ
かわり、右に祖父岳から雲の平への分岐点を過ぎ、ワリモ岳、鷲羽岳と続く。このあたりはまた白茶
けた岩道で、日も高くなってきたので暑くなる。鷲羽岳からは、これまでの水平歩道とは打って変わっ
て急な降り。水平距離が約一キロに対して、四百メートルも降るのだから、およそ三十度。三角定規
で見れば大したこともないように思えるかもしれないが、実際に上に立ってこの傾斜を見下ろすと坂
の下が足もとに見えるほど急なのだ。坂の途中、左手に青い水面をみせている鷲羽池に飛び込めそ
うに思える。

No.8 鷲羽岳と三俣山荘テント場
たいしたことないように見えるけど、上から下ってくるとスゴいんだから。



 坂を下りきると、黒い地道の緩やかな斜面になり、三俣山荘につく。あたりは広大な鞍部になって
おり、ここが信濃川につながる湯俣川と黒部川の分水点だ。降ってきた勢いのまま、三俣山荘も少し
先の最低点も通り越し、向かいの緩斜面に駆け上がっていく。登りつくと三俣蓮華岳の東の肩、右に
見える頂上からおりてくる道との合流点だ。去年はその道をおりてきたのだから、これで北アルプス
のY字の主要稜線はほぼ全部歩いたことになる。辺りはカール状の地形で、緩斜面の草原に小川が
チロチロ流れている。まったく牧歌的な光景で、ゆっくりしたくなる場所だ。実際、前年僕達はここで一
日のんびり晴天沈殿したのだった。それは槍への難路、西鎌尾根を前にして英気をやしない休養させ
ようというA先輩と檜垣先生の意図だったのだろう。あたりを散策し、雷鳥と戯れたり、小川のせせら
ぎに疲れた足を癒したり、楽しい一日だった。
 だが、今年の僕達は違う。二,三日前から横田さんが「お前達ぁ、強かぁ」と云うほど、身体は疲れ
ていても気分はイケイケなのだ。三俣蓮華岳から双六岳への稜線を右上に見ながら山腹をどんどん
進む。この高度には珍しい岳樺の林を過ぎ、三,四十メートル急登すると這松の台地。進路はだん
だん左、つまり東へとカーブしていく。やがて、這松の中を百メートルばかり雪崩れ落ちるように降る
と、鞍部にでる。前方も急な登りになっているが、その間は広やかな平地で、右手に双六池がある。
その畔りが今日の泊まり場だ。この日も到着は三時頃だった。夕食時、台風が近づいているような
ので、明日は槍から降るかもしれないと言い渡される。本来は僕達三人のうちの誰かが気象係で天
気図をとっていたはずなのだが、いつの間にか西さんが役割を分担してくれていたようだ。

第8日目
槍ヶ岳から大キレット、涸沢へ

 30日。朝の撤収もますます素早くできるようになって、この日も夜明け前に出発。眼前の樅沢岳へ
の二百メートルほどの急勾配を一気に登ったところで、陽光が射す。まだ夜明けの涼しさが残ってい
るが今日も暑くなりそうだ。尾根に連なるこぶを右へ抜け左へ廻り込みしていくと、硫黄乗越。あたり
は名前のとおりいかにも硫黄が出そうな火山性の岩だ。このあたりから槍へつながる稜線は南東を
向き、だんだんと痩せていく。

No.9 双六岳から見る槍ヶ岳 左側に連なるのが北鎌尾根
次の日に比べるとなんと此の辺りの穏やかなことか。
目の前の路がすぐこの先で250メートル程も下って、双六の乗越。
明日はまた一気に200メートル、すぐ前の樅沢岳まで登るんだから
イヤになっちゃうネ。



 槍ヶ岳は、地図で見ると丁度十字架のような形をしている。南に延びる足は大喰(おおばみ)岳、
南岳を経て穂高へつながる。あとの三本はどれも痩せ尾根で、東へのびて西岳へつながるのが東
鎌尾根でこれはさらに赤岩岳、大天井(おてんしょう)岳から燕(つばくろ)岳や常念岳へつながる。
北へのびて湯俣川へ落ち込み千丈沢と天上沢をわけているのが北鎌尾根で、これはある程度岩登
りの経験がないと踏み入ることができない。最後に、西へのびているのが、今僕達が登っている西
鎌尾根だ。
 鎌尾根という名前から鋭くやせ細った怖い尾根を想像するかもしれないが、実際に歩いてみるとさ
ほどのことはない。たしかに両側とも急傾斜に落ち込んでいるが、鎌の刃先を歩くわけではない。ル
ートは痩せ尾根を上手に右に左に迂回しており、やや緊張する処も二,三ある。しかし、去年経験し
ている僕達には何程のこともないので、ぐんぐんと槍へ近づいていく。小さな登り降りを繰り返していく
うちに、珍しく登りがしばらく続くと思ったら、ルートが稜線から外れてすーっと右の飛騨側に廻り込む
。いよいよ槍への最後の登りだ。あたりは、上部から崩壊して落ちてきた石ころが堆積したガレ場だ。
 日差しは槍から南へのびる稜線に遮られてまだ日陰である。ここで一息つきたいところだが、「休
まんぞー、行ってしまえー」と後から声がかかる。こうなりゃ気合いだ。「よっしゃー、行くぜーっ!!」、
「おうーっ」。これまでも、登りがつづき気分がだれてくると度々こんな気合いを入れてきた。すぐ後の
大田はときどき呼応して声を出すが、守田はほとんど黙ったまま。本人曰く「お前達のごと馬鹿声張り
上げよったらかえってきつか」。槍が目前なので気分が高揚し、気合いの連発。「そりゃ、そりゃ、そり
ゃ、そりゃーっ」、「ヘイ、ヘイ、ヘイーッ」、「ファイト、ファイトーッ」。まるでローハイドだ。下りてくる人が
、びっくりしてあわてて道をよける。

No.10 いよいよ槍、目前
前の写真と同じ場所、或は樅沢辺りから、
もっと望遠を効かしたものかな?
左の北鎌尾根から一度登りたかったなぁ。
右の槍の肩の向こう側が槍岳山荘。間の鞍部へこちら側から登り着く。



 最後に左へ登り、急に傾斜が緩み、日なたへ出たと思ったら槍の肩だ。目の前に百メートルほどの
黒い岩峰がそそり立っている。その上が槍の頂上だ。去年のA先輩は「ここまで来たら登ったとと同
んなじたい、上までいかんでもよか」と云い、僕達にも登らせなかった。今年の横田さんは「おう、よう
頑張ったねぇ。せっかく来たッチャモン、行ってきやい」である。「俺は上で天気図とるケン先に行くぜ」
と、西さんがラジオを持って駆け登っていく。午前のNHKの気象通報は9時。双六池を出発した時間
は憶えていないが、早くても5時。樅沢岳で朝日を浴びたのが6時だったような記憶もある。いずれ
にしても、四時間たらずで登ってきたのだ。これは相当のスピードだと云ってよい。横田さんが登頂を
快く許したはずだ。
 ともあれ、僕達もサブザックに水筒、間食をもって頂上へ向かう。頂上まではちょっとした岩登りだが、
この一年間、毎週のように野北の岩場や阿蘇の鷹ヶ峰でロッククライミングしていた僕達にはお茶の
子だ。怖がって歩みののろい登山者に混じって順番に進むのがじれったい。
 二年越しにやっと来た槍の頂上は、六畳敷位の広さ。そこに二十人ばかりが群がっているのでぎっ
しりだ。四周は北アルプスの大パノラマである。東は眼下の東鎌尾根から大天井、燕への表銀座、
常念から蝶ヶ岳。遠くに南アルプスとその向こうの富士山。南は穂高の連峰とその向こうに焼岳。
遠くに御岳山。西は今日登ってきた西鎌尾根のむこうに双六岳、そこから南にのび笠ヶ岳に至る大
きな尾根。さらに双六から三俣蓮華、黒部五郎とのび北へ廻って雄大な薬師岳、五色が原、立山、
剣と続く去年歩いたコース。薬師の手前には雲の平も見える。北は、足もとから始まり眼下に見える
湯俣川に雪崩れ落ちる北鎌の岩尾根。湯俣川から視線を上げれば、昨日まで歩いてきた裏銀座か
ら後立山の長い峰々の連なり。はるか向こうに白馬も見える。左の稜線が緩やかに上がり右に急に
落ち込む特徴のあるスカイラインでそれと知れた。向こうからこっちを見た時と同じに、はかないほど
小さい。あの時は期待と不安だったが、今ははるばると歩いてきた達成感と誇りにに満ちている。
「おう、あすこから来たとぜぇ。よう来たねぇ」とわざと声高に話す。それとなく廻りの人達に自慢したい
のだ。
 続々と人が登ってくるので、いつまでもいられない。西さんの天気図とりも終わったので、順番待ち
の人と交替して下りる。さて、天気図作成の結果は、今日明日中に悪天候になる恐れはないとのこ
と。ただし大事をとって、南岳泊まりの予定だったところを足を伸ばして、今日中に涸沢まで行くことに
なった。念願だった大キレット越えをやれるのは嬉しいが、今日中に通過するのは大変だろうと不安
にもなる。まあ、その場で急に行動延長を言い渡されるのよりは、ショックは軽いのだが。

No.11 ふりかえれば大槍、小槍
頂上の左、尖っているのが小槍。孫槍、ひこ孫槍もあるそう。
山荘前は夏場は雑踏です。



 槍の肩の槍ケ岳山荘は、ちょっとした旅館並に大きく、登山者も多く、あたりはガヤガヤしている。
その前を抜けて、南へ向かう。これからまた北穂高岳までは、未知の道だ。稜線が少し下がると飛騨
乗越。左は大きく開けた槍沢が横尾へむかって下っている。右も開けた飛騨沢が新穂高温泉へむけ
て下がる。両方とも目の届く限りは大小の石が堆積するガレ場だ。そしてこれから通る南岳への縦走
路もガレ場続きの印象しかない。後年もう一度ここを通っているのだが、不思議とそのときも大して印
象に残る記憶がない。槍と大キレットという劇的な場面に挟まれて影が薄いのだろうか。
 ギラギラ照りつける太陽の下、白茶けたガレの照り返しで暑い中を大喰岳、中岳、南岳と進む。途中、
どこかに雪田がありそこで休憩した憶えはある。南岳まで大して起伏もないのにしんどいのは、槍の
登りで頑張り過ぎた反動だったのかもしれない。ゆるい起伏の南岳の頂上は南へ傾いた台地状になっ
ていて、その端に小屋がある。その先が大キレットだ。

No.12 大キレットのある縦走路・向こう側の南岳から一行は縦走
北穂高の頂上から少し東へ下りた辺りからの写真でしょうか?
結構カッコイイ岩峰が目立ちますねえ。
2度通ったのに気づかなかったなあ、若いときなら登りに行きたくなったでしょうに。



 前はポッカリと大きな空間が落ち込んでいて、左は横尾本谷へつながる大カール。右は幾筋もの小
さく急峻な谷が、岩の山肌に襞を刻み込みながら全体として絶壁を形作っている。滝谷である。間に、
両側から削れるだけ削ったような細い尾根が、足もとから走り下りまた吊り上がっていく。上りついたと
ころが、北穂高の頂上。大きな吊り橋の支柱の上に立ってもう一方の支柱を望めばこんな具合だろう。
地図で測れば彼我の距離約千五百メートル、向こうの北穂高の方が百メートルほど高く、最低点まで
の落差約二百五十メートル。ただし、尾根の両側がさらに二,三百メートル落ち込んでいる為、高度感
は圧倒的だ。慣れない者は足がすくんでしまうだろう。

No.13 南岳から大キレットを望む。向こう側は北穂高岳
とうとう此処まで来ました。さあイヨイヨです。
しかし、高度感ありますねエ。何とかなるさ!

望遠で彼我の間が縮まっているので、高度感が強調されています。
既に夕刻、夕陽に薄赤い北穂高の岩壁が滝谷。
右向う、雲でもやっている辺りが奥穂高。
北穂高の左に顔を出しているのは前穂高の第5峰かな?



 息を整えるようにしばらく休憩し気を引き締めて、いよいよ降りにかかる。痩せ尾根も付け根はそれ
ほど細くはない。テラスを数段重ねたような階段状の地形になっていて、鉄のはしごがある。それを下
りて次の降り口の方へ横へ移動しながら、ふと振り返った。次の大田が前向きにはしごを降りてくる。
降りきる最後の一歩をひょいと飛ぶようにおりる。その拍子にザックの後に括り着けている大鍋がはし
ごにあたる。背中をひと突きされたようになり、トットット、と二,三歩前へ。落ちる寸前で危うく留まる。
「わっ! 大丈夫や?」。「おう。なんがや? どうもなかぜ」と本人はケロッとしている。見ていたこっち
は肝を冷やしたのに。


No.14、No.15 大キレットへの下り
はい、気をつけてー。じっくり、じっくり行けば大丈夫!





 道は次第に痩せ尾根になり、大きな岩を乗り越えたり、廻り込んだりする。それでも、岩と岩の間に地
道があったのが、だんだん間隔が狭くなり、最低点を過ぎたあたりから、岩の連続になる。

No.16 大キレットの核心部
慎重に、慎重に。



岩から岩へ渡っていくのだが、しっかりお互いにかみ合い、はまり込んでいるので、岩が揺れるような
こともなく、その点では安全だ。僕達がこれまで三,四辺行ったことのある阿蘇の鷹ヶ峰は、如何にも
動きそうにない大きな岩がグラリとしたりするのに比べれば楽だ。
やがて、岩尾根が傾斜を増して、岩登りの様相を呈してくる。それと共に、南東へ向きを変え、右側は
北穂高の頂上から西へ下る支稜線との間に岩壁だらけの谷間になる。此処が滝谷上部、日本有数の
岩場、ロッククライミングのメッカの一つだ。

No.17 大キレットの核心部
でもへっぴり腰だとかえって危ないヨ。
慎重且つ大胆に。
あと、もう少しだからネ。



 いつかは此処にクライミングをしに来たいものだと思った。両手両足でたどる岩尾根はまだまだ続く。
やはり一年生がいなくて良かったと思った。
 よじ登っていたのが、ふと足だけで歩けるようになったら、大キレットは終わっていた。一歩一歩踏み
しめるようにして更に少し登ると、北穂小屋の前に出る。そこには、涸沢から上がってきた軽装の登山
者がたくさんいて、うるさいくらいだ。人込みをかきわけ明いた場所をさがし、身体を投げ出すようにして
へたり込む。疲労困憊、ボーッとして声も出ない。さすがに、横田さんや西さんもゲンナリした顔をしてい
る。なにしろ、昨日今日の二日間で普通の三,四日分を、いや種池から勘定すれば、四日で一週間分
の距離を歩き抜けてきたのだ。それでもあまりの疲れに感慨も大して湧かない。何かが終わったのは
判る。ややあって、もうこれで登りはないのに気がつく。明日、上高地に着くまで、登りはもうない。降
るばかりだ。まずそれが嬉しい。
 生ぬるくなった水筒の水を飲んでいると、「先生から、非常用にお金ば預かっとるッタイ。チッタァ使ぉ
てよかろうけん、何ンか買ぉてきやい。」
 横田さんに渡されたのは、千五百円と憶えている。立ち上がると、雲を踏むように身体がフワフワと
妙に軽い。足を引きずるようにして小屋の売店へ行く。今まで山小屋で買い物などしたことがないので、
物価の高いのに驚く。もっと戸惑ったのは、買い物ができないのだ。「今、何をかって行けば喜ばれる
のか。あれがいくらで、これがいくらだから、あれをいくつとこれをこれだけでいくらになる」と、こまごま
考えるのが億劫でしかたがないのだ。心身共に疲労すると、思考力まで低下することを初めて身をも
って知った。しばらく、とつおいつ考えたが、面倒になってこんなもんだろうと見当つけて注文したら、
何と丁度千五百円だった。他に何を買ったのかは定かでないが、桃缶も買ったのだけは憶えている。
シロップの甘さを一滴ごとに身体が吸収するようだった。
 いくらか元気をとりもどし、涸沢への下降路をたどる。去年は、槍から槍沢を降り、横尾へ一泊。そこ
から、涸沢経由ここまで往復している。これからはまた、何時か来た道、だ。もう午後も半ばをすぎた
のにまだ登ってくる人もいる。同じ方向に下る人もいる。降りだしたら少しでも止まっているのがまどろ
っこしい。登り優先もものかわ、そんな人達をかきわけるようにして、一気に涸沢へ駆け下る。下りだす
頃はまだ陽光が顔に射していたが、降りつくととっくに奥穂の向こうに沈んでいた。テントを張り終える
頃には、あたりは薄宵でものの色がくすんで見えた。その頃になって、すべてが終わった、難所もみな
無事に通り抜けた、念願がかなった、と嬉しさがふつふつと湧いてきた。僕達の顔は明るくニコニコと
耀いていたと思う。

No.17 涸沢
もう夏も終わり、初秋の涸沢ですね。
私、涸沢の周囲で丁度この写真の処だけ、
左の白出のコルから涸沢岳、ピラミッド状の涸沢槍から右の北穂高までは
歩いていないのです。もう一度ナナカマドが真っ赤に紅葉するころ行ってみたいなあ。



 涸沢からの電話連絡で、松本で待機中の先生に無事到着を報告。先生は、即、帰福。僕達は翌31日、
上高地から松本へ出て、横田さん、西さんと別れ、その日の夜行で名古屋へ。日中は名古屋近郊の
知人宅で過ごさせていただき、また夜行に乗る。夏真っ盛りの博多へ帰り着いたのは8月2日だった。

 あれから丁度四十年になる。限りなく懐かしく、そしていまも少し誇りに思う、夏の二週間だった。