談話室での駄才さんとのやりとりの続きです。長くなったのでここに持ってきました。
>この方は一般にはそれほど知られている人ではないと思います。その理由は、
左右問わず、歯に衣を着せぬ批判をするために、微温湯の文壇で煙ったがら
れているからではないかと推測しています。
そのやうですね。しかしそれだけではなひと思ひますよ。(←私もちょっぴり歴史的仮名遣いの真似事をしてみました)
下記のこの人の文章を見てください。(赤字の箇所は私がしたものです)
石川達三といふ三文文士は破廉恥であり、愚鈍であり、あのやうな穀潰しの益體無しは暗殺するに如くは無いと、もしも私が本氣で書いたら、一體どういふ事になるであらうか。言ふも愚か、私の手は後ろに廻るに決つてゐる。けれども石川氏は今年、『連峰』八月號に、法治國の國民にあるまじき愚論を述べたのである。それは「石川達三氏を暗殺すべし」との暴論とさしたる徑庭無きものだが、愚論を述べて石川氏が世の笑はれ者になつた譯ではなく、ましてや石川氏の手が後ろに廻つた譯でもない。まこと思案に落ちぬと言ひたいところだが、實はそれも一向に怪しむに足りぬ。何せ今や日本國は道義不在の商人國家だからであり、「唄を忘れたカナリア」ならぬ廉恥節義を忘れた大方の日本人は、他人の愚鈍と沒義道とを滅多に咎める事が無い。
「益體無し」を「やくたいなし」、 「如く」を「しく」、と読める若い人たちがどれだけいるでしょうか。 「徑庭無き」なんて表現なんか、「けいていなき」という読みも「大差無い」という意味も今回調べて初めて知りましたよ。(最初、グーグル検索で探したら、何と、この人のこの文しか出てこなかったのです!)
「思案に落ちぬ」という表現、私は初耳です。
ただでさえ、馴染みにくい歴史的仮名遣いにもってきて、難しい表現を旧体字の漢字で記すのですから、読みにくいことおびただしいと思います。
まるで明治時代の論評を読んでいるのか、と錯覚してしまいます。
これが一般の読書人たちに敬遠されて本が売れず、絶版が続出する理由ではないでしょうか。
確かに、自他共に認める福田恆存の一番弟子、というのがうなづけるくらい、潔癖で純粋な論客だとということはよく判ります。
こんなのを目にすると、山本夏彦氏が自分の著作で歴史的仮名遣いを使わない理由、私が述べたおふざけのようなものも真実味を帯びてくるようではないですか。
>批判の矛先は左というよりも、
むしろ保守派に対してより厳しいと私は見ています。それも文章から批判する
のですから、徹底しています。批判を免れている人の方が少ないくらいでしょう。
福田恆存氏や松原正氏のように文芸評論家でなおかつ政治評論家というのが、批判された側から言えば一番始末に困る存在でしょうね。
>大岡昇平、大江健三郎、三島由紀夫とその賛美者たち、保守派では、江藤淳、
西尾幹二、西部邁、福田和也など、数え上げたら切りがありません。
私は、西部邁、福田和也などは好んで読むほうですが。我が娘は福田和也のファンです。
西部邁氏のことを批判する文章を見つけましたので読んでみることにしましょう。
>(江藤淳の政治評論は批判していません。)
へえ、そうなんですか。意外です。
>本業は英文学ですが、西欧思想一般に詳しい人です。その造詣から得られた
人間に対する深い理解を基にして、政治軍事を論じるのが特色です。
私の想像ですが、ギリシア・ローマの歴史・文化・思想にも詳しいのではないでしょうか。
特にプラトンの著作などに。
>著作は多くありますが、絶版になったものも多く、図書館にもあまりありません。
「知的怠惰の時代」という本が是非、読みたくて古書店検索で探しましたがありませんでした。
「韓國の朴正煕元大統領を、民主主義の名のもとに攻撃した日米マスコミの報道は、民主主義を危機に陷れるものであつた事」の見出しに大変な興味を掻き立てられました。
他の評論集は結構電子テキスト化されているのにこの本はされてません。
図書館で探して見ます。
>この人が評価する人は、文句なしだと鴎外、漱石。無条件ではありませんが、
中野重治、太宰治も高く評価しています。
私に縁の無い人ばかり。
漱石の小説は「明暗」を除けば若い頃にほとんど読みましたが、馴染めませんでした。
「坊ちゃん」と「二百十日」は別です。「二百十日」は今でもときおり取り出して読むことがあります。
太宰治は昔、よく読みましたが今は無関心。駄才小寒氏の方が面白いです。
ま、私の文藝趣味は通とはとても言えません。