(中谷氏の9からの書き込みの続き)

>これは今まで頭のうちではよく理解しておりましたが、昨年の息
>子の就職活動において実感いたしました。息子の卒業した関西学
>院大学はそれほど低レベルの大学では無いと思うのですが、それ
>でも関西在住の企業からでさえ受ける対応は京大、阪大、神大と
>いう国立有名校との間に歴然としたものがありました。それが社
>会のゆがみを生じさせるからといってそれを憂慮し改善の方法を
>模索することは大切ですが、その実状を直視することは必要かと
>思います。これらのことを経験上熟知しているため、高校教師や
>親たちは、我が生徒、我が子に少しでも有利な将来が開けるよう、
>義務教育でもない高校教育を学ぶ子供達に干渉し、強制してくる
>のです。子供達もそういった日本の学歴社会の実状と親や教師の
>思いを知るからこそ、ある程度はその期待に応えて頑張ろうとし
>ますが、どうしても力及ばず遅れをとっていく子達が出てき、そ
>の子らが日本学歴重視社会の不条理に強い不満を持ち、反抗する
>のではないでしょうか。その気持ちはよく分かるのですが、それ
>を「何のための教育か」「誰のための教育か」という問題意識化
>して「制服」問題に象徴させ、国の責任追求、あるいは世の中へ
>抗議をすることは筋違いな気がしてなりません。それは教育シス
>テムの問題と言うより、学歴重視社会の要望に沿ってこそ我が子、
>我が生徒の幸せになる確率は高まると、確固たる信念も無く信じ
>たがたっている私達、親、教師を含む、国民一人一人の問題では
>ないかと思います。

 リワキーノさんは学校から落ちこぼれた者が学歴重視社会に恨みを抱き、学校教育の意味自体を社会に問い質すことは筋違いであり、そうした学校教育のあり方を「制服」に象徴させて社会に抗議するのも筋違いであるとおっしゃっています。また、それが筋違いである理由は学校教育は社会のニーズに基づいて組み立てられているものなのだから、こうしたことについて学校教育のあり方だけをやり玉にあげても仕方がないともおっしゃっています。
 しかし、私は学校の勉強についていけない落ちこぼれの中にも優秀な人が大勢いることを経験的に知っていますし、彼らが学校教育の意味を問い質すことは否定されるべきではないと思います。リワキーノさんは学歴を過度に重視する社会のムードに対して懐疑的でありながら、学校はそうした社会のニーズに応えているだけだからという理由によって免責としていますが、その点については私は同意しにくい気がします。それならば、学校は進学塾あるいは予備校と全く同じものになってしまいます。
 恐らくリワキーノさんが本当におっしゃりたいことは、社会の大勢は学歴重視・学歴偏重であり、学生を受け入れる企業や官庁が高学歴の者を望み、親も我が子の将来のために学校に対しては大学受験に通るための教育を望んでいるくせに、人々が学校教育について議論する際にはそうした本音は包み隠し、学校及び教師だけを悪者にするという偽善性についてだと思います。この点については私も大いに賛同しますが、学校教育から落ちこぼれた者が社会に対して問題提起することまで否定してしまうのはよくわからないところです。
 先だって私は短い夏休みを取って屋久島へ行ってきました。そこで作家の香川淳さんの家に滞在させていただき、「水の島=屋久島」の自然を大いに満喫してきたのですが、今年20歳になる香川さんの息子さん(風太君)は小学校3年生の時に登校拒否を起こし、以来学校には通っていません(途中で2年ほどアメリカに学校に通った時期を除く)。彼は両親と島の漁師たちから様々なことを学びながら立派に成人し、島の若者の95%が島外に出て行くという時代に、屋久島に残って漁師になると決心しています。ちなみに、風太君は屋久島の自然についてはエコ・ツアーのガイドが務まるくらい、よく知っている青年です。
 香川さんによると、風太君は小学校3年生の時に学校のあり方に対して強い疑問を抱き、自ら決意して学校に行かないことにしたそうです(香川さんによると、田舎の学校ほど中央志向・学歴重視の風潮が強いそうです)。香川夫妻は風太君と何度も話し合った結果、彼の主張を容れることにしたそうですが、それによって島の人たちの香川さん一家に対する風当たりは一時的に非常にきつくなったといいます。それでも風太君は豊かな教養と良識、そして彼にとっての故郷とも言える屋久島の自然への知識と愛情を持った立派な青年に育っています。現在の日本の学校教育は学歴に頼りたいタイプの人間にとっては役に立つ面もあると思いますが、風太君のようにそうでないタイプの人間にとっては居心地の悪い場合もあるようです。

>あえて国家の責任を問う面を探すとすれば、大切な国民の子弟を
>教導する公教育の教師達の技術的未熟さとその企業努力を怠って
>いることに眼をつぶり、競争原理のないところに放りっぱなしに
>していることでは無いでしょうか。こういった諸問題を吟味した
>上で教育問題に対して発言し、提案する土壌を新聞をはじめとす
>るマスコミが作らないからこそ、子供達も、他者にその責任を転
>嫁しようとする発想になるのではないかと思うのです。そういう
>意味では、高校生達が問題を一般化する能力に目覚めないのも一
>概に責められないところがありますが、だからと言ってそれを容
>認していては、いつまでも彼らの能力は今のままで終わりかねな
>い、つまり、幼児化のまま大人になっていく危険性があります。

 教師が学問を教える際の技術を高めていくことは必要なことですし、その努力を怠りながら平然としている教師が多々いることに対しては、私もリワキーノさんと同じ意見を持っています。ただ、そうした教師に学問を教わったことと、マスコミなどが教師の技術的未熟さについてきちんと問題提起してこなかった為に、学生達が問題を一般化する能力を身につけることができず、他者に責任を転嫁するという発想が出てくるのだというご意見については、今一つよくわからない点もあります。
 今回のリワキーノさんの主張を整理させていただくと、個人的には学歴偏重社会に対する違和感はあるものの、それを押し進めてきたのは国民の一人一人なのだから、そうしたニーズを汲み取った学校が進学のための受験勉強に力を入れるのは仕方がないし、その責を学校だけに負わせるべきではない。また、そこから落ちこぼれた者が学校のあるべき姿について社会に問い質すのは筋違いだし、ましてその問題と制服問題を一緒くたにしてはいけないということだったと思います。その上で国家は学校教師の「教える技術」を向上させるために競争原理を導入すべきだということになると思いますが、そういう理解でよろしいでしょうか?
 2月遅れのコメントで大変申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願い致します。
(続く)