山田太郎様 & リワキーノ様 FROM中谷浩

 続けて7月15日付の山田さんのリワキーノさん宛メールに対してコメントを述べさせていただきます。タイム・ラグが大きすぎて申し訳ありません。

> リワキーノさんが「日本社会は歴然とした学歴重視社会」であると認識
> されているのもかかわらず、それに疑問をなげかけることを「幼
> 児化」であるとみなし、「間違ったことはハッキリとたしなめ、
> 恥をかかせてでも知らせるべき」と、あくまで抑えつけようとし
> ておられることです。

 この点についてはリワキーノさんご自身からも後で説明がありましたが、リワキーノさんが問題にしているのは「自校の制服に関する問題を国連に持ち込む」という高校生達の短絡的な行動のあり方についてであり、リワキーノさんは学歴重視社会に疑問を呈すること自体を批判しているわけではないと思います。

> また、「学歴重視社会」の背景が、「教育システムの問題と言う
> より、学歴重視社会の要望に沿ってこそ我が子、我が子、我が生
> 徒の幸せになる確率は高まると、確固たる信念も無く信じたがた
> っている私達、親、教師を含む、国民一人一人の問題」であると
> 認識されながら、私たちが責任を持ってその解決を図ろうとする
> ことなく、現状を「是」として維持していこうという姿勢を持た
> れていることです。

 この点についてもリワキーノさんは現状を「是」と言い切っているわけではありません。リワキーノさんの主張のポイントは企業や官庁がそれを望み、子を持つ親もそれを望むが故に学歴偏重社会が出来上がっているのに、その責を学校や教師だけに負わせるのはおかしいということだと思います。

> 問題があるなら、あるいは問題があると感じられるなら、その問
> 題を顕在化させて、解決の方法を探っていくのが、本来あるべき
> 「大人」の姿ではないですか?

 ここが正に重要なところです。私はこの点に関してもっと突っ込んだ議論が行われることを期待しております。

> それから、「国家が多大な予算を費やしてその補助と運営にあた
> っているのですから当然、国家に有益な、つまり日本人として適
> 切な大人に育て上げることに力を注ぐのは当然」との考え方に対
> しては、私はたいへん不愉快です。

 この部分については私も戸惑いを覚えており、先ほどリワキーノさんに真意をお訊ねしたところです。「国家にとって有益な大人」「日本人として適切な大人」というのがどういう人のことを指すのか、私にはよくイメージできないのです。

> 「国家」のみに私たちが所属しているのではありません。私たち
> が町内会やアルバトロスクラブに所属しているのと同じように、
> 「国家」に所属しているに過ぎません。

 最近トヨタ自動車の社長が「国には一切頼らない」と発言し、経済界では賛否両論が湧き起こりましたが、町内会やクラブに属していることと、国家に属していることを同列に扱うためにはそれ相応の覚悟がいると思いますよ。
 私はここで国家論にまで話を広げるよりは、まずリワキーノさんのおっしゃられた「公教育の使命」=「国家にとって有益な大人=日本人として適切な大人を育てること」という定式が本当に成り立つのかどうかを議論すべきだと思います。

> 教育は、「国家」のためではなく、私たちが生来そなえているで
> あろう、さまざまな能力を開発させるためのものだと考えていま
> す。

 全く同意見です。

リワキーノ様 & 山田太郎様 FROM中谷浩

 続けて7月17日付のリワキーノさんから山田さん宛のメールに対するコメントを述べさせていただきます。くどいようですが、タイムラグがあり過ぎて申し訳ありません。

> 痛いお言葉です。確かに私は山田さんのように何かの問題意識を
> 抱えたとき、それを己の信ずるやり方で顕在化し、解決していこ
> うとする努力は怠っております。その点では一言もありません。
> それを継続してやってこられた山田さんを尊敬しております。
> ただ、教育の現状に強い憂慮の気持ちを持っている私は、顕在化
> させるところまではまだいっておりませんが、私なりにこの問題
> を真剣に考えており、個人的には自分の信じることを行動に移し
> ております。それについては先に述べたように長くなるので別便
> で記します。

 学歴偏重社会の風潮に迎合した形の学校教育のあり方を問題とすべきかどうか、またそれが問題であるならばどうしていくべきなのかという議論ですが、非常に興味深いところです。もう少しお二人のご意見をお聞きしたいと思っています。

> 先にも述べましたように、私は国家とはそのようなものであると
> いう事実を指摘したのであって、完全に否定もしませんが、肯定
> もしておりません。当然という言葉を使ったのは不適切でした。
> 国家というものは当然そうするだろう、という意味だったのです。

 リワキーノさんの真意はわかりましたが、それでは日本国家はどのような人間を「国家にとって有益」あるいは「日本人として適切」だと考えているのでしょうか? この点は抽象論ではなく、具体的に討議すべきだと思います。もし、国家がそのような意図を持っているとしたら、いわゆる「教科書問題」の根底に何があったのかも気になるところです。

>>教育は、「国家」のためではなく、私たちが生来そなえているで
>>あろう、さまざまな能力を開発させるためのものだと考えていま
>>す。

> まさに仰有るとおりだと思います。人間は誰しもがそれぞれ異な
> る能力を持っていると思います。私自身、そのことを信じられる
> ゆえ、自分の知能がイマイチなことに劣等感を持つことなく、私
> には私の持ち味、良さがあると、己の人生を自信を持って生きて
> いけるのです。その各自の能力を上手に引き出し、育て上げるの
> が本来の教育の重要な目的の一つだと思います。そのための基礎
> 能力を身につけさせるために強制を伴う基礎学力の勉強が必要だ
> と思うわけです。

 この点についてはリワキーノさん、山田さん、私の見解はほぼ同じのようですね。

> 現在、日本に国際社会が一番望み、要求していることは金融不安
> を取り除くことへの最大の努力ではないでしょうか。日本の金融
> の破綻は日本経済の破綻を意味し、それが多くの国々に与える悪
> 影響は計り知れないものがあり、下手すると世界恐慌という戦争
> に次ぐ重大事態を招きかねなく、世界中が国連の強制力を期待し
> て、国連に持ち込みたいと思っている問題ではないでしょうか。
> 国連はこのような重要な問題を現実にいくつも抱え込んでおり、
> いくら日本の学歴偏重の病弊を苦々しく思ってはいても、すぐさ
> ま世界の秩序を脅かすことのない国内問題だとしか認識しないの
> ではないでしょうか。少なくとも、国際紛争、各国の内戦、飢餓、
> などの解決という国際間の安全保障を役目とする国連へのこの問
> 題の提訴はやはり筋違いだと私は考えます。
> それから、在日韓国人学者の仰有る国内改革とは学歴偏重の弊害
> を指しておられるのでしょうか。もし、そうだったら、韓国も日
> 本に勝るとも劣らぬ学歴偏重の国ですよ。韓国の進学名門校への
> 受験競争の激しさは日本を上回るものがあります。

 国連は日本人が学歴偏重に過ぎることを討議する場ではありませんし、日本の金融危機に対して何らかのアクションを起こすことの出来る機関でもないと思います(ただし後者については、狭義の国連には属さないものの、俗に国連システムと称される機関の一つとして国際通貨基金(IMF)があります。もっとも、日本のような経済大国に対してIMFが支援や助言をすることはありえないでしょうが..)。
 話を元に戻しますが、自校の制服に関する問題は自校内で解決すべきです。もし、それが単に制服の問題だけではなく、その学校の校則全般や教師の指導のあり方の中に潜む人権侵害といった問題があるのならば、そういった問題を取り上げるNGOと共闘するとか、弁護士に相談するとか、もっと妥当なやり方がたくさんある筈です。

> 「人間に生来備わった良いものを、最大限引き出す場であるべき」
> ということに関してはまったく同感です。しかし、先にも述べた
> ように、その前段階として基礎能力を身につけさせるための強制
> 的教育は必要であり、もちろん、その中には大人の価値観をおし
> つけるような面がときたまあるかも知れませんが、だからと言っ
> て、強制的教育のすべてが大人の価値観を押しつけるものとは思
> いません。ただ、日本の公教育ではそれが能率良く、子供達に受
> け入れやすい形で必ずしも実施されてはいない、と私も思ってお
> ります。

 いずれの意見にも共感できます。

>>人間のために国家があるのであって、国家のために人間があるの
>>ではありません。

> まさにその通りですが、人間のためにある国家が現実的には人間
> に強制してくる、そう言った面をよくふまえて、私らが考える理
> 想の教育を実現させるため、公教育の改善を実現させるための現
> 実的かつ効率的方法を模索しなければならないと言いたかったわ
> けでして、その対極する国家と公教育がどういうものであるか、
> ということを指摘したのです。つまり、国家のやり口をよく知り、
> それからの強い抵抗に遭うことのより少ない実現可能な方法を模
> 索しなければならないと言うことです。

 吉本隆明流に言うならば「私的幻想を掛け合わせていくと共同幻想になるのだが、出来上がった共同幻想は必ず私的幻想と逆立してしまう」というやつですね。

> 私の説明不足かも知れません。私が言う教育の強制はあくまで、
> 初歩段階の基礎学習能力を学ばせるときのことを念頭において言
> っているのです。たとえば、小学校で九九の声を丸暗記させます
> ね。何故、九九の声を覚えなくてはいけないの、と疑問視する児
> 童がいたとしましょう、本人の意思を尊重して、それでは覚えな
> くてもよい、と言うわけにはいかないでしょう? 九九の声は数
> を扱うときに、絶対に身につけておかなければならない技術です
> から、もう理屈ぬきにたたき込むように覚えさせるわけです。こ
> ういった基礎能力学習の強制を言うのです。
> また、小学校における算数、国語、理科、社会は児童が嫌だから
> と言って、教えないわけにはいかず、その場合の学習の強制を指
> しております。
> それを中学校まで続けるべきか、ということには私は自信をもっ
> ては言えないのですが、義務教育という制度がある以上、一応、
> そこまでは範囲に入ると考えております。

 リワキーノさんのおっしゃることはよくわかりますし、九九を暗記するとかいったレベルのことについては同意できます。しかし、初等教育の段階でも学ぶ楽しさを教え、個々人が自らの持ち味を伸ばしていくような教育も必要ではないでしょうか? まして、中等教育の段階までくると、そちらの方が重要度が高いように思うのですが...。

> 「押し付け」と取るかどうかは別として、その山田さんの疑問と
> 危惧感は確かに私も感じます。上記のことは、現状を説明しただ
> けであり、私もそれを深刻な問題として捉えております。
> 経済大国日本に生まれた子供達へ要求される基礎学習力はあまり
> にも膨大で、その負担に耐えきれない子供達が心を荒廃させてい
> くことに私もひどく胸を痛めております。

 この点については、リワキーノさん、山田さん、私の意見は本質的には同じのようですね。

> 私が言っている競争原理とは、学ぶことの意味を解らせ、学ぶこ
> との楽しさを教えるのに技術的能力に欠けた教師があまりにも多
> いことを憂慮し、彼らの教師としての能力を高めてもらうために
> そこに競争の原理を持ち込む必要があるということを言っており
> ます。これにはいろいろ反論があると思いますが、少なくとも、
> 教師は、教育のプロであるわけです。自分の専門教科で授業をす
> るとき、生徒に解りやすく、退屈させず、学ぶことに集中させる
> 技量を身につけるよう努力するのは当然ではないでしょうか。

 この点においてはリワキーノさんの意見に賛成です。ただ、競争原理を持ち込むというのは実際のところ、そう簡単ではありません。一般企業においても昨今は欧米流に年俸制を取り入れて、競争原理を明確にする会社が増えていますが(私の会社もそうです)、肝心の評価体系の方は不備なままで、従来通りに上司の主観的判断のみに基づく場合が多いように思います。こうしたことは、試行錯誤をしながら進めていかざるをえないものなのでしょうね。