9月30日 FROM:岡村光雄

岡村光雄です
 制服の廃止・服装の自由化について国連に訴えた高校生たちについての議論をおもしろく読ませていただいてます。論点がいくつもありそうですが、僕から1点、訂正というか、誤解があるかもしれない点について、補足的な発言をいたします。

中谷さんは言いました。
[alb:02360] Re:国連に訴えた高校生
Date: Sun, 27 Sep 1998
> 私たちが本来語らねばならぬのは、
> 制服を着るか否かといった表面的なことよりも、学校での教育が真
> の意味で学生の「個」を大切にしつつ、その社会性をも高めていく
> ように意図されているか? また、歴史をきちんと教えているか? 
> といったようなことなのかもしれません。

 その通りだと思います。
 したがって、こうゆう問題が生じた場合、まずは教師が、または生徒達が、「制服」とか「ファッション」について、その歴史や意味を学ぶ機会を自ら創ったかということが気になります。以下、制服の歴史を振り返ってみます。
 かつて欧州の旧制度の階旧社会では貴族階級の衣服が権威と威信の印としてありました。支配階級のそうした華美な服飾に対抗してドレスダウンを指向したのは新興ブルジョワジー、つまり、欧州で新たに生まれつつあった「市民層」です。やがて、新興ブルジョワジーたちは、単色・無彩色の地味な服(フロックコートを経て現在の背広の原型ができる)を「市民の制服」として身につけるようになりました。
 時は、1780年代の終わり頃。フランスにおける服装の平等化の流れの中では「背広という制服」は「自由」の象徴でした。それから、10年後の1789年、フランス大革命が起きるのです。
同じ服(制服)を着るということは、あらかじめ決定された社会的条件から個人の存在をいったん解除し、同じスタートラインに立たせる=平等・自由をという理念をビジュアルで表明する、という、きわめてポジティブな意味を持っていたわけですね。
 フランスでは、そのビジュアル的な表明が平等・自由の精神に再還元され、大革命につながっていったわけですから、ファッションあなどるべからずという感じがします。
 ところが、現代では制服の意味はネガティブなものに反転しています。それは、与えられた社会的条件(家柄や出身階級)によって個人が規定されることが少なくなってきたからです。差異の解消は個人を解放するが、差異が解消されれば、個人が存在しなくなる、という問題にぶち当たるわけです。
 以上、僕の話は、制服に賛成・反対という、そういうレベルの話ではありません。制服問題を考える上で、こうゆう、話がなされたかということが気になるだけです。
 「制服はやだ、ださい、自由を与えよ」と高校生が言い、先生は「黙れ、校則守れ、よけいなこと考えず、勉強せい」と応えている、といったレベルなら情けない。
 なお、そこで話しあいができず(というか簡単に諦めて)、高校生がいきなり国連に訴えたなら、なお、情けない。
 簡単に言うと、「話しあい」とか「議論」ができないというのが、情けない。
 ここには、お互いを信じるというスタンスがない。まずは、中谷さんのおっしゃるような「教育」が必要であろう。

10月11日                             
岡村光雄様 FROM:中谷 浩

 私の発言の中で論旨が伝わりにくかった部分に対して援護射撃をいただいたようで、ありがとうございます。

>したがって、こうゆう問題が生じた場合、まずは教師が、または
>生徒達が、「制服」とか「ファッション」について、その歴史や
>意味を学ぶ機会を自ら創ったかということが気になります。

>以下、制服の歴史を振り返ってみます。

>かつて欧州の旧制度の階旧社会では貴族階級の衣服が権威と威信
>の印としてありました。支配階級のそうした華美な服飾に対抗し
>てドレスダウンを指向したのは新興ブルジョワジー、つまり、欧
>州で新たに生まれつつあった「市民層」です。やがて、新興ブル
>ジョワジーたちは、単色・無彩色の地味な服(フロックコートを
>経て現在の背広の原型ができる)を「市民の制服」として身につ
>けるようになりました。
>時は、1780年代の終わり頃。フランスにおける服装の平等化
>の流れの中では「背広という制服」は「自由」の象徴でした。そ
>れから、10年後の1789年、フランス大革命が起きるのです。
>同じ服(制服)を着るということは、あらかじめ決定された社会
>的条件から個人の存在をいったん解除し、同じスタートラインに
>立たせる=平等・自由をという理念をビジュアルで表明する、と
>いう、きわめてポジティブな意味を持っていたわけですね。
>フランスでは、そのビジュアル的な表明が平等・自由の精神に再
>還元され、大革命につながっていったわけですから、ファッショ
>ンあなどるべからずという感じがします。
>ところが、現代では制服の意味はネガティブなものに反転してい
>ます。それは、与えられた社会的条件(家柄や出身階級)によっ
>て個人が規定されることが少なくなってきたからです。
>差異の解消は個人を解放するが、差異が解消されれば、個人が存
>在しなくなる、という問題にぶち当たるわけです。

 非常に示唆的な問題提起だと思います。タイトルを忘れてしまったのですが、ファッション史について書かれていた某書の中にも背広が貴族の服装に対するアンチテーゼとして生み出されたことが書かれていました。その本の著者は性差を強調していた貴族のファッションに対して、一般市民の制服となった背広は性差を覆い隠してしまう性格をも持っていたので、男性の「性」を象徴するものとしてネクタイが生み出されたと説いており(つまりネクタイはコティカだということです(!))、私はまた少し違った観点から背広の歴史に興味を持っていました。
 ところで、インドネシアでは小学校に通う子ども達にボーイ・スカウト(インドネシアではプラムカと呼びます)への参加が義務づけられていると聞き、最初は野外活動に熱心なのはなかなか良いことだな〜と暢気なことを考えていたのですが、その背景にはスカウト活動を通じて子供たちの愛国心を高めると共に、彼らに軍隊の基礎トレーニングをも施しておこうというスハルト政権の意図があったことを知り、少し驚いたことがあります。
 何事につけ、その歴史的背景を知っておいた方がよいことは多く、制服に関する問題も例外ではありませんね。「差異が解消されれば、個人は存在しなくなる」という岡村さんの指摘は非常に示唆に富んでいるのですが、例えば漫画家の小林よしのり氏は『ゴーマニズム宣言第135章・いじめは社会主義学校の平等苦からの逃避』の中で、同様の問題について書いています。同氏は「今の子供たちは平等苦のストレスがたまりすぎて、「差別」への本能回帰現象を起こしているように見える」と書き、それが「いじめ」という問題を引き起こすと語っているのですが、そこから一気に「ともかく第一にやってみなきゃならんことは学生服を廃止することからだ」と書いているのですが、歴史的な検証をせぬまま、こんな風に一気に結論づけてしまうのはどんなものかと思います。

>以上、僕の話は、制服に賛成・反対という、そういうレベルの話
>ではありません。制服問題を考える上で、こうゆう、話がなされ
>たかということが気になるだけです。
>「制服はやだ、ださい、自由を与えよ」と高校生が言い、先生は
>「黙れ、校則守れ、よけいなこと考えず、勉強せい」と応えてい
>る、といったレベルなら情けない。
>なお、そこで話しあいができず(というか簡単に諦めて)、高校
>生がいきなり国連に訴えたなら、なお、情けない。
>簡単に言うと、「話しあい」とか「議論」ができないというのが、
>情けない。ここには、お互いを信じるというスタンスがない。

 おっしゃる通りですね。貴重なご意見をありがとうございました。