12月20日                             
中谷 浩様 FROM:リワキーノ(1)

 コメントが遅くなりまして申し訳ありませんでした。
 まず、中谷さんのこの論議に関する一連のメールを見て感じたことをお話ししたいと思います。
中谷さんが私の論点を一つ一つあげて、具体的に賛同、疑問、反対などのコメントを記されているのを拝読し、私の展開してきた論旨がずいぶん漠然とした概念に拠っているところがあり、自分自身キチッと把握していないことがらをもまるで自分が理解しているかのような思いこみがあること、突っ込んで具体的な根拠や説明を求められると確固たるものをあげられないことなどに気がつきました。
 従いまして、私の今までに展開してきた論旨はかなりの部分で訂正し、一部、自分の論旨の誤りを認めなければならないようです。
 しかし、弁解になりますが、アルバトロスクラブMLで論議する私たちを含む皆さんは、その道の専門家でもなければプロの評論家でもありません。
 私に関すれば、新聞や本で知った知識や、知り合った友人、知人、仕事の顧客との会話で漠然として固まった考えを表明するに過ぎず、当然、思い違いや、充分な考察を加えずに軽い気持ちで発言していることなど、多々あるものと自覚しております。
 また、自分ではキッチリと説明したつもりでも、他者から見れば、私の言いたいことが解りにくかったり、曲解されたり誤解されたりすることがあることも山田さん、中谷さんのコメントで知りました。
 そして、これは我々素人が論議を展開するときに当然起き得るものであり、それらを恐れていたら、自分の思ったことをこのような公開の場で発言なんかできるものではなく、むしろこのように他者の意見、反論などを知ることによって自分の論点の不備、間違い、認識不足などを知ることができるという意味で肯定的に考えてどんどん発言はしていったほうが良く、それによってお互い、論点のより客観的な認識を深めていくことができるとも思いました。
 そのためには、お互い、相手の意見をそれがどんな否定的な反論であろうとも虚心坦懐に受け止め、決して感情的なものを挟まずに論議を進めていくことが絶対に必要だと思われます。

 そこで中谷さんのメールですが、私宛のものは立て続けに2通ありますね。
 1通目で問われていることが2通目では了解済みになっているような感じのものがありますが、両者を一緒くたにしてコメントしていきたいと思います。

>ファッションは「個」の表現として
>非常に重要なものではありますが、同時にTPOというものも重視
>せねばなりませんので、高校生ともなればそうした訓練を積んでい
>くことは悪いことではないと思います。

 恐らくおっしゃる通りだと思います。
ただ、岡村さんがオルマー研で言っておられたように私もファッションについては関心が少なく、面倒くさがり屋であるため、制服(高校生の学生服や社会人としては一種の制服とでも言えるスーツなど)で済ませておく方が楽である、という気持ちがあります。個の表現法を磨くという意味では問題があるでしょうが。

>「制服」=「権力からの強制」であることは間違いありませんが、
>「権力からの強制」=「個人の自由の束縛」という図式が常に成り
>立つわけではないと思います。また「個人の自由の束縛」=「悪」
>というのも常に成り立つわけではないでしょう。いずれも程度の問
>題だと思います。この種の議論はケース・バイ・ケースでやらない
>と、少々無理が生じると思います。

 まさに同感です。私の言いたいことを代弁して下さっています。

>ちなみに、私が通っていた神戸商船大学には制服があり、乗船訓練
>の時には必ず着用せねばなりませんでした。また、狭い船内での計
>1年に及ぶ厳しい訓練生活が多分に「個人の自由を束縛」されたも
>のであったことは言うまでもありませんが、商船大学の学生という
>のは自由な精神を持った独立心の強い者が多く、そうした精神は乗
>船訓練を経てさらに磨きがかかっていったように思います。また、
>船に乗って国内外の港を訪問する際に、迎えてくださる方々に向か
>って制服姿で答礼することは軍艦や商船の船乗りとしては当然の礼
>儀だと思いますし、そこにはそれなりの歴史性もあります。私はそ
>うした歴史にも敬意を払い、それなりの誇りを持って制服を着てい
>ました。

 感銘深いエピソードです。「狭い船内での計1年に及ぶ厳しい訓練生活が多分に「個人の自由を束縛」されたものであったことは言うまでもありませんが、商船大学の学生というのは自由な精神を持った独立心の強い者が多く、そうした精神は乗船訓練を経てさらに磨きがかかっていったように思います」の言葉には深く共感いたします。真の自立心とはこのような制約の中での自己表現や個の確立を経験してこそ得られるのではないでしょうか。制約、必ずしも悪いものばかりではないと思います。
 私の家内は大津の日赤看護学院を卒業しているのですが、日赤看護学院は授業料はおろか、教科書、寮費(食費も含む)、小遣いまですべて日赤が負担し看護婦を育成しており、その反面、軍隊のように厳しい学業生活を強います。
 家内は相当楽でない3年間を送ったと思うのですが、この日赤看護学院で規則正しい生活、ものごとの処理を効率よく迅速にやる、自分の行動に責任を持って自己責任をはっきりさせる等の習性を身につけることができ、それが養護教諭としての教員生活に大きくプラスになったと言っておりました。自分の女房のことをこう言うのもなんですが、私は家内のことを主婦としてもスペシャリストと尊敬しております。

>ここでリワキーノさんの語っておられることには首肯できる点も多々あり
>ますが、本来リワキーノさんがおっしゃろうとしていたことからは少し趣
>旨がそれかけているように感じます。例えば服飾問題で悩まされる
>ことがなく便利だからという理由だけで制服を是認するような方々
>がいても良いわけですが、そういう方は制服を肯定しているわけで
>も否定しているわけでもないわけで、竹田太助さん流に言うならば
>「どうでもいいという立場にあるが故の権力者」です。従い、ここ
>でそういう意見をアンチテーゼ的に提出してしまうと、この問題の
>争点は少しぼやけてしまうような気がします。

 服飾問題で悩まされることがなく便利だからという理由も一つの制服肯定に属するものと私は思いました。
 親の都合でそう思うのは子供にとってはた迷惑なものであるかも知れませんが、冒頭にも述べましたように、私自身、高校生のとき、そのように思ってTPOを考えずにどこでも制服姿で通しました。ほら、今でもアルバトロスクラブの集まりに日曜日でも背広姿でやってくるではありませんか、私は。何しろ、スーツ以外のカジュアル着といったら登山服しか無いに等しいのですから。
まあ、こういうわけでして、私の場合、「どうでもいいという立場にあるが故の権力者」ではなく、自分の本意にあっていたゆえ制服を有り難く思ったのです。
 「そういう意見をアンチテーゼ的に提出してしまうと、この問題の争点は少しぼやけてしまう」については、私は制服の肯定、否定論を展開するつもりはなかったのです。本意は、制服問題を教育問題に安易に結びつけることへの疑問から記したのです。
 件の高校生が高い意識で発言していることを(あくまで憶測ですが)、そんな意識など無く様々な思いを持つ高校生だってあると言った具合に、高校生全般の問題として捉えたため問題を複雑化させたかも知れません。

>前にも書きましたが、ファッションは「個」の表現として非常に重
>要なものであり、しかしながらそれを通してTPOを考えるという
>ことで社会性を高めるためにも重要なものです。

 観念としてはそれを理解しているつもりですが、実感としては私には身に付いていない認識です。ただ、私も遊び着が登山服だけというのではあんまりですし、アルバトロスクラブの若いご婦人達と町中をご一緒するとき彼女らに肩身の狭い思いをさせては申し訳ありませんから今後その方面も少し勉強し、努力しましょう。そこから私の社会性がなおいっそう高まれば言うこと無しです。
こんなレベルの低いコメントで申し訳ないです。

>また、一つのファ
>ッションには多分に歴史性が関与している場合もありますので、私
>はたかが制服と言えども、もう少し多面的にきちんと考える必要が
>あると思っています。

 岡村さんのメールでそのことが具体的に説明されていましたね。私はどうもこのジャンルのことは疎く、自分の言うべき意見がなくて恥ずかしいのですが、多分お二人のおっしゃっていることは重要なことなのだろうと思います。

>リワキーノさんはファッション的に洗練されたもの
>であれば制服を好んで着る学生が増えると書かれていますが、制服
>というのは本来的に「個」としての表現を抑圧する性格を持つもの
>ですから、そうした問題意識の高い学生は制服の洗練度にかかわら
>ず、それを嫌うのではないかと思います。

 その通りだと思います。山田さんがあえて件の高校生を擁護するのはそう言った認識からだったのだろうと今思います。山田さんが国連に訴えた高校生個人に関して擁護されたことを、私が高校生全般に拡げてこのことに反論したのが適切でなかったようです。
 前に、私の娘がそこの制服に憧れてある私学女学校を受けた、ということを記しましたね。その後、娘に詳しく尋ねたところ娘が言うには、そこの女学校の生徒が自校の規制された制服で目一杯オシャレするセンスが評判になり、それでそこの学校に憧れる子が増えたのであって、制服そのものに惹かれたのではないとのことでした。
 美智子皇后が聖心女子大在学時のことだったと思うのですが、制服を着た学友4、5人で一緒に写っておられた写真の中で、皇后だけがほんのわずか、スカートの丈を縮め、ブラウスにも何か細かい工夫をされているのを皇后がいかにオシャレであったかを説明する材料にテレビ利用していたことを思い出しました。
 また、中谷さんの制服に関する記述を娘に見せましたところ、制服を「個」の表現だとか、教育問題に結びつけて考えるような意識は私には無いし、私の周囲の友人たちにも無いと思う、このような論議そのものが大人達の発想ではないかと言っておりました。「大人の発想」はともかくとして、私もこのような問題意識の薄い高校生が大半ではないかと考えます。
(このリワキーノの発言は次回に続く)