(13のリワキーノの発言の続き)
>ところで、リタ・フリードマンの著作に『美しさという神話』(新
>宿書房)というものがありますが、この中で彼女は現代人のファッ
>ションが一見個性を強調しているように見えながら、実はある種の
>マス・イメージにからめ取られていることを指摘しています。こう
>なると一見自由な「個」の表現である筈の私服が制服以上に画一的
>ということもありうるでしょう。

 大変興味深いお話であります。故・伊丹十三氏が何かのエセーで似たようなことを書いておられましたね。今、手元にその本が見つからないのですが、確か、ロンドン娘とパリジェンヌのオシャレの比較をし、ロンドン娘はブランドものを買うことによってオシャレを演出するが、コマーシャリズムの流行に乗せられているだけであってそこには個性の埋没が見られ、逆に、パリジェンヌはバーゲンセールを漁りながら個別に品物を求め、その中で自分の好みにあったコンビネーションを創り出す、いわゆる個性が見られる、といった内容だったと思います。

>私たちが本来語らねばならぬのは、
>制服を着るか否かといった表面的なことよりも、学校での教育が真
>の意味で学生の「個」を大切にしつつ、その社会性をも高めていく
>ように意図されているか? また、歴史をきちんと教えているか? 
>といったようなことなのかもしれません。

 同感であり、大切な問題だと思います。この点については別途論議の場ができて欲しいものです。

>>「何のための教育か?」「誰のための教育か?」という根本問題
>>についてですが、教育とは、未熟な子供達を常識と良識を身につ
>>けた成熟した大人に育て上げるのが本来の目的だと思います。

>それは厳密には「家庭教育」及び「初等教育」「中等教育」と呼ぶ
>べきでしょうが、同意できます。

 おっしゃる意味であります。

>>>それから、「国家が多大な予算を費やしてその補助と運営にあた
>>>っているのですから、国家に有益な、つまり日本人として適切な
>>>大人に育て上げることに力を注ぐのは当然」との考え方に対して
>>>は、私はたいへん不愉快です。(山田氏)

>> 先にも述べましたように、私は国家とはそのようなものであると
>> いう事実を指摘したのであって、完全に否定もしませんが、肯定
>> もしておりません。当然という言葉を使ったのは不適切でした。
>> 国家というものは当然そうするだろう、という意味だったのです。
 (リワキーノ)
>リワキーノさんの真意はわかりましたが、それでは日本国家はどのような
>人間を「国家にとって有益」あるいは「日本人として適切」だと考え
>ているのでしょうか?この点は抽象論ではなく、具体的に討議すべき
>だと思います。もし、国家がそのような意図を持っているとしたら、い
>わゆる「教科書問題」の根底に何があったのかも気になるところです。
(中谷氏)
 山田さんから反論をいただいたときからこの私の主張は非常に誤解されやすいと言うより、誤解されても当然な書き方だと思います。そのことをはっきりさせるために重複いたしますが、もう一度、キチッと私の言いたかったことをご説明します。
 「国家が多大な予算を費やしてその補助と運営にあたっているのですから、国家に有益な、つまり日本人として適切な大人に育て上げることに力を注ぐのは当然」の文末に”当然”と記したのは、私がそれを肯定しているということになり、あきらかに私の文法上の書き間違いでした。山田さんが不快に思われたのも”当然”だったわけです。
 「一国の政治を預かる政治家首脳部や政府は、自国の目指す国家理念に国民を従わせるために国民子弟の教育に、”当然”一つの政治的意図をもって介入してくるだろう」との私の推察なのです。
それでは、日本という国家はどのような人間を「国家にとって有益」あるいは「日本人として適切」だと考えているのでしょうか。
 これについては私が得た狭い知識と経験から考えたことであり、正確であり適切であるかは自信がありませんが述べさせていただきます。
 まず、中谷さんのいわゆる「教科書問題」の根底に何があったのかということが深く関わってきますのでその端緒から入っていきましょう。
 日本で国家が教育に介入した典型的かつ露骨な例が、明治政府から始まった富国強兵策が発展していって俗に言われる軍国主義国家となり、大日本帝国を支える国民性を育てるための教育介入ではなかったでしょうか。
 フランスの歴史学者、マルク・フェローが編纂した『新しい世界史・全世界で子供に歴史をどう語っているか(新評論社1990年刊』の文中、日本の戦前の歴史教育の例を挙げてフェローは次のようにコメントしております。

《伝説と歴史を同一視しているこのテキストで興味深いのは、明らかに事実に反する主張がなされている点である‥‥藤原一族が武力によって取って代わったり、14世紀にはふたつの朝廷が共存していたり、皇位の簒奪およびその企てが日本の歴史の横糸を形成していたこと等は無視されている‥‥。
 実際に起こった物事を知らせるのが教育の役目ではない。「教育は愛国心をきたえ、天皇による政治に国民を一体化させるのを目的としている。(‥‥‥)子どもたちに日本の歴史の一貫性と歴代の天皇の輝かしい功績、そして忠実な家来たちの行動(‥‥‥)を教えなければならない。それは日本がどのような変化をたどって歩んできたかを知り(‥‥‥)、日本人であることがどんな特権なのかを子どもたちに理解させるためである。》

 これは明治時代の修身教科書に、天皇家の万世一系が揺るぎ無く続いたという記述へのコメントです。ただ、長山靖生氏の『人はなぜ歴史を偽造するのか』(新潮社)によれば、学制制定以前の明治5年に刊行され、広く幼年者の教育に用いられた歴史教科書(当時「史略」と呼ばれた)では、日本史は天皇歴代史の形を取っているけれども神代を除く日本書紀以来のありのままの歴史、つまり天皇家について都合の悪いこと、例えば武烈天皇の悪行なども載せているように、史料を恣意的に選択するのを避け、先人の事績をありのままに描き出そうとするいわゆる特定の史観に偏らない歴史記述の姿勢がとられているそうです。まだ維新から数年しかたっていないそのころには幕末の動乱を潜り抜けてきた志士達が明治政府の中に多くいたため自由な発想が残っていたか、あるいはまだ明確な軍国日本へのビジョンが固まっていなかったからなのではないでしょうか。それが明治14年に教育方針が大きく転換し、「尊皇愛国ノ志気を高める」歴史教育となり、フェローの指摘するような教科書となったようです。
 フェローはこれを日本だけの特殊な問題としては捉えておらず、自国フランスがとったやりかたと同じものである、とも指摘し、次のような例を挙げております。

《フランスでは1791年以来、「教育は市民相互間に博愛の精神を形成し、彼らを憲法と祖国と法律とに結びつけるものでなければならない」と憲法であらかじめ決められていた。つづいてナポレオンは、「学校の責務は、カトリック思想および皇帝への忠誠心を教え、教会、国家、家庭に献身的な国民を生みだすことにある」といっそう明確に規定した。》

 そしてフェローは、この後「国民を形成したのは学校用の教科書である」といえるような形で教育の目的が達成されたと考えられる国は、日本と第三共和制下のフランスを以外にほとんどない、とも記しております。
 第三共和制というのはナポレオン3世の第二帝政フランスがビスマルクのプロイセンと戦って破れた直後に革命でできあがった政権ですが、この政権下のフランスは官民あげてのプロイセン(占領下のパリのベルサイユ宮殿でウイルヘルム1世が戴冠してドイツ帝国となる)への復仇心に燃え、ついには第一次大戦でドイツを破ることになります。第三共和制政府はこの宿敵ドイツへの国家あげての来るべき雪辱戦にそなえて国内の団結力をはかるために厳しく露骨な教育の介入をやったのだと思われるのです。
 一方、日本は、明治維新で新国家として誕生したとき(奇しくも第三共和制が発足する2年前です)、不平等条約を改めさせ、植民地獲得競争に出遅れたロスを取り戻す、いわゆる近代化の遅れを取り戻すために天皇を中心とする一致団結した国家にとって好都合な国民性を作るべく、教育への介入をやったのだと思います。
(このリワキーノの発言は次回に続く)