(15のリワキーノの発言の続き)
>私はここで国家論にまで話を広げるよりは、まずリワキーノさんのお
>っしゃられた「公教育の使命」=「国家にとって有益な大人=
>日本人として適切な大人を育てること」という定式が本当に成り
>立つのかどうかを議論すべきだと思います。

 「教科書問題」についてですが、私もまだ勉強不足でして、ある程度固まった自分の考えというものをお伝えすることはできません。
現在、自由主義史観という考え方と自虐史観(これは自由主義史観の人達が反対派を呼ぶ呼称で、使うのに問題がありますがとりあえず便宜上使用します)という考え方に分かれて教科書論争が展開されているようですが、私も大変興味があり、今、いろいろ勉強しているところです。
 自虐史観というのは、太平洋戦争で日本が中国や朝鮮・韓国、東南アジアを侵略し、現地で行った様々な蛮行をありのままに広く世間に伝え、教科書にもそのことの記述し、国民の猛省を促そうとする人達の考え方で、自虐史観という言葉は対立する自由主義史観の人達の投げかけた一種の蔑称です。自由主義史観というのは、自虐史観の人達の運動に、あまりにも日本の行った戦争での蛮行ばかりを強調して教科書で教えるのは、国民子弟達が祖国に誇りを持てなくなることになり、愛国心を喪失していくという危惧感から、太平洋戦争で日本は侵略だけではなく、良いこともして侵略国に恩恵をも与えているとか、戦争そのものがどこの国家であろうとこのような悲惨な面を持っているものだと主張し、日本だけが悪いのではない、という心証を持つ人達の考え方で、「新しい歴史教科書をつくる会」というのを結成して精力的に活動しております。東大教授の藤岡信勝、評論家の西尾幹二やゴーマニズム宣言の小林よしのりなどが主なメンバーです。だいぶん前にベストセラーになった『教科書が教えない歴史』の著作にもこのグループが関係しております。
 以前に私の物言いが「それは自由主義史観的発想ですよ」と山田さんから指摘されて、初めて自由主義的史観という用語を知ったのですが、私は確かにそのころ、自由主義的史観にかなり同調するような考えを持っておりました。西尾幹二氏の著作も若い頃から読んでいたのである程度、この人物を信頼もし、ゴーマニズム宣言の漫画も大変共感を持って読んでいたのですが、最近、山田さんに誘われて自虐史観系の集まりに出入りするようになり、そこで出会った野田正彰氏の『戦争と罪責』や金子マーティン氏の『ジプシー収容所』、上杉聡氏の『脱、ゴーマニズム宣言』等の著作を読み、また、自由主義的史観の人達の集会の閉鎖的な雰囲気を知って次第に疑問を抱くようになり、どちらの陣営に対しても今のところ保留の立場をとっております。私の太平洋戦争の捉え方や国家補償に対する考え方は、これら自虐史観の詳しい詳細を知ってもあまり変わってはおりませんが、だからといって自由主義史観の人達と全く同じ考え方をもっているとも言えないのが正直なところです。色々な人達にこの問題で意見を聞いてきた私の感触では、かなり多くの人達が私のようなどちらにも属さない考え方を持っている人が多いように思えました。
 ただ、私がいささか気になるのは、「新しい歴史教科書をつくる会」に国家政府の意図がからんでいるのではないかという疑念で、この点は中谷さんもひどく関心をもたれるところではないかと思います。
 「教科書問題」の根底にあるものについては、論議の場を変えてじっくりと触れていただきたいと願っております。

>小中学校の教育が単なるノウハウの叩き込みであり、そこでは子供の
>要求や拒否を一切認めるわけにはいかないというご意見には賛同しか
>ねます(勿論、部分的にはそういう面があることを承知した上での話
>ですが..)。そのような教育を受けてきた者が高校生になったからとい
>って、いきなり自分の人生の方向性に対して正しい結論を導き出すこ
>とが出来るものでしょうか? 

 この中谷さんの問いかけには次の分と一緒にコメントさせていただきます。

>リワキーノさんのおっしゃることはよくわかりますし、九九を暗記するとか
>いったレベルのことについては同意できます。しかし、初等教育の段
>階でも学ぶ楽しさを教え、個々人が自らの持ち味を伸ばしていくよう
>な教育も必要ではないでしょうか?まして、中等教育の段階までくる
>と、そちらの方が重要度が高いように思うのですが...。(中谷氏)

 「小中学校の教育が単なるノウハウの叩き込みであり、そこでは子供の要求や拒否を一切認めるわけにはいかない」と中谷さんに解釈されたのなら、それは私の表現不足でした。その気持ちは毛頭ありません。
 また、「九九を暗記するとかいったレベルのことについては同意できます。しかし、初等教育の段階でも学ぶ楽しさを教え、個々人が自らの持ち味を伸ばしていくような教育も必要ではないでしょうか?まして、中等教育の段階までくると、そちらの方が重要度が高いように思うのですが 」は、言うまでもありません。おっしゃるとおりです。私の書いた文書がこうも誤解されるとは本当に自分の文章表現能力に自信喪失する思いです。
 私の言いたかったことは、算数や国語、理科、社会を学ぶことを嫌がる子にそれを自由選択することは義務教育では適切ではない、それは強制しなければならないだろうということです。
「学ぶ楽しさを教え、個々人が自らの持ち味を伸ばしていくような教育」は教育の大前提だと確信しております。
 「そのような教育を受けてきた者が高校生になったからといって、いきなり自分の人生の方向性に対して正しい結論を導き出すことが出来るものでしょうか?」の中谷さんの疑問は以下の説明で納得いただけますでしょうか。
 つまり、私の強制を必要とする教育は原則的な意味であり、生徒達の本来の持ち味を育て、創意工夫を引き出すことと矛盾するものではないゆえ、適切な教師に恵まれればある程度、正しい結論を引き出すことは可能ではないかということです。しかし、現状の高校生はそのような恵まれた環境にはおらず、そこがとても辛いところであり、心を痛めております。
 私の顧客の子弟に多くの高校中途退学者がおり、この問題の根深さを感じております。
(このリワキーノの発言は次回に続く)