(16のリワキーノの発言の続き)
>また、リワキーノさんがおっしゃる「日本は学歴重視社会である」という
>認識についてですが、これは旧来の企業社会を見る限りにおいては
>正しいと言えます。しかし、この傾向は現在急速に改められつつあ
>りますので、それが為に行きたくもない高校や大学にだらだら通う
>必要はないように私は思います。
同感です。私の卒業した福岡県立修猷館高校というのは当時、九州でも指折りの進学名門校で、男子学生の中で大学受験しなかったのは私一人でした。(大学に行っても卒業しなかった者は何人もいましたが)
理由は、私の興味を引き立てる分野は歴史と文学に音楽で、そんな学問では就職も難しく思われ、かと言って就職に有利な経済学も法律も工業部門も化学もまったく興味が無く、大学に行く意味を感じられなかったところにピアノ調律師という職業を知り、何の迷いもなく、この道に行くことに決めたからです。
福岡というところはものすごく学歴偏重の強い地方でして、私の大学進学断念を周囲の者のほとんどが猛反対しましたが私には何のためらいもなかったですし、大学に行かなかったことに対しても現在、何の後悔もありません。良き判断だったと思っております。
ただ、現在も高校時代の友人と多く付き合っておりますが、錚々たる名門大学を出、学者になったり、一流企業で出世している彼らと付き合うにはそれ相応のものを自分が持っていなければこうも対等にはいかなかっただろうなと思います。私自身、努力したつもりではないですが、好きな読書で大学に行った仲間達にもひけを取らないような知識と信念を養ってきたことが彼らをして一目を置いて私に接してくれたのだと考えております。
このように記すことは自惚れと自慢のように思われるかも知れませんが、確固たる信念もなく、単なる勉強が嫌いで逃避するようなかたちで進学の道を避け、それでこの日本社会を楽に生きていけるというような安易な気持ちで人生を見られては困りますので、はっきりと私の感想を述べました。
>リワキーノさんは学校から落ちこぼれた者が学歴重視社会に恨みを抱
>き、学校教育の意味自体を社会に問い質すことは筋違いであり、
>そうした学校教育のあり方を「制服」に象徴させて社会に抗議
>するのも筋違いであるとおっしゃっています。また、それが筋
>違いである理由は学校教育は社会のニーズに基づいて組み立
>てられているものなのだから、こうしたことについて学校教育
>のあり方だけをやり玉にあげても仕方がないともおっしゃって
>います。
>しかし、私は学校の勉強についていけない落ちこぼれの中にも
>優秀な人が大勢いることを経験的に知っていますし、彼らが学
>校教育の意味を問い質すことは否定されるべきではないと思い
>ます。リワキーノさんは学歴を過度に重視する社会のムードに対して
>懐疑的でありながら、学校はそうした社会のニーズに応えてい
>るだけだからという理由によって免責としていますが、その点
>については私は同意しにくい気がします。それならば、学校は
>進学塾あるいは予備校と全く同じものになってしまいます。
もう、自分の発言を訂正ばかりして本当に申し訳ないのですが、これも私の真意を誤解されています。いや、誤解ではなく、私の文章力不足ゆえの結果ですが。
私の発言は下記のとおりです。
>その気持ちはよく分かるのですが、それ
>を「何のための教育か」「誰のための教育か」という問題意識化
>して「制服」問題に象徴させ、国の責任追求、あるいは世の中へ
>抗議をすることは筋違いな気がしてなりません。それは教育シス
>テムの問題と言うより、学歴重視社会の要望に沿ってこそ我が子、
>我が生徒の幸せになる確率は高まると、確固たる信念も無く信じ
>たがたっている私達、親、教師を含む、国民一人一人の問題では
>ないかと思います。
私のこの文脈で一番言いたかったことは後半のところ、「学歴重視社会の要望に沿ってこそ我が子、我が生徒の幸せになる確率は高まると、確固たる信念も無く信じたがたっている私達、親、教師を含む、国民一人一人の問題ではないかと思います」です。
私の気持ちの中では、学校教育の責任を免責したりするつもりは毛頭なく、逆にかなり手厳しい批判を学校教育に抱き続けております。それは文部省を代表とする国家に対してもそうです。そのことについてはいずれ述べる機会があるでしょう。ただ、その両者を批判するだけではこの問題の根本解決は望めないというのが私の真意です。
そう言う意味では中谷さんの下記のお言葉は私の真意のほとんどを代弁して下さっています。
>恐らくリワキーノさんが本当におっしゃりたいことは、社会の大勢は学歴
>重視・学歴偏重であり、学生を受け入れる企業や官庁が高学歴の者
>を望み、親も我が子の将来のために学校に対しては大学受験に通る
>ための教育を望んでいるくせに、人々が学校教育について議論する
>際にはそうした本音は包み隠し、学校及び教師だけを悪者にすると
>いう偽善性についてだと思います。
これに付け加えるなら、偽善性を突くと言うだけではなく、国民一人一人の意識の変革が必要不可欠だということです。この具体的なことは別稿「学歴重視社会における私の取り組み」で述べます。
>この点については私も大いに賛同しますが、学校教育から落ちこぼれ
>た者が社会に対して問題提起することまで否定してしまうのはよく
>わからないところです。
これもそういったつもりはありませんでした。私の文脈からはそうとられても仕方なかったと思いますが、安易な問題提起に走ることへの疑問を述べたのです。
>教師が学問を教える際の技術を高めていくことは必要なことですし、
>その努力を怠りながら平然としている教師が多々いることに対して
>は、私もリワキーノさんと同じ意見を持っています。ただ、そうした教師
>に学問を教わったことと、マスコミなどが教師の技術的未熟さにつ
>いてきちんと問題提起してこなかった為に、学生達が問題を一般化
>する能力を身につけることができず、他者に責任を転嫁するという
>発想が出てくるのだというご意見については、今一つよくわからない
>点もあります。
これも短絡的な私の記述でした。
校内暴力や高校中退者が増えているという公立学校の荒廃ぶりについては詳細に報道し、教育問題については結構紙面を割く新聞が、肝心の教育での現場がどのような閉鎖的状況になっているかを大きく取り上げないことへのいらだちです。勿論、新聞の片隅には教育現場のことを問題提起する記事は時折ありますが、高級官僚の汚職や、証券会社や銀行などの不祥事を繰り返し報道して、国民に意識を向けさせるような大々的キャンペーンを教育問題についてはさほど熱を入れてしないことに私はかねがね苦々しい思いを持っていました。国民にとって官僚汚職や金融不祥事と同じような、と言うよりむしろもっと大事な教育の問題について新聞がいい加減な対応をしており、逆に、新聞ではないですが、毎年春になると恒例行事のように有名大学合格者名簿と出身校を掲載し、それを売り込みにする日刊紙系列の週刊誌など進学熱をあおり立てるような報道があることへの矛盾などへの不満を表明したものであり、このような上っ面な報道ぶりを高校生達は敏感に感じ取って国連への提訴をとったりするような気持ちになるのではないかと思ったのです。あくまでも私の飛躍した発言だったかも知れません。
ただ、正直に告白いたしますが、私もこの有名大学合格者名簿を掲載した週刊誌を購入して興味を持って読んだことがある一人でして、このようなことを偉そうに書く権利はないことも認めます。
(このリワキーノの発言は次回に続く)