(19のリワキーノの発言の続き)

 また逆に私は、風太さんのようには恵まれてはいなかったけれど、少なくとも母親の配慮によって本来の個性を大事に保ちつつ、優秀な大人となっていった(少なくとも彼と深くつき合った私や息子の教雄、村上英二さん、東野佳子さんはそう思っているのですが)アルバトロスクラブのメンバーKO-BUNさんのことをお話ししたいと思います。
 山田さんと同じように自称「落ちこぼれ人間」のKO−BUNさんも、高校時代、番長を張っていたというくらいのワルだったそうで、結局、そのようなすさんだ高校生活に嫌気がさし、中退しました。しかし、10年前に大峯山中で初めてKO−BUNさんと出会ったとき、彼は26才の若さでしたが、言葉遣いの丁寧な礼儀正しい応対と、あの独特の人なつっこい笑顔に私は魅了され、それ以来、彼との友情は今にいたるまで続いているのです。
 彼とつき合っていて一番驚かされたのは、番を張るほどの悪ガキであったという経歴からは想像もつかないほどの読書をしていること、そしてその読書の内容をキッチリと把握して自分の精神的糧としており、会話していても教養を感じさせることでした。
 例えばこういことがありました。平田 保さんという保険新聞の編集をやっている山仲間がおり、彼とKO−BUNさんと私はよく登山を共にし、往復のドライブの中でよく語り合うのですが、一度吉村昭の小説の話題になったことがありました。そのとき、KO−BUNさんは同氏の『高熱隧道』の小説の話をいたしました。黒部ダム建設の苦難を扱ったドキュメンタリー風内容ですが、KO−BUNさんがその小説の解説をする話は非常に興味深く、私と平田さんはその後、直ぐさまその『高熱隧道』を読んだのです。そしてその小説は大変面白かったのですが、私は自分が読んでみて、改めてKO−BUNさんの解説が実に簡潔にこの小説のあらましと魅力を表していることに深い感銘を受けました。私には自分が読んで感動した本を他人にこれほど的確に解説する自信はなく、KO−BUNさんの読解力と表現力が尋常でないことを感じたのです。これは知能の高さと感受性の敏感さを物語るものではないでしょうか。
 他にも読書に関するこういったエピソードはたくさんあり、彼が勧めてくれて期待はずれだった本は一冊もなかったのです。そして、もう一つ私が感心するのが、彼はこういった読書歴を決して自分からひけらかすことが無く、何かの話題でそれに関連したとき、自分の読んだ本を例に挙げるのです。例えばこういったこともありました。ある時、山中のテント泊のときでしたが、いつもこんなときは他愛のない酔っぱらい話の中に文学論とか人生論みたいな高尚な話題も差し挟まれる中で、私が毛沢東の意外な面を紹介する例としてシュトルムの『湖』をこの怪物のような大政治家が愛読していたことを話したとき、KO−BUNさんはその作品の印象を語りだしたのです。このときには失礼ながら本当に驚きましたね。シュトルムは世界文学の中では決してメジャーな存在ではなく、ドイツ文学にこだわる人達しか読まないような作家の作品が高校中退の男の口からヒョイと出てくるという成り行きに、私は彼の読書量の幅広さとまた、そのようなことを普段気付かせるような言動をしない奥ゆかしさに圧倒される思いでした。
 同時に私は、彼のこの読書への強い傾向はどんなきっかけから生じたものか大変興味を抱き、彼に尋ねてみたのです。私は、高校中退後に彼が読書の世界にのめり込んでいったものと最初思いました。ところが彼の答では、きっかけは幼少時のものだったのです。
 それは、KO−BUNさんが物心ついた頃から絵本とか童話とかを読むのが好きで、その傾向に気付いたお母さんが童話や少年少女向き小説類などをせっせと買ってきては彼に与えていたそうなのです。それで買ってもらった絵本や本などを片っ端から繰り返し読んできたため、自然と本を読むのが好きになり、長じて高校時代、ぐれることがあっても読書だけは欠かさなかったということだそうで、私はこの話に心底納得する思いでした。同じ絵本や小説を繰り返し熱中して読むことで想像力とイマジネーションへの強い感受性を磨かれ、また読書に熱中することで集中力を養われる、こういったことが現在のKO−BUNさんの非常に記憶力に優れ、新しい概念を簡単に理解し(彼はパソコンを購入したとき、誰のアドバイスをも受けずに独自にウインドウズやワープロ、インターネットの操作をものにしました)、人間や事物への鋭い洞察力を持つ能力を身につけさせたたのだろうと私は推察するのです。
(このリワキーノの発言は次回に続く)