(20のリワキーノの発言の続き)

 また、彼は、山行を共にしていながらいつも感じるのですが、私や平田さんに比べ、圧倒的に登山歴が少ないのに、山の地形を読みとることは熟練の域に達しており、特に山における危険予知能力と安全性への配慮は我々をも凌駕するような鋭さを持っております。このような男だからこそ、大峯奥駈で女性陣が下山していく大普賢岳からの急峻なコースを彼がサポートしてくれることに私は絶大なる信頼感を寄せているのです。
 このようなKO-BUNさんだからこそ、村上さんのような人が一晩、テントで一緒になったとき、睡眠時間2時間という夜更かしをしながら話に熱中し、それ以降、村上さんをしてブラザーKO-BUNとメールに宛名書きするような友情を抱かせたのだろうと思うのです。
 KO-BUNさんは天性優れた資質を持った人間なのでしょうが、現在のKO-BUNさんの教養や能力を形成する基礎はお母様の配慮によってなされたものであり、KO-BUNさんの話によれば4人の子供を抱えて家計が決して楽ではなかったのにもかかわらずこのようなことを大事にされたお母様の賢母ぶりが私には大変尊いもののように思われ、風太さんと同じほどではないけれども、KO-BUNさんは育った環境で幸運であったと思うのです。
 ただ、人間の優秀性を定義付けることについてですが、私やKO-BUNさんの場合は自分の趣向にあったために一般教養をある程度深めることができましたが、人間の優秀さを定義付けるのに世間で言うところの教養が必ずしも必要だとは思っていないことも大急ぎで付け加えます。
 広辞苑や大辞林にはのっておりませんが、若いころに教養と言う言葉を辞書で調べたとき、広い知識に豊かな情操を持つことと定義付けられていたことを覚えております。私はこの定義が好きで、広い知識も豊かな情操も非常に素晴らしい資質だと思いますが、人間の優秀さを定義付けるのにこれだけで決めるのは非常に危険だと思い、様々な意味での優秀さというものがあると思っております。
 一般に、高等教育や読書の幅広さなどを要求されないスポーツの世界で抜きん出た能力を発揮し、その道の第一人者となったようなスポーツマンには共通してその専門分野のスポーツ面だけでなく、人間としての品格、人生への洞察力、生きていく上での並ならぬ信念の保持というものをその言動から感じさせられる人が多いとは思われませんでしょうか。
 大相撲の世界で例を挙げれば歴代横綱中、明治時代の常陸山、昭和の双葉山などは相撲を離れたところでの人格の面でも多いに世間の賞賛を得た人でした。それと前者二人と並べるのには異論があるでしょうが、北の湖という横綱も、あのふてぶてしい取り口ぶりからは想像もつかないくらいプライベートな世界では控えめで身辺が清潔であり、責任感が強く、礼儀正しいといった立派な紳士なのです。大相撲ファンには人気大関の先代貴ノ花の敵役として憎まれ続けましたが、スポーツ記者や関取仲間や後輩、水商売関係で働く、特に裏方の人達に非常に好かれた相撲取りでした。
 中学校しか出ていないのにこの北ノ湖の人間としての優秀性は相撲という一つの道に邁進した努力の成果ではないかと思うのです。
 以上、ずいぶんくどくどとまとまりにかける文章を書き連ねてしまいましたが、私が決して「落ちこぼれ=優秀な人間ではない」などと思ってもいないことをご理解いただけましたでしょうか。

>学校教育から落ちこぼれた者が社会に対して問題提起することまで否定してしまうのは
>よくわからないところです。

 私も、何人であれ、学校教育の意味を問い質すことは否定されるべきではないと思ってます。私自身、そうしようと思っているのですから。ただし、くどいようですが、安易な問題提起に疑問を感じるのため、件の高校生の例を用いて批判した次第です。

>学歴偏重社会の風潮に迎合した形の学校教育のあり方を問題とすべ
>きかどうか、またそれが問題であるならばどうしていくべきなのか
>という議論ですが、非常に興味深いところです。もう少しお二人の
>ご意見をお聞きしたいと思っています。(中谷氏)

 これが一番重要な論点なのですが、残念ながら私は「それが問題ならばどうしていくべきか」への具体的な方法論をまだはっきりと確立しておりません。これは今後皆さんのご意見をいろいろお聞きしたいと思います。

>>私が言っている競争原理とは、学ぶことの意味を解らせ、学ぶこ
>>との楽しさを教えるのに技術的能力に欠けた教師があまりにも多
>>いことを憂慮し、彼らの教師としての能力を高めてもらうために
>>そこに競争の原理を持ち込む必要があるということを言っており
>>ます。これにはいろいろ反論があると思いますが、少なくとも、
>>教師は、教育のプロであるわけです。自分の専門教科で授業をす
>>るとき、生徒に解りやすく、退屈させず、学ぶことに集中させる
>>技量を身につけるよう努力するのは当然ではないでしょうか。

>この点においてはリワキーノさんの意見に賛成です。ただ、競争原理を
>持ち込むというのは実際のところ、そう簡単ではありません。一
>般企業においても昨今は欧米流に年俸制を取り入れて、競争原理
>を明確にする会社が増えていますが(私の会社もそうです)、肝心
>の評価体系の方は不備なままで、従来通りに上司の主観的判断の
>みに基づく場合が多いように思います。こうしたことは、試行錯
>誤をしながら進めていかざるをえないものなのでしょうね。

 「競争原理を持ち込むというのは実際のところ、そう簡単ではない」というご意見、まさに同感です。
 競争原理のシステムはキチッとした評価体系が確立していなければ意味をなさず、様々な弊害をももたらすことが想像されるからです。
 例えば、今回、教育改革法案の一つとして、学校運営における校長の権限の強化を挙げておりますが、長年、教育委員会からの命令に近い一方的な通達を伝達するだけしかしてこなかった現在の公立学校の校長達に、いきなり権限を持たせて教師の勤務評定や学校運営を指揮取らせようとしても無理だろうと思いますし、自分で判断し決断したことのない人達は見当違いなことをやりかねないと思います。もう一つの法案としての校長職を教員免除を持たない一般の人から公募するというやり方は教育現場からは相当抵抗があるようですが、閉鎖的世界にいて広い社会を知らない教師達の狭い視野を拡げさせるために外部の人間の刺激を与えることは良策のように私には思えます。
 競争原理の導入を成功させるためには、有名進学塾でやっているようなチェックする機能、父兄や各種の専門家で構成されるオンブズマン的存在が必要となってくるのではないでしょうか。おっしゃるとおり試行錯誤をしながら進めていかざるをえないでしょう。しかし、必ず何らかの方策を模索し続けなければならないと思います。

 簡潔にはほど遠い長い記述になりましたが、中谷さんの問いかけへのある程度のお返事となりましたでしょうか。不明な点がありましたらまたお尋ね下さい。
 ただし、私はまだ別に記さなければならないMLへの原稿を控えておりますので、お返事は遅くなると思いますが。