12月20日
リワキーノ様  FROM中谷 浩

>むしろこのように他者の意見、反論などを知ることによって自分
>の論点の不備、間違い、認識不足などを知ることができるという
> 意味で肯定的に考えてどんどん発言はしていったほうが良く、そ
>れによってお互い、論点のより客観的な認識を深めていくことが
>できるとも思いました。そのためには、お互い、相手の意見をそ
>れがどんな否定的な反論であろうとも虚心坦懐に受け止め、決し
>て感情的なものを挟まずに論議を進めていくことが絶対に必要だ
>と思われます。

 仰るとおりです。MLでの議論は互いの意見に耳を傾け合うことによって相互理解を深める為に行うものであり、相手を侮辱したり、ヒステリックな物言いをすること、また他人の人格を貶めるような発言をすることは許されることではありません。幸い、これまでにアルバトロス・クラブのMLにそのような類のメールが流されたことはありませんが、これからも最低限のマナーは守っていきたいものですね。

>私は制服の肯定、否定論を展開するつもりはなかったのです。本
>意は、制服問題を教育問題に安易に結びつけることへの疑問から
>記したのです。

 その点については理解しています。私も学校制服の是非についてはさほど関心を持っていませんが、歴史的背景については常に関心を持っています。以前にも書いたように、私が通っていた垂水の星陵高校に制服がなかったのは、学生運動が盛んだった頃に先輩達が激しい議論を交わした末にたどり着いた結論だったそうで、私は図書館に残されていた当時の記録や資料を調べてみたことがあります。

>中谷さんの制服に関する記述を娘に見せましたところ、制服を「
>個」の表現だとか、教育問題に結びつけて考えるような意識は私
>には無いし、私の周囲の友人たちにも無いと思う、このような論
>議そのものが大人達の発想ではないかと言っておりました。「大
>人の発想」はともかくとして、私もこのような問題意識の薄い高
>校生が大半ではないかと考えます。

 私もその通りだと思いますが、私は制服を「個」の表現と結びつけて語ってはいませんし、それをそのまま教育問題に結びつけてもいません。ただ、制服問題を国連に持ち込んだ高校生たちにはその種の問題意識があったのかもしれないことを示唆しただけだと思います。

>故・伊丹十三氏が何かのエセーで似たようなことを書いておられ
>ましたね。今、手元にその本が見つからないのですが、確か、ロ
>ンドン娘とパリジェンヌのオシャレの比較をし、ロンドン娘はブ
>ランドものを買うことによってオシャレを演出するが、コマーシ
>ャリズムの流行に乗せられているだけであってそこには個性の埋
>没が見られ、逆に、パリジェンヌはバーゲンセールを漁りながら
>個別に品物を求め、その中で自分の好みにあったコンビネーショ
>ンを創り出す、いわゆる個性が見られる、といった内容だったと
>思います。

 なるほど、それはわかりやすい話ですね。かつてはブランド物に身を包むのは東京ファッションであり、安物でも自分に合ったものを 選んで着こなすのが神戸ファッションと言われたものですが、今はどんなものでしょうか...。

12月20日 
FROM:宮城克彦

 宮城です。
 仕事中なので短いコメントで申し訳ないのですが関心があるものですから、ちょっと。

 僕自身高校生の時に生徒会中心の制服廃止運動には反対してきました。結局制服は存続したのですが、今はどうなってるか知りません。
 私見ですが、高等教育(大学以降)以外は基本的に規律訓練であり、そこには制度的な限界があると考えています。またそのように覚悟して高校に入学しました。個人的には英国留学を希望していましたが、諸事情から無理でした。ただ、たとえ英国に留学していたとしても、まず規律訓練という基本に反対する意図はありませんでした。
 父が高校教師であるということから僕自身教育の現場の実状は小中学校の頃からある程度知らされていました。端的に言って、教育する側の人材に限界がある。時間的にも精神的なエネルギーの上でも、厳しい限界がある。僕は最初入学した高校で非常に強い不満を感じたので、2年から転入学しました。そこは公立高校ながら自由な校風で、先生たちの質もかなりよかった。担任の先生は世界史担当でしたが、たとえばアン・ブーリンの生涯などについて詳しく物語ってくれるというふうな熱心かつセンスのいい方でした。
 また僕のことを「とにかく当校のような秀才校にはまず見られないスケールの大きな青年である」などと周りに推奨してくださいまして、(~-~;;なかなか生徒制御?も上手な方でした。
「生徒にはおだてりゃうまく行く子と、びしっとするとうまくいく子とがいる」と父も申しておりましたが、なぁに、人間どこかに褒める所はあるもんで、もしこのMLに先生がいらっしゃってですね、手に負えない生徒がいたら「スケールが大きい」とでも言ってあげるといいかもしれません。(~-~;;
 制度がどれほど改善されても、あるいはポリシーが変わっても、個々の教師の力量と時間的精神的余裕が増すのでないかぎり、なにかが改善されるということはないでしょう。
 制服にしても、東京には自由なところも少なくありませんが、だからといって何が大きく変わったという話もあまり聞かない。みんな制服でこそないけれど、似たような服装してますし。
 問題はむしろ自由且つ創意溢れる服装をして(仮に)なにをしたいのかということです。
 教育が体制であることは当然ですよね。僕は生命科学が大好きで、中学時代から一般書などを読んでましたが、そういうのは学校に期待する方がどだい無理なわけで、天文ファンの方でもそうだったでしょう? あるいは電子工学とか。
 僕の友人には理科の先生など足下にも及ばないほどの科学的知識を持った子たちもいましたし、英語も先生が「これでいい?」とお伺いをたてるほどの子もいました。そういう子たちは、制服問題には無関心でしたが、だからといって権力服従でもないし、権力サイドでもなかった。そういうのは超越していた。ある子などは、「好きな服装をしたくなったらここ辞めるよ」とか(冗談に)言ってましたが、それでいいと思います。
 今にして考えてみても、高校までで学んだことで本当に今の僕の精神的な営みにつながっていることはほとんどない。あるとすれば、それはすべて個々の先生の力量によるものであって、学校の制度とは一切関係ない。だから、はっきり言って、全員高校入学(どころか大学入学)みたいなことはもう止したほうがいいのではないかと思います。自分で独学出来ることはたくさんある。そうしてごく少数の人たちだけが学校へ行くようになれば、制度をなんとかする余裕もでてくるかもしれない。
 友人にも高校教師がいて、問題校に配属されて悩んでいますが、まさに毎日<おもり役みたいなものらしいです。そういう余裕なんてないのに、わざわざ問題を起こしてかまってほしがっているのかもしれない。
 何度でも言わせていただきたいのですが、きちんちした覚悟もなしに入学試験を受けるのはやめた方がいい。高校をでなければ生きていけないというのは妄想です。そういう妄想をもった人が多すぎるから、高校を出ない人が偏見の対象になったりする。高校は行かなくて当たり前。
 それこそが、体制を変える第一歩です。