12月23日
リワキーノ 様 FROM宮城克彦
宮城@旅する哲学者です。
>>私見ですが、高等教育(大学以降)以外は基本的に規律訓練で
>>あり、そこには制度的な限界があると考えています。
>初っぱなからこんな質問をして申し訳ないのですが、この文の意味がもう一つよく解らないのですが…
>規律訓練とはどういう意味ですか?また、「制度的に限界がある」ということは何
>をさして言っているのでしょうか?
こちらこそ言葉足らずですみません、ご説明します。
規律とは、もちろんルールのことですが、行動や考え方の枠組みであり、また一定の状況の中での規範でもあるといえます。
そういう意味では、高校までの勉学も、規律の範囲内での教育であることが基本で、自由な創意に満ちた学問をするほどの制度としてつくられてはおりません。
また、教師採用に際しても、そういった観点はもっておりません。
受験勉強に限らず、一般に基礎教育というのは、既存の知識や方法を模倣する訓練であって、それに対するチャレンジではありません。
僕の中学時代の親友は図抜けた科学センスをもっており、よく論議しましたが、たとえば静電誘導の際、原子相互間において電子の運動がどう影響しあい、その影響が伝わってゆくかというふうなことを考えてました。高校の物理の参考書ぐらいは既にマスターしていた男なので、そういう<規範的知識には対して興味は感じなかったようです。(数学も微積分まで行っていました。)
僕自身の中学時代の最大の関心事も、遺伝子進化ということであって、岩波の『科学』などで関連する論文がないかとあさったりもしていましたが、なかなかでてこなかったですね。今でもそういう観点で研究している専門家は日本にはほとんどいない(例の国立の遺伝子関連研究所の研究員である知人に聞いても、一人も知らないと言っていましたが……)ようです。
こういうことは<規範的な勉強をいくら熱心にやっても手が届くものではありません。
ただ、参考になる場合はある。しかし、規範的勉学を無条件に受けいれるという習性を身につけてしまうと、研究者としてはもののやくに立たない人間になってしまいます。
本来はそうなのですが、しかし、現実は惨憺たるものらしく、徒弟制度は今でも(大学のみならず各研究機関でも)根強く残っているようです。
端的に言って、高校までの教育は(大学でも大差ないケースがおおいようですが)具体的な知識そのものを授かるところというよりはむしろ知識の授かり方という<規律を訓練するところであって、学問をするところではありません。
以上、まとめますと、
規律訓練とは、単に制服を着用しなさいとか生徒手帳に書いてある規律を守る(そういう契約書を交わしたらいいかもしれないですね、入学時に)というふうなレベルだけでなく、勉強を教えてもらう方法とか、テストの受け方だとか、教科書に書いてあることはとりあえず!何の疑いもなく!信じて覚えることとか、そういう<規律の訓練を受けるという事です。
そして、「制度的に限界がある」とは、もともと高校はそういう規律訓練所としてつくられ機能するものであって、僕の中学時代の親友や高校時代の並外れた能力をもつ同級生たちとか、そういう人たちの個性をさらに伸ばすだけの研究施設や文献や指導教官もいないまた、高校のカリキュラム以外の分野でいかに面白いことをする人がいても、それを吸収する土壌は(通常)ないということです。
以上、最初のご質問だけにお答えしました。また別の箇所については改めて送信します。