12月23日
リワキーノ 様  FROM宮城克彦

 先にいただいたメールへの返信の続き:

>しかし、「これでいい?」と生徒にお伺いをたてる先生がいるとは嬉しくなります
>ね。そのようなおおらかさを持っているだけでもその先生は教師たる資質を持ってお
>られるように感じます。
>だいぶ前の話ですが、私の顧客の子弟で帰国子女がおりました。男の子ですが。
>日本の中学校に転入して、英語の時間でネイティブな発音をするものですから英語
>教師に嫌われ、授業中、絶対に当てられることが無く、英語に秀でていることを一つ
>も発揮する場がないばかりか、悪意さえ向けられることにその少年が意気消沈してい
>るのを母親から聞いて、私はこの教師をそこの教育委員会に訴えてやろうかと思った
>ことがありました。(ただ、これは若いころは血の気が多かった私の若気の太郎りとい
>うべき性行で、抗議するなら、まず、その当の本人の教師にぶっつけるべきでしょう
>が )教育者の資質として、自分には無い天分を持っている若き人をいかに育て上げるか
>に情熱を傾ける心情を持っていることが大切ではないかと思います。

 これはとても大切なことですね。
 幸い、僕が転入学した高校の先生方の大半は生徒たち、特になんらかの意味で高校教育の枠組みを超えた資質をもつ生徒を心底尊敬していました。
 言語がからんでくる教育というのは、基礎レベルはともかくとして、解釈などのレベルになると、確定したものは意外と少ない。ですから、特に古典の授業などではディスカッション風になってしまい、先生が「それもいい考えですね」「あ、その方が優れた解釈かもしれない」などと授業にならないこともありました。
 つまり、そういうことやってるといわゆる<授業は出来ない。
 その先生はまだ教師一年目でしたから、そういう自由さもあったのでしょうが、おそらくその後、方針を変えざるをえなくなったのではないかと思います。
 そういうこともあって、僕は高校生の数をまず大幅にへらすことから始めるべきではないかと考えるのです。
 最初に行った高校では、そういうことは一切なかったし、またそれが普通だろうと思います。
 そこでもたとえば現代国語の先生などは「宮城、どう思う?」ときいてくれたりしましたが、他の生徒はほとんど発言しなかった。質問されても、だまっているだけでした。
 教師がどれほど積極的な姿勢を求めても、生徒にそれにこたえられるだけの資質や姿勢、あるいは積極的な関心がないとどうにもならない。
 個性教育とかゆとり教育とか、そういうスローガンを信奉している方々は、ぜひ教育の現場がいかに墓場みたいな状況かきちんとごらんになってほしいと思います。
 すばらしい立案をし、それを実行したはいいけれど、生徒たちはぜんぜん乗ってこないということは現状のままだと大いにありうることです。
 高校に進学するのなら、少なくとも自分から積極的に勉強する姿勢を貫く覚悟で入学してほしいものです。
 ここのところを取り違えている人が多いようですが、高校は<義務教育でもないし、国家でもない。無条件にそこにいなければいけないという義務は一切ないのです。なお、狭量な教師というのはどこにでもいるもので、僕自身もそういう方々には苦労させられました。(~-~;;
 でも、たぶん個人の力量というのはどうしようもないでしょうね。英語なんかだと、自分できちんと訓練すればいいのに、自分より発音がかっこいいというだけで嫌悪するというのは要するにコンプレックスにすぎない。だから、実際、いわゆる帰国子女の方で、英語の時間はなるべく黙っているというケースもあるみたいですね。
 これは制度をどうこうしても改善されない別問題だと思います。それよりは、高校教師の採用数を今の数分の一にできるような状況にし、その給与も高く設定することです。そうすれば、彼らにもそれなりのプライドが出てくる。必然的に自分できちんと勉強する人の率も高まるでしょう。合衆国では今、教師の絶対数が不足していて、北欧あたりからまで要請してるようですが、英語はほとんどできないような人たちまで採用せざるをえないという現状らしい。クラスルームで生徒たちに英語を教えてもらいながら数学の授業をするとか。それもま、いいじ・ないですか。ただ、日本もいつまでもこうやって高校生数を肥大させたままだと、遠からずして、深刻な教師不足(質どころじゃなくて数!)をきたすでしょうね。誤解のないように申し添えておきますと、僕は決して少数エリートだけが高校へ行けばいいと言ってるわけじゃない。エリートという考えそのものがもう過去の遺物になりかけている。(そのためにプライドをなくして汚職その他という弊害もありますが。)今の<学力はもう古いのです。これは企業などで学卒の採用を担当してる人たちからもよく聞くことです。特に某超難関大学の卒業生は基本的に採用しないという話まで聞きました。エリートどころか、みそっかすになっちゃってる。教育ママというのはまだ生息してるようですが、一度彼らの話をよく聞いてみるといいかもしれませんね。蒼白になりますよ、きっと。

>宮城さんの意志によって転入学されたのですか?
>どういう状況で、どういう方法でそうされたか知りたいものですね。

 僕の意志であり、周囲の人たちの助力で出来たことでした。もし強いご興味がおありでしたら、(~-~;;またお会いしたときにでも直接お話します。(個人的なことなので。)ただ、今の学区制度は廃止したほうがいいですね。公立であっても、全国どこの高校でも受験できるようにしてほしい。そして、受験校などはもっと減らしたらいい。芸術関連や技術関連、芸能関連の高校も少しずつ出来てますが、ああいうのを増やしてほしい。ついでながら、受験時のファッションで合否を決める高校みたいなのも作ったらいいでしょうね。皮肉じゃなくて、いろいろあったほうがいいし、これからはそういう多様性が必要でしょう。僕はたまたま転入学試験に受かりましたが、ほんとうは難しいらしくて、東京の著名な進学校から来てた子は落ちました。大変だなと思いました。というのは、単身で東京に残らないといけないと言ってましたから。学力だけで人の生活を左右するのはバカげてます。しかも試験なんて一発勝負でしょう。ひどすぎます。

 アン・ブーリンの生涯は悲劇としてもよくできてますね。相手のヘンリー8世があれでしょう、すごい肖像画ですよね。で、アンはとても可愛くて華奢で……悲劇です。(^^ゞ
 ただ、そこからイギリス国教会というのが出来て神聖ローマ帝国の域外になるとか、個人的なドラマが大きな歴史とからみあってるところがまた面白かった。

>誉め育てることが非常に有効的であることは事実ですが、私の経験からは、その誉
>める対象に対して深い共感を持っている場合と、そうでない場合はずいぶんその効果
>も違うように感じました。
>一人の子供の中で、普通、世間ではそれほど評価されない資質に目をつけ、その資
>質から生じる性行が世間一般の評価を受ける能力へ発展せしめていく可能性を見出す
>ことがそのそばにいる大人の大切な責任のように思います。(このつたない表現で解
>りますでしょうか)

 そういう目利きを身につけるためには、私たち大人が偏見に捕らわれない自由な感性と価値観を身につける必要があり、常に努力を怠らないことが大切であると思います。 ポイントを外しておだててもダメですよね。むしろ本人も気づいてないほどの美質を心から褒めるといいですね。そういう意味では、高校教師の採用は学卒段階ではやらないほうがいいかもしれない。社会を見て、人間を見る目を養って、それから先生をすればいい。特に、海外駐在経験が豊富な人を優先して採用してほしい。アルバトロスには適任の方がたくさんいらっしゃいますね。

>私は日本国民の三分の一が宮城さんの主張されるような確固たる信念を持っておれば、今>の教育問題は>>存在しないのではないかと思ってます。
>しかし、大多数の人が学歴偏重の妄想(一概に妄想とも言えない面もありますが)に支配>されていると思われる故、この問題のクリアが非常に困難であると考えております。

 バブル期のさなか、僕は友人と電車に乗っていて、「一人でも多くの人がたとえ半年間だけでも土地を買い控えたら、地価は暴落するだろうね」という話をしてたことがあるんですが、辺りはとたんにし〜んとなって、みんな耳を傾けてる様子でした。その半年後、実際バブルは崩壊しました。 まさかあのときの僕たちの四方山話が原因というわけでもないでしょうが、口コミというのはすごい力をもっていますからね、案外わかんないですよ。(^^ゞバブルは当然崩壊する運命にあったわけですが、本当はもっと早く崩壊していれば、これほどひどい状況にはならずにすんだはずなのです。僕がもっと早くあの話をしてれば日本経済は救われたかも?いや真面目な話、おかしいと思ったら、きちんと発言していくことです。それも説得力のある端的な意見を広めることです。インターネットによって、口コミのパワーは等比級数的にアップしつつあります。下手な圧力団体よりはるかにパワーがある。それがネットワークです。今の経済不況は、いくらシステムを<改善しても救えないでしょう。変えるべきは、人々の考え方です。広い意味での哲学を変えていくこと。それが今後の世界を変える最大のパワーになるでしょうね。