12月23日
リワキーノ様 FROM中谷 浩

>「国家が多大な予算を費やしてその補助と運営にあたっているの
>ですから、国家に有益な、つまり日本人として適切な大人に育て
>上げることに力を注ぐのは当然」の文末に”当然”と記したのは、
>私がそれを肯定しているということになり、あきらかに私の文法
>上の書き間違いでした。山田さんが不快に思われたのも”当然”
>だったわけです。「一国の政治を預かる政治家首脳部や政府は、
>自国の目指す国家理念に国民を従わせるために国民子弟の教育に、
>”当然”一つの政治的意図をもって介入してくるだろう」との私
>の推察なのです。

私はリワキーノさんの発言のご趣旨をそのように理解しておりますので、ご安心ください。私の疑問点はリワキーノさんのおっしゃることが正しいとすれば、日本国家はどのような大人を「日本人として適切」と考えているのだろうかということでした(自分自身、「日本人として適切ではない」ような不安も感じておりますので(^U^)。それに対して丁寧なご回答をいただき、ありがとうございます。

>以上の説明、で次の中谷さんの提案についても論議する必要のないことをご了承いただけますでしょう
>か。

>>私はここで国家論にまで話を広げるよりは、まずリワキーノさんのお
>>っしゃられた「公教育の使命」=「国家にとって有益な大人=
>>日本人として適切な大人を育てること」という定式が本当に成
>>り立つのかどうかを議論すべきだと思います。

少し問題を整理しておきたいのですが、リワキーノさんと山田さんの論争のきっかけとなったのは、どこかの高校生が自校の制服制度は自分たちの自由を侵害しているとして国連に訴えたことに対して、リワキーノさんは「お門違いだ」と批判され、山田さんは「それはそうかも知れないが、多くの学校の現状を考えると高校生たちにも同情できる」と擁護されたことでしたね。
そして、きっかけは「学校制服」でしたが、この議論に参加した方々の多くは制服の是非論自体にはさほど問題意識を持っておらず、むしろ教育現場の状況に対する問題意識が高かったと思います。他方、リワキーノさんが公教育の背景には国家の意図がある筈という趣旨の発言をされたことから、ではその意図は何なのだろうかという話になったものと理解しています。
それに対するリワキーノさんのご回答をいただいたわけですが、大変示唆に富む内容で、特にフランスの事例などについては啓蒙していただきました。またいつもながら、韓国の歴史についてはお教えいただく点が多々あります。ありがとうございます。ここでリワキーノさんが語っておられる幾つかの事柄に対して、特に反論はありません。
私は多くの国家は「個人=家族=国家」が連続性を持つものだという神話を成立させるために様々な努力をし、そのために国家のイメージ作りをしてきたと思うのですが、それが公教育の、ことに歴史教育の内容に対して多大な影響を与えてきたことは間違いないと思っています。
リワキーノさんが指摘された「工業立国としての日本を成り立たせるための理工系重視の教育」というのは存在すると思いますが、私にはそれは「市場ニーズへの対応」という程度のことにしか思えず、日本国家が「日本人として適切」と考えるもの(仮にそういうものがあるとして)とはいささか次元が異なるのではないかという気がしています。
それはさておき、「個人=家族=国家」という連続性を前提に出発した国家ではありますが、現在世界各地において「国際市場が規模的に国家を凌駕」すると共に、「家族制度の揺らぎ」という問題が生じています。日本においてもかつて見られた「個人=家族=会社=国家」という連続性の神話は崩壊しつつあり、家族、会社、国家をすっ飛ばして「個人=市場」というダイレクトな関係も見られるようになっています。
このような状況が急速に進んでいる一方で、国家が持っている公教育に対する意図というものがどれほどの有効性を持ちうるのかというのは疑問ですが、それでもなお国家は歴史教育を通して一つの国家イメージを確立・維持しようとするのでしょうか? 答えは恐らく「イエス」でしょうが、「個人=家族=国家」という連続性が揺らぐと国家のアイデンティティも大いに揺らぐわけで、多くの国家はアイデンティティの再構築を迫られているように思えます。
実はこのあたりが私の問題意識の所在地なのですが、それは今回やている討議の内容から少しかけ離れすぎますので、また別の機会にお話しさせてください。

12月23日 16:26
リワキーノ様 FROM中谷 浩

> 自虐史観というのは、太平浩戦争で日本が中国や朝鮮・韓国、
> 東南アジアを侵略し、現地で行った様々な蛮行をありのままに
> 広く世間に伝え、教科書にもそのことの記述し、国民の猛省を
> 促そうとする人達の考え方で、自虐史観という言葉は対立する
> 自由主義史観の人達の投げかけた一種の蔑称です。自由主義史
> 観というのは、自虐史観の人達の運動に、あまりにも日本の行
(中略)
> 学に行った仲間達にもひけを取らないような知識と信念を養っ
> てきたことが彼らをして一目をおいて私に接してくれたのだと
> 考えております。

興味深いお話でした。また、リワキーノさんのおっしゃりたいことがよく理解できました。

> 私のこの文脈で一番言いたかったことは後半のところ、「学歴
> 重視社会の要望に沿ってこそ我が子、我が生徒の幸せになる確
> 率は高まると、確固たる信念も無く信じたがたっている私達、
> 親、教師を含む、国民一人一人の問題ではないかと思います」
> です。私の気持ちの中では、学校教育の責任を免責したりする
> つもりは毛頭なく、逆にかなり手厳しい批判を学校教育に抱き
> 続けております。それは文部省を代表とする国家に対してもそ
> うです。そのことについてはいずれ述べる機会があるでしょう。
> ただ、その両者を批判するだけではこの問題の根本解決は望め
> ないというのが私の真意です。

同感です。

> 国民にとって官僚汚職や金融不祥事と同じような、と言うより
> むしろもっと大事な教育の問題について新聞がいい加減な対応
> をしており、逆に、新聞ではないですが、毎年春になると恒例
> 行事のように有名大学合格者名簿と出身校を掲載し、それを売
> り込みにする日刊紙系列の週刊誌など進学熱をあおり立てるよ
> うな報道があることへの矛盾などへの不満を表明したものであ
> り、このような上っ面な報道ぶりを高校生達は敏感に感じ取っ
> て国連への提訴をとったりするような気持ちになるのではない
> かと思ったのです。あくまでも私の飛躍した発言だったかも知
> れません。

子ども達が何か事件を起こす度に「学校のせい」「社会のせい」などという声が上がりますし、メディアには特にその傾向が強いようですね。ダイアナ妃が亡くなった時のニュース報道において、フランス人の女性が泣きながらパパラッチの行為を批判しているシーンをTVで見ましたが、その中で彼女が「私はダイアナ妃の熱烈なファンで、彼女が出ている雑誌は全て買っていた」と語るのを聞いて、不謹慎ながら吹き出してしまいました。こうした庶民の心性を見抜き、操作したり、利用したりする手法がマーケティングであり、当然のことながらメディアはそれに基づいて記事を書き、新聞や雑誌を売っているわけですよね。ですから、メディアなどには最初からあまり大きな期待をせぬ方がよいような気がしています。−−メディアは何故ステレオタイプを好むのか?これについては鈴原花子さんたちが出された『笑われる日本人』にも示唆的な記述が多々あります。
(完)

※アルバトロスクラブ・メーリングリスト上におけるこの論議はこの中谷浩氏の発言でもって途絶えました。