7月3日
鈴原花子様 FROM:リワキーノ
>私は先にボリビアン・ナイトについてメイルを書いてから、ジュンク堂に行って、藤原書店から出>ているガレアーノというウルグアイ人が書いた『収奪された大地ラテンアメ>リカ五百年』という
>本を買ってきて読もうとしています。えらく分厚い本なのでちょっ>とびびっているのですが。な
>にしろ五百年だもんね。
是非、読破されて、その内容の概略をMLに発表いただけませんでしょうか。
五百年と言われますが、ローマ帝国史は3倍の千五百年であり、中国、朝鮮史にいたっては三千年〜五千年ですよ。ただ、ラテンアメリカの歴史と言うのは我々日本人にとっては馴染みが薄く、まったくの初心者として入っていかなければならないところがローマ、中国、朝鮮の歴史研究とは違うハンディを背負われるとは推察いたしますが。
歴史好きなリワキーノより。
山田です。 FROM:山田太郎
>>私は先にボリビアン・ナイトについてメイルを書いてから、ジュンク堂に行って、藤
>>原書店から出ているガレアーノというウルグアイ人が書いた『収奪された大地ラテン
>>アメリカ五百年』という本を買ってきて読もうとしています。えらく分厚い本なので
>>ちょっとびびっているのですが。なにしろ五百年だもんね。
>是非、読破されて、その内容の概略をMLに発表いただけませんでしょうか。
>五百年と言われますが、ローマ帝国史は3倍の千五百年であり、中国、朝鮮史にいたっては三千年>〜五千年ですよ。
ペルー大使館のホームページにペルーの歴史が紹介されていますが、ペルーの始まりは”紀元前1万8000年ですよ。(!)
7月10日
山田太郎様 FROM:リワキーノ
個人的に気がかりな問題を抱え込んでいてそれにかまけてしまい、しばらくメールを出せませんでしたが、それも解決を見ることができ、やっとメールを書くことが出来るようになりました。
前のメールで触れなかった表題の件で思ったことを記します。
相変わらずの独断と偏見の考えかもしれませんが、それを訂正、反駁する必要を感じられましたら、是非、ご意見を聞かせて下さい。
【国連に訴えた高校生】
リワキーノ曰く、
>>最近、日本の高校生が自校の制服廃止を国連に訴えて、
>>「君たちは幸せだ!」と国連からたしなめられたそうですが、
>>私は制服廃止を主張することは個人の自由でいっこうに
>>かまわないと思いますけれど、その国連と世界情勢への
>>認識不足が外国の人達には異様に映ったことと思いまし
>>た。大なり小なり、私達日本人にはこの高校生のような
>>甘さがあるのではないでしょうか 。
山田さん曰く、
>高校生たちが本当に言いたかったのは「制服廃止」ではなく、
>「制服」に象徴される、「何のための教育か?」「誰のための
>教育か?」という根本的な問題だったのではないでしょうか?
>「甘え」ではなく、問題を一般化する能力に欠けていただけ
>かもしれません。
実は、私はこの高校生のことは、週刊誌の吊り皮広告の文句で知っただけで、具体的な内容は全く知らないのです。
想像だけで、日本人の甘さに結びつけたのは軽率だったかも知れません。
ただ、山田さんの仰有るようなことがあったとしても、国連は国際間の安全保障を画策し、国同士の紛争や一国の内戦の解決を手がけ、世界の平均的レベルに達しない厚生施策の国々への援助をする機関ですから、この高校生の訴えははなはだしく筋違いであり、国連事務総長からであれ、我々日本人からであれ、厳しくたしなめられるのは仕方なく、また、我々同胞の大人としてはたしなめる義務があると思いました。
高校生の能力についてはそれぞれ見解の相違があるかも知れませんが、高校生ぐらいになればこのくらいの常識は備えていて欲しいと思ってます。
またもしかしたら、この高校生は、最初は筋をとおして高校の先生、校長、教育委員会、文部省へと訴えていき、いっこうに埒がつかないのに苛立って(何となく想像つきますが)、国連への提訴という思い切った手段をとったのかも知れませんが、それなら、国連からの外圧を受ければ日本の文部省も動き出すだろうという計算が働いたのではという穿った見方もされるわけで、もし、そのような気持ちがあったのなら、目的良ければ手段を選ばないという論理を肯定することにもなり、このような誤った論理をおざなりにすることは決して良いことではないと思います。
「何のための教育か?」「誰のための教育か?」という根本問題が「制服」に象徴されているのでは、という山田さんのご指摘については、もしそれが高校生の本音だったら私は肯定できかねる面があります。そんなに安易に教育問題と制服問題を結びつけて良いものでしょうか?
まず、制服についてですが、「制服」=「権力からの強制」、「個人の自由の束縛」=「悪」の図式があまりにも横行しているように私には思えます。
多数派では無いかも知れませんが、制服を好み、肯定する人達だっているわけです。この部類を占めるのが若者に無理解な大人達だけではないのです。
大阪市内のある私学女子高校は、そこの制服が女の子たちの絶大な人気を集め、その制服を着たいためにそこを目指す子がたくさんおります。かく言う私の娘もその一人でした。あいにく、娘は落ちましたけれど。
また、親御さんのかなりの人達が、制服ゆえに服飾問題で悩まされることが無く、便利に思っていることも知っております。
何しろ、ピアノ調律師である私の顧客の9割以上が女性で、そのうち7割が主婦であり母親である人達なのです。上記のことは、これらのご婦人達の話を聞いて到達した考えなのです。
ただ、男子生徒の大多数が制服を好まないであろうこと、また、公立高校では、男女関係ない大多数が制服を好まないであろうことは私も推察しております。
しかし、これは公立高校の制服があまりにも画一的であり、ファッション的に洗練されていない故であって、「個人の自由」とか「権力からの強制」と自覚している生徒がどのくらいいるだろうか、と疑問に思っているのです。
意地悪い見方ですが、大多数の子は、もしその制服がダサイものであっても、進学名門校のステータスを象徴するものと映ったとき、果たしてその制服を着ることに苦痛を感じるでしょうか。この点については今ひとつ自信が無いのですが、私の高校時代はまさにステータス故に、普通嫌う学帽も外出の折りにはほとんどの生徒がかぶっておりました。
このような私なりの考えで、「制服」をマイナスダメージでとらえることにはうなづきかねるのです。
「何のための教育か?」「誰のための教育か?」という根本問題についてですが、教育とは、未熟な子供達を常識と良識を身につけた成熟した大人に育て上げるのが本来の目的だと思います。
同時に、国家が多大な予算を費やしてその補助と運営にあたっているのですから(私学でも国の補助金を得ているので一緒です)、当然、国家に有益な、つまり日本人として適切な大人に育て上げることに力を注ぐのは当然であり、これは世界中のどこの国家でも同じで例外は無いと思います。
私はそれが良いとか悪いとか言っているのではありません。国家が関係した教育機関はどこでもこの支配を避けることはできない、公教育とはそういうものだと言いたいわけです。
この支配を受けないのは、私的な教育機関(私学ではありません)、受験塾や民間の教育機関でしょう。そのかわり、そういったところを出た生徒は、高卒の資格を国が認めません。
私のある知り合いは、親の信念で我が子をそういったところに入学させておりますが、そこを出ても高校卒にならないことを十分承知し、子息達もそれでよいと思っておられます。
そして、教育というのは本来、強制と権威の力を必要とするものだと私は考えております。
イロハから祖国の言語を学ぶことが始まり、1、2,3という数字を認識させることから算術の基礎学習は始まります。小学校の終わりまでに一応日常の生活には不自由しない知識と判断力を学ばせますが、ノウハウ的なものをたたき込むため、そこでは子供の要求とか拒否を許さない押しつけの一点張りで行われることは誰しもが認めることでしょう。
このやり方は、義務教育が終わる中学卒業まで続き、高校生になるとき、初めて子供達に選択の余地が与えられるのです。
そしてそこでは、拒否することも可能なのです。勉強したくなければそれを強制する権利は学校にも国家にもありません。落第が続けば当然中途退学となり、高卒の資格は取れないのです。
それでも絶対に後悔がなく人生を送って行ければそれは意志的であり、ある意味では非常に立派な生き方なのですが、悲しいかな、高校資格を取らなかった若者達の多くがそのことを悔い、またそれゆえのハンディに悩んでいることを私は知っております。
日本の各種技能資格試験の多くは、高卒であることを必須条件にしております。
ある専門分野の技術に性格的にも能力的にも適切なある若者が、その分野の上部グレード試験を受けるために泣く泣く高卒資格拾得通信教育を受けているのを私は知っています。
また、日本社会は歴然とした学歴重視社会です。
大企業はどこでも高学歴高偏差値の学生を採用したがり、高学歴高偏差値の学生は就職での選択も、そうでない学生に比べて格段に多くのチャンスを与えられております。中小企業も本音はそうだと推察されるのですが、何しろ、東大卒、京大卒が応募しない故、次善に甘んじているのではないでしょうか。かなりえげつない表現で申し訳ないのですが、私の言いたいことをもろに言えばこうです。
これは今まで頭のうちではよく理解しておりましたが、昨年の息子の就職活動において実感いたしました。
息子の卒業した関西学院大学はそれほど低レベルの大学では無いと思うのですが、それでも関西在住の企業からでさえ受ける対応は京大、阪大、神大という国立有名校との間に歴然としたものがありました。
それが社会のゆがみを生じさせるからといってそれを憂慮し改善の方法を模索することは大切ですが、その実状を直視することも必要かと思います。
これらのことを経験上熟知しているため、高校教師や親たちは、我が生徒、我が子に少しでも有利な将来が開けるよう、義務教育でもない高校教育を学ぶ子供達に干渉し、強制してくるのです。
子供達もそういった日本の学歴社会の実状と親や教師の思いを知るからこそ、ある程度はその期待に応えて頑張ろうとしますが、どうしても力及ばず遅れをとっていく子達が出てき、その子らが日本学歴重視社会の不条理に強い不満を持ち、反抗するのではないでしょうか。
その気持ちはよく分かるのですが、それを「何のための教育か」「誰のための教育か」という問題意識化して「制服」問題に象徴させ、国の責任追求、あるいは世の中へ抗議をすることは筋違いな気がしてなりません。
それは教育システムの問題と言うより、学歴重視社会の要望に沿ってこそ我が子、我が生徒の幸せになる確率は高まると、確固たる信念も無く信じたがたっている私達、親、教師を含む、国民一人一人の問題ではないかと思います。
あえて国家の責任を問う面を探すとすれば、大切な国民の子弟を教導する公教育の教師達の技術的未熟さとその企業努力を怠っていることにに眼をつぶり、競争原理のないところに放りっぱなしにしていることでは無いでしょうか。
こういった諸問題を吟味した上で教育問題に対して発言し、提案する土壌を新聞をはじめとするマスコミが作らないからこそ、子供達も、他者にその責任を転嫁しようとする発想になるのではないかと思うのです。
そういう意味では、高校生達が問題を一般化する能力に目覚めないのも一概に責められないところがありますが、だからと言ってそれを容認していては、いつまでも彼らの能力は今のままで終わりかねない、つまり、幼児化のまま大人になっていく危険性があります。
要は、間違ったことはハッキリとたしなめ、恥をかかせてでも知らせるべきだと私は信じます。如何でしょうか?
私は極端な論議をしているのかも知れず、皆さんの間に色々な疑問、反発を引き起こすかも知れません。私はこのメールを記している今現時点での考えを述べているだけであって、もし、私のこの極論を即座に覆すような論理を提出していただき、それが私を納得させれば、いつでもこの論議を引っ込めることにやぶさかではありません。
どうか山田さんに限らず多くの方々の意見をお聞きしたく思っております。
(ああ、疲れた!)
アッ、そうそう、先日の山田さんのメールで知ったのですが、ペルー大使館のホームページによると、同国の始まりは1万8千年前だそうですね。
世界最古の文明、メソポタミア文明が紀元前4千年ですから、そんな馬鹿な、と思ってブリタニカ日本版で調べると、紀元前8千年のころから人類が住み着いていたことが書かれていましたから驚きました。気の遠くなるような長い歴史ですね!
リワキーノ