リワキーノの発言(6)の続きです。

>>「何のための教育か?」「誰のための教育か?」という根本問題についてで
>>すが、教育とは、未熟な子供達を常識と良識を身につけた成熟した大人に育
>>て上げるのが本来の目的だと思います。

>私の長女が小学校1年生の時、おなじクラスに知的障害の子がいたのですが
>、みんながいくつかの漢字を覚えた頃、その子はやっとひらがなを覚えだし
>ました。ある日、先生がいくつかのカナをその子に読ませて全部読めた時、
>クラスのみんなが拍手したそうです。
>弱い者を助ける気持ちや仲間への共感は、子供たちよりも大人の方が「未熟」
>です 。
>教育は大人の価値観を押し付ける場ではありません。
>人間に生来備わった良いものを、最大限引き出す場であるべきです。

 知的障害児への子供達の暖かい対応はたいへん素晴らしいものですが、それが私の上記の教育観とどう矛盾するのでしょうか。
 私は公教育について言っているのではなく、教育とは何かということへの考えを述べたのです。
私の言う常識とか良識とは、そういった他者への思いやり、助け合いの精神をも当然含ませて言っているつもりです。
 「人間に生来備わった良いものを、最大限引き出す場であるべき」ということに関してはまったく同感です。しかし、先にも述べたように、その前段階として基礎能力を身につけさせるための強制的教育は必要であり、もちろん、その中には大人の価値観をおしつけるような面がときたまあるかも知れませんが、だからと言って、強制的教育のすべてが大人の価値観を押しつけるものとは思いません。
 ただ、日本の公教育ではそれが能率良く、子供達に受け入れやすい形で必ずしも実施されてはいない、と私も思っております。

>>同時に、国家が多大な予算を費やしてその補助と運営にあたっているのです
>>から (私学でも国の補助金を得ているので一緒です)、当然、国家に有益な、
>>つまり日本人として適切な大人に育て上げることに力を注ぐのは当然であり、
>>これは世界 中のどこの国家でも同じで例外は無いと思います。

>人間のために国家があるのであって、国家のために人間があるのではありま
>せん。

 まさにその通りですが、人間のためにある国家が現実的には人間に強制してくる、そう言った面をよくふまえて、私らが考える理想の教育を実現させるため、公教育の改善を実現させるための現実的かつ効率的方法を模索しなければならないと言いたかったわけでして、その対極する国家と公教育がどういうものであるか、ということを指摘したのです。
 つまり、国家のやり口をよく知り、それからの強い抵抗に遭うことのより少ない実現可能な方法を模索しなければならないと言うことです。

>>そして、教育というのは本来、強制と権威の力を必要とするものだと私は考
>>えております。

>「本来」ではなくて「現状」ではないですか?教育は強制じゃなくて、能力
>を引き出すために、学ぶ面白さを共有できる場であってほしいです。

 私の説明不足かも知れません。私が言う教育の強制はあくまで、初歩段階の基礎学習能力を学ばせるときのことを念頭において言っているのです。
 たとえば、小学校で九九の声を丸暗記させますね。何故、九九の声を覚えなくてはいけないの、と疑問視する児童がいたとしましょう、本人の意思を尊重して、それでは覚えなくてもよい、と言うわけにはいかないでしょう?
 九九の声は数を扱うときに、絶対に身につけておかなければならない技術ですから、もう理屈ぬきにたたき込むように覚えさせるわけです。こういった基礎能力学習の強制を言うのです。
 また、小学校における算数、国語、理科、社会は児童が嫌だからと言って、教えないわけにはいかず、その場合の学習の強制を指しております。
 それを中学校まで続けるべきか、ということには私は自信をもっては言えないのですが、義務教育という制度がある以上、一応、そこまでは範囲に入ると考えております。

>>このやり方は、義務教育が終わる中学卒業まで続き、高校生になるとき、
>>初めて子 供達に選択の余地が与えられるのです。
>>そしてそこでは、拒否することも可能なのです。勉強したくなければそれを
>>強制する権利は学校にも国家にもありません。落第が続けば当然中途退学と
>>なり、高卒の資格は取れないのです。

>「押し付け」の教育のために生来備わった良いものを失い、事物を抽象化す
>ることができず、他者のことを思いやる能力を奪われた高校生に、どんな選
>択肢があるのでしょうか。

 「押し付け」と取るかどうかは別として、その山田さんの疑問と危惧感は確かに私も感じます。
 上記のことは現状を説明しただけであり、私もそれを深刻な問題として捉えております。
 経済大国日本に生まれた子供達へ要求される基礎学習力はあまりにも膨大で、その負担に耐えきれない子供達が心を荒廃させていくことに私もひどく胸を痛めております。
 これについては下記の私の文の詳しい説明を別便で述べますのでそちらをご参照いただけますでしょうか。

>>それは教育システムの問題と言うより、学歴重視社会の要望に沿ってこそ我
>>が子、我が生徒の幸せになる確率は高まると、確固たる信念も無く信じたが
>>たっている私達、親、教師を含む、国民一人一人の問題ではないかと思いま
>>す。
>>あえて国家の責任を問う面を探すとすれば、大切な国民の子弟を教導する公
>>教育の教師達の技術的未熟さとその企業努力を怠っていることにに眼をつぶ
>>り、競争原理のないところに放りっぱなしにしていることでは無いでしょう
>か。

>「競争原理」を持ち込む必要なんてないんです。学ぶことの意味が見つから
>ないから、問題視するんです。

 私が言っている競争原理とは、学ぶことの意味を解らせ、学ぶことの楽しさを教えるのに技術的能力に欠けた教師があまりにも多いことを憂慮し、彼らの教師としての能力を高めてもらうためにそこに競争の原理を持ち込む必要があるということを言っております。これにはいろいろ反論があると思いますが、少なくとも、教師は、教育のプロであるわけです。自分の専門教科で授業をするとき、生徒に解りやすく、退屈させず、学ぶことに集中させる技量を身につけるよう努力するのは当然ではないでしょうか。
 大学時代の4年間、進学塾の英語教師を勤めてきた私の息子から聞いた話ですが、子供は、今まで理解できないと思い込んでいたことが理解できたとき、すごく快感を覚え、勉強が楽しいと感じ、意欲を持つようになるそうです。娘の高校時代の友達が英語の関係代名詞がよく解らないということで我が家にやってき、一晩、息子の指導を受けたときに眼からうろこがとれるような思いで理解したそうで、その友達は、自分の高校の英語の先生はどうしてこんな解りやすい授業をしてくれないのだろう、と嘆いたそうです。
 我が子を自慢するようで非常に見苦しくお感じかもしれませんが、生徒から低く評価されたらたちどころにバイト料に跳ね返ってくるという厳しい競争原理の世界で生き残るために、常に魅力的な授業、解りやすい授業を心掛けて息子は自己研鑽に励んできたからこそ、このような能力を身につけてきたのです。有名な塾の講師のほとんどが授業を教えるテクニックについてはプロと言って良いほどの力量を持っているのです。
 それが教育界の現状、特に公教育の現状では教師達がそう言った努力を充分にやっていないように思われます。担任の先生によって、生徒の落ちこぼれ度にかなり差があるにもかかわらず(と言うことは、優れた教師達ももちろんいるということなのですが、その数は少数派です)、授業能力が何の評価の対照にもならず、待遇に何の差も生じなければ、当然、必死の企業努力に励むことに真剣みがそなわる可能性は少ないと思うのです。
 ですから、私は、公教育にもこのような塾の競争原理をある程度導入する必要があると主張するわけです。ただ、塾は教育と言うより、偏差値を高めることに力を注ぐところでありますので、全人格的に教育する学校教育とは同一視できない面があり、すべてを真似せよ、と言うわけではありません。少なくとも、授業のテクニック向上だけは努力するような競争原理をと願っているのです。
学校の授業の限界を見限って、多額のお金を負担してでも塾通いに殺到する膨大な親たちがいるこの現状に、学校教育の改善に有効な方法を模索しない国の姿勢を私は大変問題視しております。

>>こういった諸問題を吟味した上で教育問題に対して発言し、提案する土壌を
>>新聞をはじめとするマスコミが作らないからこそ、子供達も、他者にその責
>>任を転嫁し ようとする発想になるのではないかと思うのです。
>>そういう意味では、高校生達が問題を一般化する能力に目覚めないのも一概
>>に責められないところがありますが、だからと言ってそれを容認していては、
>>いつまでも彼らの能力は今のままで終わりかねない、つまり、幼児化のまま
>>大人になっていく危険性があります。

>いろいろな面で「幼児化」しているのでしょうね。ただ、「幼児化」を進め
>ているのは私たちだと思いますが。

>>要は、間違ったことはハッキリとたしなめ、恥をかかせてでも知らせるべき
>>だと私は信じます。如何でしょうか?

>私は、むしろ彼らに同情してしまうのですが...。

 山田さんが、日本の学歴偏重の弊害を強く問題視され、それを何とか顕在化しなければ、という強い危機意識を持たれていることを今回の論争でひしひしと感じました。それゆえ、この高校生に強い共感と同情を感じられることもよく理解できます。
 それでも、私は、国連に訴えた手段はやはり間違っている、と考えるゆえに、このことをたしなめるのは大人の義務だと信じ、それを言わざるを得ません。