9月27日
リワキーノ様 & 山田太郎様 FROM 中谷 浩

 以前お二人が交わしておられたやりとり(高校生が自校の制服廃止を国連に訴え出たことに関する討議)を見ていて、何らかのコメントをさせていただきたいと思っていたのですが、多忙にかまけてそのままになっていました。もう少し正確に言うと、実はこのやりとりの発端となった週刊誌の記事を実際に読んで事実関係を確認した上でコメントしようと思っていたのですが、結局今日に至るまでこの週刊誌を見つけることが出来ず仕舞いです。その意味では今もなおこの問題についてコメントするのは少し気が引けるのですが、私なりに感じたことを少し書いてみようと思います。まずはリワキーノさんが7月10日に発信されたメールに対するコメントを述べさせていただきます。

>国連は国際間の安全保障を画策し、国同士の紛争や一国の内戦の
>解決を手がけ、世界の平均的レベルに達しない厚生施策の国々へ
>の援助をする機関ですから、この高校生の訴えははなはだしく筋
>違いであり、国連事務総長からであれ、我々日本人からであれ、
>厳しくたしなめられるのは仕方なく、また、我々同胞の大人とし
>てはたしなめる義務があると思いました。

 高校生達が自校の制服廃止を国連にまで訴え出たというのは、それを一種の人権問題として捉えようとした可能性がありますね。そうでなければ、ここに国連が出てくる必然性がありません。昨今の日本の学校では我々の想像を絶するほど奇妙な校則が作られ、学生達が無意味な管理をされているケースもありますので、高校生達が人権問題として自校の校則の異常さを訴えようとすることに正当性を認めざるをえない場合もあるでしょう。しかし、それを国連に訴えて出るということにはいささか無理があると思いますので、これはリワキーノさんの言われることが正論だと思います。彼らが自校の制服のことを討議すべき場はあくまでも自校の中でしょう。
 ちなみに私の通っていた神戸の星陵高校というところには制服はありませんでしたが、それも私たちの先輩諸氏が自校内で討議を重ねた結果そうなったものでした。私はその「歴史」に誇りを持っていましたので、日々自分の好きな服を着て学校に通っていました。当時の星陵高校にはかなりやんちゃな学生が大勢いましたが、ほとんどの者が学生としての節度を守りつつ、自分なりのファッションを楽しんでいたように思います。ファッションは「個」の表現として非常に重要なものではありますが、同時にTPOというものも重視せねばなりませんので、高校生ともなればそうした訓練を積んでいくことは悪いことではないと思います。

>「何のための教育か?」「誰のための教育か?」という根本問題
>が「制服」に象徴されているのでは、という山田さんのご指摘に
>ついては、もしそれが高校生の本音だったら私は肯定できかねる
>面があります。そんなに安易に教育問題と制服問題を結びつけて
>良いものでしょうか? まず、制服についてですが、「制服」=
>「権力からの強制」「個人の自由の束縛」=「悪」の図式があま
>りにも横行しているように私には思えます。

 「制服」=「権力からの強制」であることは間違いありませんが、「権力からの強制」=「個人の自由の束縛」という図式が常に成り立つわけではないと思います。また「個人の自由の束縛」=「悪」というのも常に成り立つわけではないでしょう。いずれも程度の問題だと思います。この種の議論はケース・バイ・ケースでやらないと、少々無理が生じると思います。
 ちなみに、私が通っていた神戸商船大学には制服があり、乗船訓練の時には必ず着用せねばなりませんでした。また、狭い船内での計1年に及ぶ厳しい訓練生活が多分に「個人の自由を束縛」されたものであったことは言うまでもありませんが、商船大学の学生というのは自由な精神を持った独立心の強い者が多く、そうした精神は乗船訓練を経てさらに磨きがかかっていったように思います。また、船に乗って国内外の港を訪問する際に、迎えてくださる方々に向かって制服姿で答礼することは軍艦や商船の船乗りとしては当然の礼儀だと思いますし、そこにはそれなりの歴史性もあります。私はそうした歴史にも敬意を払い、それなりの誇りを持って制服を着ていました。
(この中谷氏の書き込みは次回に続く)