(中谷氏の8からの書き込みの続き)

>多数派では無いかも知れませんが、制服を好み、肯定する人達だ
>っているわけです。この部類を占めるのが若者に無理解な大人達
>だけではないのです。大阪市内のある私学女子高校は、そこの制
>服が女の子たちの絶大な人気を集め、その制服を着たいためにそ
>こを目指す子がたくさんおります。かく言う私の娘もその一人で
>した。あいにく、娘は落ちましたけれど。また、親御さんのかな
>りの人達が、制服ゆえに服飾問題で悩まされることが無く、便利
>に思っていることも知っております。何しろ、ピアノ調律師であ
>る私の顧客の9割以上が女性で、そのうち7割が主婦であり母親
>である人達なのです。上記のことは、これらのご婦人達の話を聞
>いて到達した考えなのです。ただ、男子生徒の大多数が制服を好
>まないであろうこと、また、公立高校では、男女関係ない大多数
>が制服を好まないであろうことは私も推察しております。しかし、
>これは公立高校の制服があまりにも画一的であり、ファッション
>的に洗練されていない故であって、「個人の自由」とか「権力か
>らの強制」と自覚している生徒がどのくらいいるだろうか、と疑
>問に思っているのです。意地悪い見方ですが、大多数の子は、も
>しその制服がダサイものであっても、進学名門校のステータスを
>象徴するものと映ったとき、果たしてその制服を着ることに苦痛
>を感じるでしょうか。この点については今ひとつ自信が無いので
>すが、私の高校時代はまさにステータス故に、普通嫌う学帽も外
>出の折りにはほとんどの生徒がかぶっておりました。このような
>私なりの考えで、「制服」をマイナスイメージでとらえることに
>はうなづきかねるのです。

 ここでリワキーノさんの語っておられることには首肯できる点も多々ありますが、本来リワキーノさんがおっしゃろうとしていたことからは少し趣旨がそれかけているように感じます。例えば服飾問題で悩まされることがなく便利だからという理由だけで制服を是認するような方々がいても良いわけですが、そういう方は制服を肯定しているわけでも否定しているわけでもないわけで、竹田太助さん流に言うならば「どうでもいいという立場にあるが故の権力者」です。従い、ここでそういう意見をアンチテーゼ的に提出してしまうと、この問題の争点は少しぼやけてしまうような気がします。
 前にも書きましたが、ファッションは「個」の表現として非常に重要なものであり、しかしながらそれを通してTPOを考えるということで社会性を高めるためにも重要なものです。また、一つのファッションには多分に歴史性が関与している場合もありますので、私はたかが制服と言えども、もう少し多面的にきちんと考える必要があると思っています。リワキーノさんはファッション的に洗練されたものであれば制服を好んで着る学生が増えると書かれていますが、制服というのは本来的に「個」としての表現を抑圧する性格を持つものですから、そうした問題意識の高い学生は制服の洗練度にかかわらず、それを嫌うのではないかと思います。
 ところで、リタ・フリードマンの著作に『美しさという神話』(新宿書房)というものがありますが、この中で彼女は現代人のファッションが一見個性を強調しているように見えながら、実はある種のマス・イメージにからめ取られていることを指摘しています。こうなると一見自由な「個」の表現である筈の私服が制服以上に画一的ということもありうるでしょう。私たちが本来語らねばならぬのは、制服を着るか否かといった表面的なことよりも、学校での教育が真の意味で学生の「個」を大切にしつつ、その社会性をも高めていくように意図されているか? また、歴史をきちんと教えているか? といったようなことなのかもしれません。

>「何のための教育か?」「誰のための教育か?」という根本問題
>についてですが、教育とは、未熟な子供達を常識と良識を身につ
>けた成熟した大人に育て上げるのが本来の目的だと思います。

それは厳密には「家庭教育」及び「初等教育」「中等教育」と呼ぶべきでしょうが、同意できます。

>同時に、国家が多大な予算を費やしてその補助と運営にあたって
>いるのですから(私学でも国の補助金を得ているので一緒です)、
>当然、国家に有益な、つまり日本人として適切な大人に育て上げ
>ることに力を注ぐのは当然であり、これは世界中のどこの国家で
>も同じで例外は無いと思います。私はそれが良いとか悪いとか言
>っているのではありません。国家が関係した教育機関はどこでも
>この支配を避けることはできない、公教育とはそういうものだと
>言いたいわけです。

 「国家に有益な、日本人として適切な大人」というのが、具体的にどのような大人のことを指すのかがよくわかりません。もう少し詳しくご説明いただけないでしょうか?

>この支配を受けないのは、私的な教育機関(私学ではありません)
>、受験塾や民間の教育機関でしょう。そのかわり、そういったと
>ころを出た生徒は、高卒の資格を国が認めません。私のある知り
>合いは、親の信念で我が子をそういったところに入学させており
>ますが、そこを出ても高校卒にならないことを十分承知し、子息
>達もそれでよいと思っておられます。そして、教育というのは本
>来、強制と権威の力を必要とするものだと私は考えております。
>イロハから祖国の言語を学ぶことが始まり、1、2,3という数
>字を認識させることから算術の基礎学習は始まります。小学校の
>終わりまでに一応日常の生活には不自由しない知識と判断力を学
>ばせますが、ノウハウ的なものをたたき込むため、そこでは子供
>の要求とか拒否を許さない押しつけの一点張りで行われることは
>誰しもが認めることでしょう。このやり方は、義務教育が終わる
>中学卒業まで続き、高校生になるとき、初めて子供達に選択の余
>地が与えられるのです。そしてそこでは、拒否することも可能な
>のです。勉強したくなければそれを強制する権利は学校にも国家
>にもありません。落第が続けば当然中途退学となり、高卒の資格
>は取れないのです。それでも絶対に後悔がなく人生を送って行け
>ればそれは意志的であり、ある意味では非常に立派な生き方なの
>ですが、悲しいかな、高校資格を取らなかった若者達の多くがそ
>のことを悔い、またそれゆえのハンディに悩んでいることを私は
>知っております。日本の各種技能資格試験の多くは、高卒である
>ことを必須条件にしております。ある専門分野の技術に性格的に
>も能力的にも適切なある若者が、その分野の上部グレード試験を
>受けるために泣く泣く高卒資格拾得通信教育を受けているのを私
>は知っています。また、日本社会は歴然とした学歴重視社会です。
>大企業はどこでも高学歴高偏差値の学生を採用したがり、高学歴
>高偏差値の学生は就職での選択も、そうでない学生に比べて格段
>に多くのチャンスを与えられております。中小企業も本音はそう
>だと推察されるのですが、何しろ、東大卒、京大卒が応募しない
>故、次善に甘んじているのではないでしょうか。

 小中学校の教育が単なるノウハウの叩き込みであり、そこでは子供の要求や拒否を一切認めるわけにはいかないというご意見には賛同しかねます(勿論、部分的にはそういう面があることを承知した上での話ですが..)。そのような教育を受けてきた者が高校生になったからといって、いきなり自分の人生の方向性に対して正しい結論を導き出すことが出来るものでしょうか? 
 また、リワキーノさんがおっしゃる「日本は学歴重視社会である」という認識についてですが、これは旧来の企業社会を見る限りにおいては正しいと言えます。しかし、この傾向は現在急速に改められつつありますので、それが為に行きたくもない高校や大学にだらだら通う必要はないように私は思います。ただ、リワキーノさんのおっしゃるように、将来何らかの資格を取得する際に高校卒業資格が必要となる場合もありますので、それに備えて通信教育などで高校卒業資格を取得しておくのは賢明かもしれませんね。

(この中谷氏の書き込みは次回に続く)