教科書論議の場合も同じであつて、政治主義ゆゑに物の道理が等閑に附せられてゐる。なぜ識者はかうも教科書ばかりを論ふのか。教育の主役は教師であつて教科書ではない。教科書が立派でも教師が駄目なら教育の實は上らないが、教科書が駄目でも教師が立派なら生徒は感化される。さういふ至極簡單な道理を世人はなぜ悟らないのか。
(ここから以下を注意して読んでください。リワ)
確か海老名彈正の傳記に書かれてゐた事だが、昔、同志社の初等部に一人の熱心な老教師がゐた。同志社だから聖書講讀の時間があつて、生徒に聖書を讀んで聽かせる時は眞劍そのものだつた。眞冬、暖房の無い教室で聖書を讀んでゐると教師の鼻から鼻水が垂れて來て、それがいつ切れて開いた聖書の上に落ちるか、生徒はそれが氣になつて聖書もイエスも風馬牛であつた。が、イエスを崇拝する教師の眞摯だけは全ての生徒に通じた。小學校の教師は全科を教へねばならないが、その教師は數學が苦手であつた。數學の問題が解けなくなると、生徒に背を向け黒板と睨めつこをする。解けないからいつまでも仁王立ちである。けれども、教室は靜まり返つてゐる。一人拔群に數學の出來る生徒がゐて、それが終始俯いて教師のはうを見ようとしない。その秀才は無論教師を尊敬してゐる。尊敬してゐる教師の窮状を見るに忍びないから俯いてゐる。俯く秀才に倣つて惡童どもも俯く。それが教師の感化である。