『大峯におけるある行者の死』(2)
「本当によく来ていただきました。」と私の手を握りしめる不吹師の嬉しそうな顔色は
29日の断食中とは思えないほど元気そうで、ほっとするとともに何か胸が熱くなるよ
うな感激に襲われた。小田原の皆さんがたも不吹師との久しぶりの再会に、今までの
疲労などどこかに忘れたように輝く笑顔で次々と挨拶を交わす。
宇江敏勝さんの一行はまだ到着していないとのことで、無人小屋で不吹師自らおこ
してくれた焚き火を囲んで濡れた衣服や靴を乾かしながら不吹師といろいろ語り合う。
青山さんと佐田さんは写真家の本領を発揮し、不吹師の許可を得て、私と不吹師が
語り合う間、よくもまあこれだけ気前よくフィルムを使うものだと驚くほど、パシャッ、パ
シャッと不吹師の写真をあらゆる角度から間断無しに撮り続けた。
我々到着後15分ほどして宇江敏勝さんの一行10数名が到着した。宇江さんとは
5月の熊野奥駈で初めて会って以来の再会で、永年その著作を愛読している私にと
っては今日、深仙に来る楽しみにしていた理由の一つであった。宇江さん一行の人
数が加わると、今晩のねぐらは無人小屋だけでは手狭なので、不吹師の持参してい
るテントを張り、テント、無人小屋、それにここから10分ほど離れた所にある三重ノ
窟に分かれて今夜は泊まることにし、テントを張った後、私と青山さんは不吹師の案
内で三重ノ窟まで荷物を置きに行った。昔、役ノ行者が篭り行をされたという由緒ある
洞窟で、不吹師も最初の10日間はここの洞窟で寝起きされたそうである。
不吹師の張ったテントがそのままにされており、目の前に大日岳が見渡せ、静寂で、
一人深仙の夜を満喫するには素晴らしい雰囲気の場所である。青山さんもここで一
緒に寝ていただく予定だったのだが、園師が深夜に深仙に到着されるときにお迎えし
たいから無人小屋で待つとのことで、恐らく午前1時ころになると思われる園師の到
着を疲労困憊の身でありながらお迎えしようとするその気持ちに感銘を受け、またこ
のように慕われる園師のお人柄が偲ばれた。窟からみんなのいるお堂前広場に戻る
とき、不吹師の歩行がいささか遅れ気味で、初めて不吹師の断食行の体に与えてい
る影響というものを実感したものである。
広場にもどってからは私は宇江さんたちが宴会をやっている中に加えさせてもらい、
厚かましくも宇江さんから焼酎をご馳走になりながら皆さんとの歓談を楽しませてもら
った。小1時間ほどしてお堂で勤行を執り行うとのことで、いささか酔っぱらっている私
は躊躇したが、かまわないからと言われる不吹師の言葉に従い、お堂に上がって、不
吹師と小田原勢に混じって勤行を加えさせてもらった。
8時前ころにそろそろ寝につこうということで、私も三重ノ窟にもどることにし、ヘッド
ライトの明かりだけを頼りに、わずかな踏み跡しか着いていない窟への道をたどって
窟にもどったが、酔っぱらっていながらよくも迷わずにたどり着いたものだと思う。テ
ントに入って湿ったズボンを脱ぎ、テントの入口から上半身だけ出して、洞窟入口の
向こうに広がる星空をバックにした大日岳の黒々とした山々のシルエットを眺めなが
らアルコールを飲み、タバコをふかすのは何とも言えぬ情趣あふれるもので、まさに山
にねぐらする者のみに許された快感ではなかろうか。千三百年の歴史的由緒ある深
仙の地でのこの洞窟での一夜は生涯思い出に残ることだろう。
20分ほどで一人での宴会を止めて寝袋にもぐり込んだあと、瞬時にして私は夢の世
界に舞い込んだようで、突然の法螺貝の音にがばっと飛び起きたときはぐっすり熟睡
した後の午前2時のことであった。園師が到着してお堂で勤行が始まったのだと思うや
直ぐさまズボンをはき、ライトを手にしテントを飛び出してお堂広場へ早足で向かった。
坂を登る途中、法螺貝の音が何度かしたあと、今度は別のもっと低い音調の法螺音
がし、そのとき初めて、園師がまだ深仙に到着していないことに気がつき、よし、間に
合うと喜び勇んで坂を駆け上がった。
最初の法螺貝は園師が大日岳の山陰をまわったあたりで吹いたもので、別の法螺
貝
の音は不吹師の応答の法螺貝に間違いないと思ったのである。山伏たちの法螺貝
の応答は儀式的なものややらせ的なものは随分身聞きしてきたが、深夜のこの深仙
の地で、はるばる関東から駆けつけてきた山伏と断食行のまっただ中にいる山伏の
到着告知の法螺貝の応答は実に感動的であり、私はこのような稀有な場面に遭遇で
きる我が身の幸運に酔わずにはおれなかった。
急いで駆け登ったため香精水の水場のところまで来たときは息が切れんばかりに
なったが、よろめきながらもお堂前広場にたどり着くと、焚き火が燃やし続けられて
おり(宇江さんとその友人が屋外で寝るために燃やし続けていたそうである)、不吹
師と小田原の3人が立ち尽くして大日岳側の山腹を見守っていた。
私が着いてすぐに、その暗い山腹の上部にライトの光が現れ、続けて法螺貝の音
が鳴った。不吹師が応答の法螺貝を鳴らす間、私たちはライトを縦や横に振りなが
ら園師の降りてくる姿を見守り、やがて数分にして園師の山伏装束の姿が星空の下
にはっきりと見えたと思ったらあっと言う間に広場に到着されたのである。60日の断
食行の不吹師も不吹師だが、お寺の葬式の法事を済ませて昼ころに関東の小田原
を出発して、そのまま一気に熊野経由でこの大峯の最奥部深仙にしかも丑三つ時に
やってくるとは驚くべき修験者ではある。
不吹師と園師が抱き合わんばかりにしかっと手を握り合わせたとき、本当に胸の
中を熱いものがこみ上げてくるような感動を覚えた。以前に私の奥駈道縦走記に、
大峯修験道は北部の山上ヶ岳のみに修行が集中しているが、一部の少数の山伏
達の努力によって、全大峯が辛うじて修験道の山といえる状況にあると書いたこ
とがあるが、今夜、この光景を目の当たりにしてますますその感を深くした思いで
ある。
園師は太古ノ辻まではスムーズに登ってこれたそうだが、太古ノ辻に着くと誰しも
が経験する気のゆるみが生じたのか、そこから道に迷い、1時間半ほど時間を浪費
したとのことで、まあよくぞご無事にたどり着かれたことだ。
明朝の行動もあるので、30分ほどで解散し、それぞれ寝所にもどったが、私は、
今回は三重ノ窟にもどるのに道に迷い、途中で登ったり下ったりを繰り返しているう
ちに急斜面を滑り落ちたときに手にしていたコッヘルの蓋まで無くしてしまい、余程、
お堂の所まで引き返そうかとも思ったが、役ノ行者や実利行者の称号を唱えると有
り難いことにやっとの事で踏み跡を見つけ、洞窟まで戻ることができたのである。30
分後に洞窟に戻ったときはへとへとになっていた。
それにしても、昨夜から今朝未明における深仙宿の夜は忘れがたいものとなった。
「深き山に澄みける月を見ざりせば思い出も無きこの身ならまし」という西行法師が
深仙で詠んだ歌がしみじみと思いだされる。「今宵、このような美しい月を見ることが
無かったなら私の人生にはたいした思い出も残らなかったであろう」というのがこの
歌の意味である。月こそ出てはいないが八百年の時空を隔てて深い共感を感じる
深仙の夜であった。
(続く)