『大峯におけるある行者の死』(3)

 これ以降のレポートは、不吹師既に亡く、半月近くの日数が経った後に記したもの
である。
 満行間近の9月16日、深仙潅頂堂内で倒れている姿を発見され、隆滋神社、新宮
山彦ぐるーぷの人達の必死の蘇生処置もかいなく、二日後の18日、深仙から担架で
運び降ろす途中、釈迦ヶ岳の山腹にて不吹師は五十年の生涯を終わられたのである。

2度目の行中見舞い行                  平成7年9月15日
 関西支部の堂田弘文さんが、盆、正月以外で三連休の休暇を取れることは非常に
稀なことであったのだが、この9月15日から17日にかけてそれが実現し、彼のかね
てからの願いであった大峯北部奥駈道の縦走を実現すべく、平田さんに同行の協力
を願い、私が、車で前鬼まで送るサポート役を受け持ち、併せて深仙宿で断食行を継
続中の不吹師をお見舞いすることになったのである。
 前日、橿原市の堂田さん宅を夜の9時ころ出発し、前鬼林道詰めに着いたのは11
時半ころであった。林道詰めにテントを張り、翌日からの三日にわたる長い縦走を考
えればすぐに寝につけば良かったのだが、阪神大震災のこともあって、こうして一緒
に会うのは昨年の11月以来のことであり、寝酒のつもりで飲んだお酒が、積もる話
にあおられてつい飲み過ぎたことは人情として仕方のないことだったが、午前2時半
まで夜更かしをしてしまったのは、いかにも思慮の無かったことで、深く反省しなけれ
ばならない。結局、3時間半の睡眠しか取れないまま7時半、我々はあの、大峯屈指
の前鬼から深仙への登りへと出発していったのである。

 睡眠不足がたたって、思うようにピッチがあがらず、太古ノ辻に着いたのは9時半で
あった。休憩しているところに、前鬼側からモダンな装備の登山者が一人登ってき、
縦走ですか、と尋ねると、深仙宿で断食行をしている行者さんを見舞いに行くところだ、
と答え、即座に、一年前に大普賢岳で出会った下北山村の榊本さんではないかと思っ
て聞くと、「ああ、森脇さんですね」と答えるではないか。
 一年前、熊野修験奥駈修行のときに、折からの炎天下のなかを縦走してきて水不
足に苦しめられ、もう一滴の水も無く、皆が水への飢えに力尽きようとしていた時に、
大普賢岳頂上に居合わせた榊本さんが5リットルの水を提供してくれ、我々熊野修験
団は「地獄で仏」の思いをしたのである。それ以来、この方の名前は片時も忘れたこ
とは無かったが、その恩人が、初対面きりの私の名前を覚えていてくれたとは大感激
であった。

 榊本さんも交えて30分ほど談笑しながら休憩した後、元気な彼には先に行ってもら
い、我々は後からゆっくりと深仙に向かった。深仙着は10時45分頃であった。
 お堂のところで榊本さんが堂内の不吹師にしきりに語りかけているのを見つけ、すぐ
にお堂まで行って中をのぞき込んだとき、私は不吹師のあまりの衰弱ぶりに愕然とす
る思いであった。毛布をかぶったまま上半身を起こしておられたが、その顔の痩せ方
もさることながら、左目が瞼が閉じたままで、一生懸命開けようと努力しているらしいの
だが、全部開いてもすぐに力無く垂れ下がり、半眼になってしまう様は異様で、しかも
一番ショックを受けたのは視線がまったく定まらず、大変失礼な表現であるが、幽鬼
のような表情をしているのである。
 一時は声も出なかったが、気を取り直して、榊本さんとともに、即刻の行の中止をお
願いしたのだが、我々二人が誰であるかも認識していないのではないかと思われた
その茫漠とした表情が急に引き締まり、「大丈夫です。これ以上はひどくなりませんか
ら、ここまで来ればもう大丈夫です」とはっきりと拒否の言葉を口にされるのである。
そしてしきりに左目を大きく見開こうと努力するのだが、視線は已然として定まらない。
 中学校の理数系の教師である榊本さんは、これ以上の行の続行は絶対に止めさ
せるべきだと思ったようで、かなり粘って不吹師を説得するのだが、不吹師もまった
く応ずる気配はなく、私はそばで聞いていながら、不吹師は生きて帰れないのでは
ないかという不吉な思いが心をよぎったりしたのである。

 こんな状態の不吹師を上半身起こしたままでは良くないと思って、横になるよう何
度も勧めるのだが、うなずくだけで横にならないので、これは我々がそばにいる限り
駄目だと思い、「私たちは無人小屋でちょっと相談しますので」と言って、気温も低い
ためお堂の扉を閉めて、折から香精水の水場から帰ってきた平田さん、堂田さんと
ともに無人小屋へ行き、そこで食事を取りながら不吹師のことで話し合った。みんな
の意見はもう不吹師が危機的状況にあり、即刻、しかるべき処置を取らないと生命
の危険があるということで完全に一致し、特に榊本さんは、5日前に比べても別人の
ような変わりようで、今の状態でも、もう回復食自体を受け付けられなく、医師に来て
もらって点滴を受けさせなければならないのではないかと言い、どうやって不吹師を
説得するかに議論が集中した。私自身は、重々榊本さんの危機意識とまったく一緒
の思いであるが、今まで不吹師とお付き合いさせてもらってきて感じていた不吹師の
厳しい性格を思い起こすとき、誰がどんな説得をしようとも不吹師は従うことはないだ
ろうという気持ちを抱かざるを得なかった。

 結局、これといった名案も浮かばず、縦走を控えている平田さんと堂田さんをこれ
以上長く引き留めることはできないので、彼らを促して出発させ、後は榊本さんと二
人で不吹師をもう一度説得してみようということになり、午前11時半、彼らを見送った。
平田さんらが釈迦ヶ岳山腹に姿を消していった後、無人小屋に戻って榊本さんと話を
しているところに、突然法螺貝の音が聞こえ、誰かやってきたのかと思って外に出て
みると、深仙宿には人の近づく気配は無く、二度目の法螺貝が鳴ったとき、それが堂
内の不吹師のものであることに気づき、あんな衰弱状態で法螺貝が吹けるものなの
かと二人とも唖然としてしまった。そして三度目の法螺貝が鳴ったとき、直ぐさまお堂
に向かって走り、閉められた扉越しに「不吹さん、大丈夫ですか」と声をかけると先ほ
どよりはいくらか張りのある声で応答があり、我々は扉越しに語り合った。行の中止
を再度申し上げたが、予測通り、不吹師の気持ちはまったく変わらず、先ほどの法螺
貝を吹いたのも、平田さんらが出発するのを察して送り法螺として吹かれたのかと最
初は思ったのだが、どうも我々に元気なところを誇示しようとしたのではないかと考え
られ、事実、我々も不吹師は見た目よりはまだ元気なのかなという気持ちにさせられ
たのである。

 「今が最低の状態で、これ以上は悪化しません」と言われる不吹師の言葉にそれ以
上は反対の言葉を言うことができず、「痛みとか苦しみはありませんか」と尋ねると、
体がだるい他は肉体的な苦痛は無いそうで、ただ、しきりに「体を持て余している」と
口にされたことが印象深かった。それがどう言う意味なのか判らないので尋ねるのだ
が、「私は体を持て余しているんですよ」とつぶやくように繰り返すばかりであった。
榊本さんは「暇を持て余している」と聞きとったようで、私の思い違いかもしれないが、
後々、心に残る不吹師のお言葉であった。

 不吹師へのこれ以上の説得を断念した我々は心を残しながらも明日、隆滋神社や
新宮山彦ぐるーぷの人々がここに来て、最終的決断を迫ることに後は任せることに
して下山することにした。お別れを申し上げたら、「森脇さん、24日(満行翌日の護摩
供えの日)には来てもらえますか?」と言われたので、「もちろん参ります。前日の23
日から深仙入りしますよ」とお約束をすると、「山谷さんをお連れしてくれますか」と言
われ、私はここでハタッと言葉に詰まったのである。小田原の園師と共に行者仲間と
して不吹師と親交の篤かった山谷無心さんは不吹師の行入り直後から体調をひどく
悪くして入院したのだが、不吹師の断食行に駆けつけれない我が身をひどく恥じ入り、
その苦悩の言葉を直接聞いていただけに、私はどう言ってよいのか解らず、「山谷さ
んは入院しておられるので、多分無理だと思います。」と答えたが、不吹師は「そうで
すか」とつぶやいたまま、他は何も言われなかった。

 以前、山谷さんが高野山で修行をしている途中で、腸閉塞になって行を止めたこと
に対して、不吹師が私に「修行する身がそのようなことになるとは精神がたるんでい
るのだ」と言ったことがあり、その時、私は初対面の不吹師に激しく反撥心を感じ、し
ばらくは好感を持てなかった時期があった。しかし、その後、隆滋神社における柴灯
護摩に参加させてもらい、不吹師の信仰や、修行に対するひたむきな姿勢に目を覚
まさせられるような思いをし、今回の命を懸けているとしか思えないような壮絶な断食
行を目撃するとき、不吹師への反撥は跡形もなく消え、逆に深い尊敬と敬慕の念を
感ずるようになったのである。
 しかし山谷さんのように色々な弱さを持ちながら、それ故に悩み苦しみ、傷つきな
がらも常に神仏を求めて修行していく姿もまた尊く、私はそういった行者にも深く心引
かれるし、この対照的な二人の修験者のどちらがより優れているということは部外者
が軽々しく口にすべき事ではないと思うが、不吹師と山谷さんの間では色々葛藤があ
ったのではないだろうかと思われ、思わず言葉に詰まったのである。ただ、不吹師が
山谷さんの入院ということをどのような気持ちで受け取られたかは解らないが、山谷
さんに強く会いたがっていることだけはしっかりと私の心に伝わってきた。

 この一部始終は扉を閉められたままの状態で続いたのだが、最後に扉をほんのわ
ずか開けた隙間から中を覗くと、不吹師は居場所を代えてお堂内の左手の所に正座
しておられたのである。
そしてこれが不吹師と我々の最後のお別れとなった。深仙を後にしたのは午前12時
半であった。
(続く)