『大峯におけるある行者の死』(4)

行者の死                         平成7年9月17日〜18日
 大峯深仙宿へ断食行中の不吹師を見舞ってきた二日後の9月17日の深夜、新宮
の矢浜さんから電話で、不吹師重体の報を知らせてきた時は、ついに恐れていた事
態が来たな、と思いはしたが、その時点ではまだ私は事を深刻に考えてはいなかった。
 矢浜さんの話によると、16日に深仙を訪れた隆滋神社の人達が堂内に倒れている
不吹師を発見し、介抱した結果意識を取り戻したらしいが、衰弱が激しく、行の中止を
決めて翌日、隆滋神社と新宮山彦ぐるーぷへの救助を求めてきたそうで、折り悪く、
山彦の玉岡、山上の両リーダーは越後の山へ遠征中で夜をついて車を走らせて帰路
の途中にあり、明朝6時ころに新宮着とのことで、留守を預かる東さんが、担架を持っ
て救出に向かうメンバーを探している最中とのことであった。
 矢浜さんが電話してきた時点では、東さんの他は、玉岡重二さんと矢浜さんだけで、
矢浜さんの口調からも私にもできたら駆けつけて欲しい気持ちが伝わってきたが、
18日は重要な仕事を引き受けており、この真夜中の12時の時点ではとてもその仕
事をキャンセルできる状況ではなく、本当に辛い気持ちであったが断わらざるを得な
かった。親しい人が山奥深くで危篤状態に陥っているときに仕事どころの話では無か
ったかもしれないが、あれだけ献身的なメンバーが数多くいる新宮山彦ぐるーぷ内に
明日、あと一人の要員が見つけられないことは無いと思い、また、たとえ私が仕事を
キャンセルして明朝早くに大阪を出発しても深仙宿にたどり着くのは昼前ぐらいになり、
実際的役には立たなかっただろうという判断も働いたのである。
 しかし、長駆運転して帰って来る疲労した玉岡、山上の両氏は間違いなく、その足
で救出に赴くであろうことを確信する私は、お二方のご苦労を思うと、その夜は本当に
苦しい思いで寝に着いたのである。

 翌朝、すぐに山谷さんに不吹師重体のことを電話すると「今から勤行して不吹師へ
の神仏のご加護を念じ続けます。命に関しては多分大丈夫だと思います」と言われ
、とにかく新しい情報が入り次第連絡することを言って、次に玉岡さん宅に電話を入
れると奥様が出られ、たった今しがた深仙に向かって出発したとのことであった。
その後、私は9時過ぎには仕事に行かなければならないので電話を留守録にし、仕
事先から留守録の内容を把握できるようにして家を後にした。
 最初の顧客宅で仕事が終わったのが、11時45分で客宅を出て車に乗ると同時に
携帯電話で留守録内容を聞くと山谷さんからの「電話されたし」のメッセージが入って
おり、直ぐさま電話すると、いち早く知らせを聞いた園師が小田原の寺で身命安全祈
願の勤行をやっている最中とかで、園師に何か情報が入ったら山谷さんの所に電話
してくるとのことであった。
 昼食を終えて昼からの一軒目の仕事に入る直前に留守電を聞くと、また「電話され
たし」の山谷さんからのメッセージがあり、電話すると、「これから深仙宿に駆けつけ
たいと思うがどうだろうか」と言うので、こんな時間に行こうにも交通機関は無いし、
たとえタクシーで飛ばして行っても夜になり、とっくに救援隊は下山しているはずだし、
心臓の調子が良くない現状で行って、山谷さんまでが倒れたらそれこそ皆さんへ余計
な迷惑をかけるからと反対し、家で不吹師の身の安全を祈願することこそ山谷さんの
使命ではないですかと言うと、「良く解った」と了解してくれたのである。後から思えば
山谷さんは何か胸騒ぎがしたのではないだろうか。
 その後、最後の仕事を終えて留守電を聞くとまたもや山谷さんからのメッセージで、
すぐに携帯から電話すると、小田原の園師から電話があり、勤行中に不吹師の心臓
が停止したことを感じとったと連絡が入ったそうである。「園さんの勘違いであることを
祈る」と山谷さんは言うが、その声色の沈痛さに不吉なものを感じ、急ぎ家に帰り、
すぐに玉岡さん宅に電話を入れるとまだ帰ってなく、多分、深夜ころになるのではと奥
様が言われ、そこで、お店がある矢浜さんならもう帰っているかも知れないと思って電
話すると、今日は店を臨時休業にして出かていったとのことでこちらも帰りは何時にな
るのか解らないとのこと、気持ちのあせりを感じながらも私はそれ以上どうすることも
できず、家の中でじっと待っているしかなかったのである。

 そして10時すぎ頃であったか、山谷さんから電話で、不吹師が、先方、五条病院で
息を引き取ったという知らせが入ったのである。園師から、不吹師が五条病院にか
つぎ込まれた知らせを受け、山谷さんが直接五条病院に問い合わせたところ、既に
亡くなられていたことを確認した旨を言われたが、あまりのことに私はまったく声が出
ず、山谷さんが電話を切るまでろくにものを言うことができなかった。私は不吹師が
非常に危険な状態にあったことは理解していたが、あの荒行で鍛え抜かれた不吹師
がこんなに早く亡くなるなんて思いもしなかったのである。
 茫然自失となった私はその後、11時半までどうやって過ごしたのか今あまりはっき
りと覚えていないくらいで、ただ、玉岡さん宅に確認の電話を入れて玉岡さんから奥様
に入った電話で訃報が事実であることと玉岡さんら山彦の人達が新宮への帰途につ
いていることを知ったことと、平田、堂田、猪飼の関西支部のメンバーに不吹師死去
の知らせを電話したことだけは覚えている。平田さんが、「15日に釈迦ヶ岳の斜面を
登っているときに聞いた法螺はやはり不吹さんのものだったのですね。あの音を聞い
たとき、まだお元気なんだなと思ってました」としみじみと言われたが、おそらくあの時
の法螺が不吹師の吹かれた最後の法螺になったことと思われる。

 そして夜中の 11時半に堂田さんから電話がかかり、今から五条病院まで行って
来てお別れをしてくる、と言う彼の言葉で私は初めてしゃんとした気持ちになったので
ある。体調も万全でなく、仕事で疲れた体だろうにこの夜更けに不吹師にお別れに行
くという彼の気持ちが本当に嬉しく、「是非、関西支部を代表してお別れをしてきてくれ」
と私の気持ちを託し、そして帰宅したら必ず電話をくれるように言った。その後すぐに
矢浜さんから電話があり、たった今帰宅したことを言うなり、すぐに切られた。殺気だ
った声色で、不吹師の行の初めからビデオに撮り続けてきた矢浜さんのひどいショッ
クぶりが伝わるような感じであった。

 12時半に、五条病院から堂田さんが電話してき、不吹師とお別れができたこと、そし
て奥様を初めとする隆滋神社の方々はこれから不吹師の遺骸を伴って滋賀県に戻る
が、その前に吉野警察の許可をもらわなければならず、地理に不案内の皆さんを先
導して吉野警察署まで案内し、それから帰宅するとのことである。
 私はこの時ほど、この堂田弘文という若者を関西支部のメンバーに持っていること、
いや、友として持っていることを誇りに思ったことはないし、彼一人のおかげで日ごろ
たいした貢献もできない関西支部の面目も最後の最後に至ってほどこされるとまさに
感謝感激であった。彼が帰宅するまで不吹師の通夜をやりながら起きているから、帰
宅したら必ず電話をくれるように言い、それから私は不吹師の写真をかざった仏壇に
灯明と線香を絶やさないようにして、不吹師の冥福、堂田さんや隆滋神社の方達の帰
路の安全を祈りながら待った。予測より早く、午前2時過ぎに堂田さんから帰宅した旨
の電話が入り、そこで私もやっと床に入ったのである。
(続く)