『大峯におけるある行者の死』(5)

山彦ぐるーぷの人達の痛恨                 平成7年9月19日
 不吹師の死去という辛い事態に出会った翌朝は、起きたときから重苦しい気持ちに
支配されていたが、堂田さんの電話で、彼が、仕事の都合上今日以外の日は休みが
取れず、お通夜も葬式も出られないと思うので今日、隆滋神社まで行って来ようかと
思うが先方に迷惑ではないだろうかと言ってきたときはいっぺんに気持ちもしゃんとし
た。「何が迷惑なものか。遠路たいへんだけれど、きっとご遺族の方々は喜んで下さ
ると思う」と言って、関西支部からのお供えをも持って行ってもらうことを頼んで、彼を
送りだした。

 その後、玉岡さんから電話があり、昨日の一部始終を聞いたが、玉岡さんらが尾根
に駆け上がったとき、不吹師を伴った一行に出会ったのは、容態激変した不吹師をみ
んなで必死に人工呼吸をしている最中だったそうである。
 急を聞いて担架を持って駆けつけ、隆滋神社の人達と共に重体の不吹師を難儀な
山道を担って降りていき、途中容態の激変した不吹師を一時間にもわたる人工呼吸
を続けた東、玉岡重二、坪井、矢浜の各山彦の人達、玉岡さんと一緒に新潟から夜
通しで運転して帰ってきたばかりで山に駆けつけ、必死になって人工呼吸に加わる山
上さん、消防署に救急隊の派遣を要請するため急遽山を駆け下り、また救急隊とと
もに現場に駆け戻った玉岡さん、これら七十代前後の人達が、行半ばに死んで行こ
うとする行者のために阿修羅のように狂奔する様は想像するだに胸の痛むものがあ
って、そのときの皆さんの心情を思うと涙無しには聞くことができなかった。

 玉岡さんの電話の後、長田さんに電話で不吹師の死去のことを知らせると、長田さ
んは出勤した後だったが、面識のない長田ご夫婦も玉岡さんや私の手記で、不吹師
の行には深い関心を寄せていただけに奥様の驚きぶりは大きく、痛ましげに哀悼の
言葉を仰られた。その後、会社に着く頃を見計らって長田さんにも伝えると、長田さ
んらしく冷静に死去前の状況を詳しく尋ね、「不吹さんは死を覚悟しておられたので
しょうね」と言っただけで多くを語られなかったが、それだけに長田さんが不吹師の命
を懸けた行に深く心を揺り動かされたことが伝わって来るようであった。
その後、私は仕事に出かけ、仕事の合間に留守録を聞き続けたが、午後になって山
谷さんの奥様の伝言で不吹師のお通夜が20日、葬式が21日と決まった旨を知った。
夕方に山谷さんと玉岡さんに電話し、21日の葬式のみに出席することを決めた。

行者の葬儀                             平成7年9月21日
 21日の葬式は、玉岡さんのレポートに詳しく報告されることと思われるので、私は
小田原の園師とお話する機会が多かったことから園師に聞いた話を書き留めたい。

 まず、断食行30日目に合わせて私の案内で慣れぬ山登りを前鬼から深仙にやっ
てきた園師の小田原の信者である青山、佐田、末次の三氏が昨日小田原から駆け
つけ不吹師が荼毘に付されるのを見送り、今朝小田原に帰ったというお話には深く
感動した。二日間行動を共にしてこの方々の人柄の誠実さに心服していただけに
熱いものが胸中をこみ上げてくるようであった。亡き不吹師もさぞかしお喜びになら
れたことだろう。
 次に、山谷さんが昨日、通夜に来、今朝既に帰ったという話には、一寸びっくりし
た。山谷さんと不吹師、園師は三井寺の奥駈修行のおりに知り合い、肝胆相照らす
と仲となって、以後たいへん親密な付き合いを続けてきたにもかかわらず、今回の
不吹師の断食行に一度も見舞いに行かれなかったことに対して園師はかなり厳し
い苦言を山谷さんに言われたらしい。そんなことで気を悪くして葬式も出ずに帰る
ような了見の狭い人では絶対無く、山谷さんは山谷さんなりの人にはなかなか言い
難い事情があったに違いないと私には思われ、園師にもあまり気になさらないほう
が良いのではと申し上げた。

 不吹師の六十日の断食行については、山谷さんは最初から反対の立場を取って
おり、「四十日と六十日とでは断食の危険度が飛躍的に異なり、自分は不吹さんを
失いたくないのだ」と私に言ったことを思い出す。それでも断食行三十日目の折りに
は私に、一緒に深仙に連れていってくれと言っていたのが、体調を急激に崩してしま
い、とうとう不吹師の生存中に一度も見舞うことができなかったことが義理人情と友
情に敏感な山谷さんの心を複雑に苦しめているのではないかと私は推察するので
ある。

 そういった山谷さんの人柄については園師もよく理解しておられるようで、「私も、
山谷さんのような清濁合わせ飲む飄飄としたキャラクターの修験者だったら、もっと
幅広いタイプの人達への良き導師になれただろうに」と仰られたのには驚きかつ園
師の率直なお人柄に改めて心引かれるものを感じたのである。
 園師は青山学院大学在学中(筋金入りの修験者があの華やかな雰囲気のミッシ
ョン系の青山学院卒というのもユニークであるが)は登山部に入って山登りばかりに
青春の情熱をかけてきたそうで、父親が亡くなるまでは代々続いた修験道の寺の住
職を継ぐ気などはさらさらに無く、父住職が亡くなったあと、寺で後始末をしていると
きに、一人の老婆が寺に相談事に来、住職の父は亡くなってこの寺にはもう僧侶は
いないと断ると、その老婆が帰っていく実に淋しそうな姿に深い感銘を受け、そこで
初めてお寺を継ぐ決意をしたとのことである。このような経歴の園師ゆえに、園師の
もとに集まる信者さんはインテリっぽい上品な人々になりやすいのだろう。
 でも下は札付きの悪ガキから上は右翼の親玉のような世間から敬遠される人達が
周囲に群がってくる山谷さんや、修行に対して全く妥協のない神官でもある不吹師と
が、よく議論して衝突することがあるとき、いつも園師が間に入って潤滑油的な役割
を果たされていたことを山谷さんから聞いていたので、この三方の性格の異なる修
験者の取り合わせというのは実に素晴らしいものであったように私は思えていたの
である。女子供のように面には表さないけれども園師も山谷師も内心、慟哭の思い
であろう。

 告別式は多数の参集者のなかで神式に厳かに行われた。式場である建物の中に
もその前の天幕の椅子席にも入れない人で境内はごったがえしたが、深く印象に残
ったのは、一時間半にも及ぶ長い式進行のなかで自然にだれてくる人の多い中、山
彦の松本 良さんが、最後まで背筋をピーンと伸ばしたまま直立不動の姿勢で通し続
けたことで、自身、熊野修験団の重要なメンバーである生真面目な彼は、大峯修験道
修行半ばに命を失った行者への彼なりの精一杯の敬意を表しているのだろうと思った。
(続き)