『大峯におけるある行者の死』(6)

深仙への追悼登山行                  平成7年9月23日〜24日
 9月23日は、不吹師がご健在だったら、六十日断食行の満行の日になるはずであ
った日である。15日に不吹師をお見舞いしたおりに、満行の日は必ず参ります、と約
束した私は、18日に不吹師が世を去ったとき、23日は深仙へ赴いてお堂に泊まっ
て不吹師の霊を弔おうと心に決めていた。このことを知って猪飼康紘さんと堂田弘文
さんが同行したいと言ってくれ、また不吹師の葬儀で出会ったときにこのことを知った
松本良さんも「晩遅くなるかも知れないが必ず深仙へ行く」と言ってくれた。

 22日に台風が九州に接近し、一時は中止しようかとも思ったが、行けるところまで
行ってみようということになり、昼過ぎにJR王寺駅で猪飼さんを拾い、一路、十津川
村へ向かった(堂田さんは前日になって急用ができ、参加できなかった)。十津川村
旭林道の釈迦ヶ岳登山口に着いたのは、もう3時半で、着く頃に雨がぱらぱらと降り
出してきたが、風もそんなに強くなく、我々は深仙に向かって出発することにして雨
合羽と登山装備に身を包み、登山口に取り付いたのはもう午後4時前であった。
 杉林の中のジグザグ登りのときはほとんど風は吹いていなかったが、尾根に取り
付き、古田尾根と合流する地点あたりから急に強い風に吹かれだし、ブナ林がまば
らになってきた所では、台風接近を感じさせるようなかなりの強風になり、常に南西
方向から間断無しに吹きつけるため、バランスを崩しやすく歩きにくい歩行となる。
これが釈迦ヶ岳北側の岩場の痩せ尾根だったらかなり危険であっただろう。雨はそ
れほどひどく降らないが、ビュー、ビューという風の音が何とも言えず不気味であり、
数年前の台風でなぎ倒された孔雀岳近くの風倒木地帯のすさまじさを見ているので、
涸れた樹木が倒れてこないかと、不安を感じながら周りをキョロキョロ見ながら進ん
でいく。

 古田ノ森あたりから暗くなっていき、千丈平に着くころにはヘッドライトが必要となっ
てきた。風は急に収まったが、代わりにガスが漂いだし、深仙への巻き道を行くこと
にかなりの不安を感じる。山腹の道で迷ったら抜け出すのに大変な困難を伴うから
で、もし、前日に東さんが不吹師終焉の場所に建てたケルンのことが無かったら、迷
わず釈迦ヶ岳山頂経由の道で行ったことと思う。不吹師の墓標代わりのケルンの前
で供養をしたかったので、我々は十分休憩の後、巻き道へ踏み入れて行った。
 初っぱなからコースを踏み外してしばらくうろうろし、この先のことが思いやられたが、
道は分かり難かったがその後は一度も迷うことなく行けた。ただ、私の頭が大きいた
めヘッドライトがカッパのフードの中に入りきれず、常に小雨にさらされているために
途中でライトが消えてしまうのではないかという不安を感じ、猪飼さんのヘッドライトは
どんな状況かと聞くと、頭部フードの中にスッポリと収まっているということで一安心す
る。この雨とガスの真暗闇の中で二人ともライトをやられたらもう一歩も動けなくなる
だけに今日、猪飼さんが同行してくれたことが心底有り難く感じられた。

 このガスでは見過ごすのではないかと危惧していた東さんのケルンは突如として猪
飼さんのライトに照らされて眼前に出現した。ケルンは我々の予測を越えて大きく、平
石を何枚も重ねた立派な物であった。不吹師の臨終のとき、この近くで一時間にわた
って人工呼吸をし続けた東さんはどんな思いでこれを積み上げたことだろう。
 純白の生き生きとした白菊の花が全面の石の隙間にさされ、ワンカップのお酒と、お
米が供えてあった。持参してきた小菊の二束のうち一つを私がケルンの前に横にして
置くと、何事でもきちんと処置しないと気が済まない性分の猪飼さんが「地面にさした
方が長持ちするから」と言い、苦労してケルン横の石の隙間にさし込んだ。
 そして二人で般若心経を唱えたが、それまでは冷静であったのに私は急に胸が詰
まり、嗚咽しそうになった。辛うじて経を唱え続けることはできたが、猪飼さんがいなか
ったら私は声をあげて泣いたことだろう。誦経しながら目に入るガスと小雨に煙る暗い
中でのそのケルンの佇まいはあまりにも寂しく、不吹師はこんな所で息を引き取られ
たのかと思うとたまらなかった。「不吹さん、また来ますからね」とケルンに向かって声
をかけ、そこを出発する。

 十分ほど行ったとき、「前方から人が来る」という猪飼さんの声に目を上げると、霧
雨の中の行く手はるかにボーッと明かりが見えるではないか。こんな時間にこんな天
候の中を一体誰が、と一瞬ぎょっとしたが、しばらく近づいて行ってふとすぐ横に建物
が建っているのに気づき、前方の光が無人小屋の中の焚き火の明かりであることが
解って、初めて我々が深仙に着いたことが判明した。知らない間に我々はお堂裏の
土手の上に来ていたのである。急いで無人小屋に行って見ると、8人ほどの熟年の
パーティが宴会をしており、我々もそこに泊まると思ったのか、「何名さんですか」と
好意的な雰囲気で尋ねてくるので、お堂に泊まることを言うと、まあとにかく中へ入っ
て焚き火で暖まるようにと言われ、中に入らせてもらうとお酒をついでくれたりして皆
さん親切な方々ばかりである。

 我々が新宮山彦ぐるーぷの者だと判明すると、リーダーらしき人が「お堂内の宮司
さんはどうされているのですか」と尋ねるので、「宮司さんは亡くなられました」と言うと、
皆さん全員が「えーっ」と驚きの声をあげ、一瞬、水を打ったようにシーンとなった。
リーダーの人が「いつのことですか。」と言うので十八日と答えると、「私たちは、ここ
に到着したとき、お堂に声をお掛けして返事が無いので、修行の邪魔をしてはいけ
ないと思い、扉も開けず、今の今まで、宮司さんはお堂の中にいらっしゃるものとば
かり思ってました」と言われるのである。お堂前の縁の下に不吹師の草履がきちっと
揃えておいてあり、誰もがまだお堂の中にいるものと思うことであろう。
 そのリーダー、辻岡廣起さんの語るところによると、8月下旬に深仙に来たとき、あ
てにしていた千丈平の水場が涸れていて飲み水にも事欠いたとき、不吹師が貴重な
水を分けてくれたそうで、そのとき、不吹師から隆滋神社への伝言を頼まれ、下山後、
隆滋神社に手紙で不吹師の依頼事を知らせたとのことで、今回は、職場の仲間を連
れて釈迦ヶ岳に登り、下りは千丈平経由で深仙に来たのだが、途中でケルンの存在
には気がついていたが、まさか不吹師の墓標とは夢にも思わなかったそうである。我
々が今日、不吹師の追悼のためにこの悪天の中を登ってきたことに皆さん感銘を受
けられたようで、しきりにお酒と、おつまみ類を勧めて下さる。それも大変有り難く思っ
たが、何よりも皆さんが不吹師の事を痛ましく思われているかのような深い哀悼ぶり
が身に染みるように嬉しく、あの世の不吹師も深く慰められることであろう。

 無人小屋を辞去してお堂に行き、着替えを済ませて、持参した残りの花束を祭壇に
供え、私の先導で熊野修験奥駈で覚えた誦経の順序で不吹師追悼の勤行をやる。
この風雨の中を登ってくる松本さんのことが心配であったが、恐らく深夜になるだろう
と思い、食事の用意にとりかかっているところに、「おーい」という声が聞こえ、松本さん
だと思って、扉を開けて「松本さーん」と呼びかけるとやはり彼であったのである。時刻
は7時半と予測していたよりもはるかに早く到着したことに深い安堵と嬉しさが募って
きた。お堂前に姿を現したとき、無人小屋のパーティのことを話し、親切にしてもらっ
たことを言うと「先に挨拶してくる」と言って、無人小屋に行き、その後お堂に戻ってき
たのである。無人小屋の人達は、こんな悪天の中を次々とやってくる新宮山彦ぐるー
ぷの面々に感銘を受けたことと思うが、これほど慕われる不吹師の人徳に思いを馳
せるに違いなく、このことだけでも今夜我々が登ってきたのは不吹師への立派な供養
になったと思った。

 着替えをしてもらって松本さんを導師としてもういっぺん不吹師の追悼勤行をやった。
このとき、諸仏の真言を唱えるとき、実利行者尊の唱名のあと、松本さんが「南無不
吹行者尊」と唱えられたのには深く感銘を受け、私もこれからは私一人だけで諸仏真
言を唱えるときはこれでいこうと決意したのである。

 勤行が終わったあと、松本さんがザックから取り出した太平洋原酒での宴会が始ま
った。不謹慎と思われるかもしれないが、お酒の好きだった不吹師の霊前でのこの酒
盛りに私は何もやましく感じるものは無く、むしろ生前の修行中にも、人恋しさの気持
ちを隠すことの無かった不吹師は喜んでおられると確信できたのである。猪飼さんと
松本さんは一昨年の小峠尾根登山以来の再会であり、私も二週間前の熊野奥駈の
おりに会ったばかりであるが、その時は大勢人がいてゆっくり話す暇もなかったので
久方ぶりの松本さんとの酒を飲みながらの話しがはずんだ。
玉岡さんと奥駈道の刈り拓け作業をしているところに通りかかった奥駈行中の不吹師
と会ったのが最初の出会いであったことは私も初めて知ることであった。松本さんも、
ケルンの前でお経をあげたとき、嗚咽してまともに誦経出来なかったそうである。いつ
ものことながら随分お酒を飲んでしまったが、ただ、いつもなら途中で酔いつぶれて寝
てしまう私が今夜は最後まで意識がはっきりしていて、自分から宴会を打ち切ってシュ
ラーフにもぐり込んだのである。やはり、不吹師の霊前であまり見苦しいことはしてはい
けないという自制心が働いていたのであろうか。

 翌朝起きたときはぐっすりと寝た感じだったが、それでも明け方に凄い風雨の音で何
度か目は覚まさせられたのである。台風が我々の予測を裏切ってどうも本州よりに上
陸したようで、串本沖の大島の郵便局長である松本さんは巡航船が欠航になったら大
変だからと、勤行を済ました後、朝食もそこそこに8時ころ深仙を後にして帰って行った。

 その後、9時ころ無人小屋の人達も出発していったが、有り難いことに皆さんはお堂
前で焼香したいと言われ、縁側まで運び出した祭壇に次々と線香と賽銭を捧げて下
さったのである。皆さんが出発された後十分ほど遅れてリーダーの辻岡氏と紅一点
の若い女性が姿を現し、同じように瞑目し、若い女性の方は今朝方私が話した不吹
師の写真を是非見たいと言い、じっと食い入るように見つめていた。私はこのパーテ
ィの方々への深い感謝の気持ちが強く、もしよろしければ不吹師の行中の事を記録し
た新宮山彦ぐるーぷのレポートなどを送りたいと思うので、とリーダーの方に住所を尋
ねると快く教えてくれ、このたいへん感じの良いパーティは深仙を後にして行ったので
ある。
 その後、無人小屋に行ってみると、小屋内は床も土間も見事なまでに掃き清められ
てチリ一つ無く、ヤカンの表面はきれいに水洗いされ、中には水を満タンに入れてあり
驚嘆した。登山家の鑑のような人達である。一行の人達がそれぞれ言っていたが、
辻岡氏は職場でもプライベートのときでも皆さんの信頼が厚く、いつもあちらこちらの
山に連れていってもらっているとのことで、立派な人柄が十分に推察できる方である。
不吹師の満行の日にこのような爽やかな人たちが深仙に居合わせていたということは
不吹師の遺徳ではないだろうか。

 10時ころ、玉岡さんに頼まれていた三重ノ岩屋内の不吹師のテント撤収のために
出発。三重ノ岩屋のテントはいざ、撤収しだすと予想外に大きいもので、何枚ものシー
トを重ね合わせたフライシートを外すだけでも結構の手間のかかる代物だった。その作
業にかかりだして5分もしないうちに、「森脇さーん」と呼ぶ声に、もう玉岡さん達が来た
のかと思って外を見ると、何と、下北山村の榊本さんと同僚の山崎礼子さんではないか。
15日に深仙で会ったとき、この日にまた来る予定であると言った私の言葉を覚えてい
て、不吹師亡き後ももしかしたらと思って山崎さんと誘い合わせて登って来たとのことで、
たいへん感激してしまった。
 4人で作業にかかったのでスムーズに撤収は進み、しかも大きなテントと重たいフレー
ム、それに不吹師の細々とした仏具などは私と猪飼さんだけだったら一度では持ち運
びできなかっただけに、それらの大半を背負い子に背負って運んでくれた榊本さんらの
来訪は本当に有り難かった。

 お堂までテントその他を持ち帰った後、無人小屋で焚き火をし、談笑しながら玉岡さん
らを待つが、お昼になっても来ず、多分、台風が本州よりに上陸して天候が悪いため中
止したのだろうと考え、昼食を済ませた一時ころ、深仙を出発した。不吹師の遺品はす
べてお堂の中に残されているが、そんな不心得な登山者はまずあるまいが、高価な法
螺貝だけは万が一ということも考えて、途中転倒したときも大丈夫なようにシュラフ、衣
類などで厳重にくるんでザックに格納して持って降りた。従って、類稀なる修験者の法螺
貝は、短い間ではあるが、私が保管できるというたいへん名誉なことになった訳で、現在、
私の家にあるのである。

 不吹師の死に目にも会えず、遺体にもお別れできなかったが今回、こうやって本来の
満行になるはずだった23日と、仏教式では初七日にあたる24日の両日に深仙潅頂堂
で不吹師の弔いをすることができて、何か心が安まるものを感じたのである。
(続く)