『大峯におけるある行者の死』(7)
不吹行者の修行についての私の所信
不吹師の六十日断食行については世間では色々なことを言うかも知れない。
六十日の断食が科学的に妥当なものであったかどうかの是非は門外漢の私には
解らないし、何故、不吹師が五十日ではなく六十日という期間にこだわられたのか
その根拠も結局の所は解らなかった。行の最初から最後までビデオに撮り続けてき
た矢浜氏も同様なことを言っておられた。日数のことを言うなら、四十七日目に不吹
師が修験者として所属する○○寺の使者が持ってきた中止の勧告状に「これで十分
当初の目的を達せられた」という言葉も、何を根拠にそのように言えるのか私には
解らないのである。
私に解るのは、要するに行をやり続けた不吹師ご自身が、六十日やり遂げなけれ
ば全く意味がないと信じ込んでいたことで、私にとってそれは疑う余地のないことで
あった。六十日断食行を無謀なもの、命を粗末にするものという意見は当然出てく
ることと予測され、また、三人もの年端の行かない子ども達がいるのに父親としての
義務を果たさないままこのような命がけの行に取り組んだことへの批判もあると思う。
それに対して私は何も言うことができないが、ただ不吹師の修行の果ての死が無駄
死にのように言われたときは、私はそれを受け入れることができない。
私は、不吹師がもし六十日の断食行をやり遂げたとしても不吹師が望んでいたよ
うな悟りを得、衆生救済の力を身に付けられるかどうかはまったく解らないと思って
いるし、そのような宗教的、神秘主義的なことについてはノーコメントの立場しかとれ
ないのだが、神社の神主であり大峯修験道の修験者である不吹師が、宗教人として
世の役に立ちたい、多くの悩める人、不幸な人達の救済に力を尽くしたいと念願し、
それを実現するために不吹師が一番良いと思って選択した修行に命を懸けたこと、
これが私の心の中に理屈抜きに、重たい事実としてズシンとのしかかってくるのである。
人命尊重は大切な観念である。しかしそれが観念だけで終わってしまうのではこの
世の不幸は無くならないと私は思う。「人の命は地球よりも重い」とよく言われ、私もそ
れが正しい言い回しだと思う。しかし多くの人はこの言葉を観念でしか捉えていないの
ではないだろうか。もし真実、実感としてこの言葉を痛感しているのなら、現在地球上
のあらゆる地域で現実に起きている多くの餓死者、戦病死者のことを来る日のごとく
新聞テレビで見聞きしているのに、悠然と飽食に金儲けに熱中しておられる訳がない
と思う。観念でしか思っていないからこそ、平和な我が日本の繁栄を謳歌して心の隅
っこで僅かな憐憫を感じているに過ぎないのだと私はにらんでいる。勿論、かく言う私
も同類であり、それでなければ休日毎にこうして大峯にやってこられるわけがない。
その私を含めて誰一人、遠い外国の悲惨な人達のために自分の蓄え或いは退職金
のかなりの金額をさいて援助しようという発想にはならないということは、誰もが「人の
命は地球よりも重い」という言葉を観念でしか思っていないのだと言わざるを得ない。
またそれが当たり前なのである。普通の常識の世界で生きる一市民は、この世の不
幸を何とかしたいという願いは持っても、所詮それは自分の力を越えたものとして実現
は到底不可能というごく常識的な判断を下し、自分と自分の家族を守り、自分の心の
均衡を取るためにまわりの不幸な出来事を自分の意識の外に切り離してしまうのであ
る。それが人間というものであろう。
しかし、宗教人はそれに甘んじることができないような境遇に本来置かれており、そ
れを真摯に受けとめたのが不吹師なのだと私は思うのである。世の中の不幸な人々
の苦しみを看過していては自分の宗教人としての生き方は意味がないと思われたか
らこそ、そのやり方は論議の余地があったかも知れないが、衆生救済のために最も正
しいと信じて行った修行に命をかけ、そして現実に命を落とされたのである。その結果、
不吹師の望んでいたような形での衆生救済は果たし得なかったかもしれないが、宗教
人としてのおのれの使命を自覚して実践し、その為に命を落とした一人の同時代人の
存在に私は激しく揺すぶられるような衝撃を受けたのである。
私はこれからの人生で自分を律していくとき、いつも不吹師の真摯な生き様を意識す
るだろうと共に、大いに勇気づけられることが多々あるだろうと確信するのである。私
のような受け取り方は少数派かもしれないが、少なくとも不吹師の死を無駄死にと言わ
せないだけの人数の人は必ず存在するものと信じている。私には多くの知己友人がお
り、どの方々も私に取っては大事な人達であるが、私のこの展開してきた論理はそれ
らの人達の反撥と顰蹙、不信を買う恐れがあることは十分承知しているが私はかまわ
ない。私は、いかなる人であろうとも不吹師の死を無駄死にのように言われることには
断固として拒絶する。今までは私は大峯を歩き回るとき、私の個人的守護神として実利
行者をいつも念じ続けてきたが、これからは実利行者尊と共に不吹行者尊を私の守護
神として念じ続ける所存である。
(完)