『大峯山中で皇太子殿下にお会いするの記』
                             (平成2年6月14日)

 皇太子殿下が大峯登山に来られるという情報を耳にしたのは半月ほど前のことだった。
教えてくれた人のことは絶対に内密にしてほしいという約束なので明かすわけにはいかな
いが、情報は信頼できるものであった。
 浩宮様の時代からご誠実そうなお人柄と登山をたいへん愛されること(深田久弥著の日
本百名山の全登頂を目指されておられ、その一環として大峯にもやって来られるのだから
生半可な登山家ではない)にかねがね親愛の情を抱いていたその皇太子殿下が我が愛して
やまない大峯に来られ、しかも、奥駈縦走路のなかでもとくにハードなコースの山上ケ岳
、弥山間を縦走されるというのだから私にとって近年にないビッグニュースであった。
 お会いしたい、是非そのときに大峯の山のなかで登山服姿の殿下のお姿を見たいものだ
と思ったが、日程が水曜、木曜日と週の半ばで仕事の忙しいさなか休みにくく、また警備
も厳しいだろうし、たとえ入山できたとしてもこういった情報はえてして広がりやすいも
ので、私のような意図をもった多くの登山者でふだんは静寂な大峯も混雑するのではない
かと思い、その時点では山行を決めかねていた。
 ところが一週間ほどしたころ、山伏の山谷無心氏にこのことを話したところたいへん驚
かれ、「平成の皇太子が修験の山大峯に来られるのだから、これは山伏である私も入山し
て陰ながら殿下をお守りしたい。もりさん、行きましょうや、いや是非とも連れていって
いただきたい。お頼み申す」と、山伏らしい大時代がかった口調で熱っぽく言われたこと
から、山谷氏が一緒だったら心強いし、もし入山を禁止されても山のふもとでテントを張って
酒を酌み交わしながら一晩すごすのも悪くないと思い、大峯行きを決めたのである。
 計画すべてをおまかせする、と山谷氏に言われ、私がたてた計画は次のようなものであ
った。
 私の得た情報の内容は、6月14日、皇太子殿下は山上ケ岳を出発し、奥駈路を南下し
て弥山まで行き、弥山小屋に泊まって翌15日に天川川合に下山され、梅雨の季節がら天
候がひどく崩れた場合には山上ケ岳出発を一日順延するというもので、これからまず考え
られるのは好天、悪天にかかわらず6月13日中に山上ケ岳に登られてその日は山上の宿
坊で泊まられ、14日は早朝に山上ケ岳を発って弥山に向かうということで、悪天候によ
って日が順延されるのは山上ケ岳、弥山間のことだろうということである。
 そこで考えられるアプローチの方法は、@山上ケ岳に行って機会をうかがう、A和佐又
山ヒュッテに泊まって大普賢岳の頂上で待つ、B行者還岳の肩の無人小屋で待つ、C弥山
小屋で待つという4つのやりかたで、@とCは出発地と到着地のため護衛や報道関係者、
登山客などの多くの人による混雑が予想され、Aの和佐又山ヒュッテはたいへん快適な山
小屋なのだが、ここから2時間半で登れる大普賢岳の頂上は狭く、もし、私と同じような
意図を持った和佐又山ヒュッテ泊の登山客が大挙して登ってきたら頂上は足の踏み場もな
くなるくらいなので、迷わず一般の人のよりつきにくいBの行者還岳小屋で待つことに決
めたのである。
 悪天のときの日程順延に備えて6月14日、15日と休みをとり、13日、仕事を早め
に終えて午後2時半に寝屋川市駅で待ちあわせ、その日のうちに大峯山脈を東西につらぬ
く行者還トンネル西口まで行って弥山登山口近くのテント場で野営し、翌早朝にトンネル
西口から自動車で5分ほど後戻りした大川口から行者還岳への直登の道をたどって午前8
時までに行者還小屋に到達し、そこで皇太子御一行が通りすぎられるのを待つというわけ
である。
 ところがこの計画を電話で大雑把に山谷氏に知らせた2日後の日曜日、急遽山谷氏より
電話があり、実生(みばえ)さんを連れていってはいけないだろうかと言ってこられたの
である。実生守氏は山谷氏のお父上の行者仲間にあたり、お父上亡きあとは山谷氏が父親
のように慕っておられる方で私も一度お会いしたことがあり、そのご子息夫婦とは山谷氏
宅で何度か親しく会食を共にした間柄である。
 実生氏が筋金入りの行者であることは疑いもしないが、なんといっても79才の高齢で
ある。短いとは言え、あの急坂の山道を登るのは無理ではないかと思って難色を示すと、「
今年の5月、洞川から陀羅尼助茶屋まで登ったのだがそれでも無理やろうか?皇太子様に
お会いできるのやったら死んでもかまわん、と言ってますねん」と言われた。この世代の
人たちの皇族に対する尊崇の念がいかに強いかは戦後生まれの我々の想像を絶するものが
あり、人生の数々の修羅場をくぐってこられた老山伏が「死んでも」と言われるくらい思
い詰められているものをどうして無下に断れよう。
 何が何でも実生氏を皇太子に会わせたいという山谷氏の気持ちに心打たれ、深く共感し
た私は計画をもう一度検討してみた。変更すべきところは無かったが、大川口からの登山
路は一度も通ったことがないので道の様子がわからず、老人を連れていくことになった今
はそのことが不安になり、一度通ったことがあって様子を知っているトンネル口そばから
の尾根への急激な坂道のルートをとるかで、迷ったのである。
 そこで、その両方を知っている登山者仲間の長田正氏に尋ねたところ、大川口のルート
はもうだいぶ前のことなのではっきりとは記憶していないが、あまり苦労せずに登ってい
ったような印象が残っており、トンネル口からの道のほうが傾斜も急で、道そのものもあ
まりよくないような感じがするとのことであった。長田氏はそのあと、行者還岳小屋の管
理人に電話されて道の状況を問い合せてくれ、管理人の意見も長田氏と同じだった旨を知
らせてきてくれた。あやふやな情報を人に伝えることを好まない性格の長田氏らしく有り
難いことだと思った。
 ただその後、地形図を検討していて、大川口、行者還岳間の標高差とトンネル口ルート
のそれとが前者が600メートル、後者が350メートルと倍近くも違うのに気がついて
また迷ってしまうのである。山谷氏の話では、実生氏は普通の人の倍の所用時間は必要だ
そうで、大川口、行者還岳の地図上のコースタイムは2時間なので順調に行っても4時間
はかかるわけであり、途中で体調を悪くされたら1時間、2時間の超過はおおいにありえ
ると見なさなければならない。そうすると朝の5時に出発して行者還小屋に着くのが11
時ごろになることもあり、皇太子御一行が山上ケ岳を5時以前に出発した場合、行者還小
屋を通過される前に我々が小屋にたどり着けるかどうかが微妙になってくるわけである。
 そのことを山谷氏に話すと彼は「3時に出発しよう」と提案したが、老人を連れての夜
間の歩行は危険であることと、トンネル口からの道は急坂だが1時間ほどのコースなので
3時間もみておけば尾根にたどり着くことができ、あとは北の方角に向かって行者還小屋
を目指せばどんなにのんびり歩いても南進する皇太子御一行とどこかで遭遇するわけだか
ら確実であることを話し、ただ道が急なだけでなく悪い道なので実生氏が果たして登り得
るかを危惧していることを付け加えると山谷氏は即座に「実生さんは背負ってでも必ず登
ってみせます。まかせてください。それでいきましょう」と大きな声で言うので私も気が
楽になり、トンネル口から登ることに決めたのである。
 大峯行きが決まってからというもの14、15の両日にのっぴきならぬ仕事が入らぬよ
う会社のほうに手回しをし、17日の日曜日も一件仕事をかたづけて14、15の休日を
確実なものにするよう努力したのである。
 ○○電話で聞く週間天気予報は、14日前後は天気の谷間になっていて思わしくないと
いう予報を前々日まで流し続けていたが前日の夕方になって、雨はそう降らないだろう、
という予報に変わりホッとしたものである。
 12日、情報を教えてくれた方に電話して計画が変わっていないかどうかを確認したと
ころ、予定どおり14日山上ケ岳を出発し、台風でも来ないかぎり順延はないこと、その
日から洞川周辺は多くの警察官が入ってきて警戒体勢についていること、皇太子につき従
う随行員の数は百十数人であることまで教えてくれた。日程が確定していることは嬉しい
ことであったが、随行員の数が百十数人もいるという情報には多分に心が暗くなってしま
った。
 この山行を決めたとき、皇太子殿下にそう簡単に近くでお会いできるとは思っていなか
ったし、狭い尾根上ですれ違う可能性も大きく直前に警備の人たちによって足止めをされ
、さっと御一行が通り過ぎていくのを離れたところから垣間見るようなかたちになるので
はないかとも思っていたので、百十数人もの大人数ではどなたが皇太子か見分ける間もな
いのではないかと考えたのである。しかも雨天になってカッパを着込んでもおられような
ものなら恐らく見極めは不可能であろう。
 その夜、山谷氏と最終的な打ち合せをしたときにそのことを話し、実生氏にあまり期待
しないで欲しい旨を伝えてもらうように頼んだ。

 そして、6月13日、家の近くで午後1時半に仕事を終えた私が急ぎ家に戻って服を着
替え、すでに用意しておいた登山用具や食糧その他を車のトランクに放りこみ、寝屋川市
駅に車を乗りつけたのは2時ちょっと過ぎであった。
 山谷氏と実生氏はすでに来ており、お二人の山伏装束はかなりと目立ち、駅周辺にいた
人たちには随分と物珍しいものに映ったことだろう。
 2時20分、寝屋川市駅を出発して交野市に入り、生駒山系を越えて国道168号を一
路南下し、たいした渋滞にも会わず3時50分大和高田市に着く。ここのスーパーで食糧
を買うのに20分ほど費やし、御所市、下市町と抜けたあと大峯山中を1時間も走り続け
て天川村川合に着いたのが午後5時40分だった。
 警官の姿も見えず別に変わった様子もなく半月前に来たときと同じような静けさで、車
を行者還トンネルに通ずる道に乗り入れ走らせていく。途中1台のパトカーとすれ違った
がなんの制止の合図もなく、この調子だと少なくとも入山を禁じられることはないだろう
と思い、明るい気持ちになってくる。
 車道が布引谷から小坪谷に入るヘアピンカーブのところから北に視界が開け、夕方の横
日を受けた稲村ケ岳とバリゴヤの頭の眺めが素晴らしかった。車をおりて3人でその風景
に見入ったとき、実生氏が「こんな美しい大峯の山の姿を見るのは初めてだ」と言われ、「
この先何度もこの風景のことを思い出すことだろう。この美しい景色を見ることができた
だけでも今日来たかいがあった」とつぶやかれた。
 私はここからの稲村・バリゴヤのきりたった姿がたいへん好きで、今までにも20人は
下らないくらいの異なる人を乗せてここを通りかかったときにはいつもこの眺めに注意を
促すのだが、実生氏のように強く反応してくれた人は初めてで、その感動する実生氏の姿
に私が感動させられ、ああ、きょうはお連れしてよかったと思ったのである。
 私は、私の父を常々観察し、こうして今の実生氏を見るとき、老人というのは確かに体
は衰え、足腰も弱くなり、記憶力も瞬時の判断もにぶくなってくるのは事実だろうが、ど
うも感受性だけは衰えないのではなかろうか、とよく思うのである。否、むしろ老人のほ
うが、もうそう長い人生ではないという意識を持ちながら世の中のものごとを見ていって
いるだけに余計その感受性は深く鋭く研ぎすまされているように思えるのである。
 中国の晩唐の詩人、李商隠の詩に「夕陽無限に好し、ただ是れ黄昏に近づけれども」と
いう句があり、衰亡にむかう唐朝を悼む李商隠の憂愁を落日によせた美しい詩だが、この
夕陽のはかない美しさを人生の黄昏に近づいた老人の万感のこもった感受性と見るとこの
詩はぴったりとしたものがあるように私は思うのである。
 行者還トンネル西口に着いたのはちょうど午後5時半だった。週日だというのに6台ほ
ど車が駐車しており、そのうち1台には二人ほど中に人がいたが、我々と同じ目的の登山
者のものだろうと思った。
 さっそくトランクから野営に必要な物や用具一切を取り出し、3人で手分けして持って
百メートルほど離れたテント場に運ぶ。
 車道から50メートルほど入ったところで夫婦者らしきアベックがテントを張って夕食
の準備をしていたので挨拶をし、他にどのくらいテント組がいるか尋ねたら我々だけだと
言われた。明朝、弥山に登るそうで、皇太子のことはここに来て初めて知ったとのことで
ある。
 テントを張って夕食の準備をする。献立は鍋物で、白菜、葱にしめじ、豆腐それに鳥肉
、まぐろのぶつ切りに海老を入れた文字どおりのごった煮で、星の出てきた夜空の下で酒
を酌み交わしながらつっつく味は格別であった。
 明朝午前4時に起床なので午後10時前に後片付けをし、10時20分に一同シュラー
フにもぐり込む。その前に私が目覚し時計を車にとりに行こうとしたとき、山谷氏が「自
分がその時刻に必ず起きるから目覚しはいらん」と言うのを、目覚しがあると思うと安心
して熟睡できるのでと私は言って取りにいったのだが、これは裏返せば山谷氏の言葉を全
面的には信頼していないということの表明になってしまい、私は山谷氏に失礼なことを言
ってしまったことになったのだが、このことについては夜が明けてからひどく思い知らさ
れることとなったのである。
 シュラフにもぐりこむと同時にすぐに眠りの世界におちいったが熟睡とは言い難く、動
物の鳴声らしきいろいろな物音にしばし目が醒めるのである。ピー、ピー、とある一定間
隔をおいて聞こえてくるのは多分鹿の声だと思う。昨年、前鬼でテント泊したおりに聞い
たときのような幻想的な気持ちにはならなかった。他にも深夜だというのに鳥の鳴く声も
聞こえてきた。
 4時20分前に目が醒めそのままシュラフのなかでじっとしていると、静かないびきを
たてて熟睡していた山谷氏が突然「もりさん、今何時かな?」と言うので、時計を見ると
まさに4時きっかりであったのにはまことに驚きいったものである。どんなに熟睡してい
ても自分で決めた時間にきちっと起きられるそうで、ヨガの修行で身につけたそうである。
 コーヒーとクリームパン(普通のロールパンを買ったつもりなのだが中にクリームが入
っていた)だけの簡単な朝食をすませ、テントをたたんで後片付けをし、野営の用具一式
を車のところまで運んでいく。昨日駐車していた車のなかにいたらしき二人の男の人が外
に出ていたので挨拶をかわし、「昨夜は車のなかで寝たのですか」と尋ねると、似たよう
なものです、との返事だった。山に登るような様子でもなく、何をしにここまで来たのだ
ろうかと思ったが、下山後に解ったのだがこの二人は私服の警官だったのである。
 予定より30分遅れて午前5時半、我々はトンネル西口の登山口を出発して大峯の奥駈
尾根を目指して登っていく。
 空は曇り空だが雨の降りそうな気配はなく、晴れます、と断言する山谷氏の山伏として
の直感に期待する。初っぱなから険しい急斜面の悪路で、はやくも実生氏が登るのに難儀
され、彼の杖を私が持つことにして、両手を使って這うように一歩一歩登っていかれる。
ひどく緊張されているようで、ただでさえ青白いお顔が蒼白である。
 「大丈夫ですか」と声をかけると「だいじょうぶです。絶対に登れます!」と山谷氏が
代わって答え、その言葉に私も妙に安心して登っていく。
 道はときおりゆるやかなところもあるが大半は傾斜のきつい坂道で、山谷氏はほとんど
実生氏の後にくっつかんばかりにして介添えしている。二度ほど私の不注意で小さな落石
をしたので、実生氏のことは心配いらないから先へ行ってくれ、もし道が不明瞭なところ
があったらそこで待っていて欲しいとの山谷氏の要望で、私は20メートルほど先行する
ことになった。
 6時を過ぎるころから雲が薄くなって青空が見えてき、あたりの景色も明るいものとな
ってきた。ブナやヒメシャラなどの大峯では馴染み深い樹木がそこかしこに現われ深山ら
しい良い雰囲気である。途中一ヶ所、道に迷いやすいところで山谷氏らを待ったが、彼我
の距離は時間にして15分ほどのものであった。そこも険しい斜面で、健康な若者でも結
構つらい登りになるだろうに体調が万全でない79才の実生氏はどんなに苦しい思いをし
ておられることだろうと思いながら、這うようにして登ってくる姿を見守っていると、こ
んなにしてまで登ってもし皇太子様にお会いできなかったときの実生氏の落胆を考えると
辛い気持ちになる。
 そこから再び私だけ先行して、傾斜もゆるくなり比較的よくなってきた道をゆっくり行き
、6時55分シャクナゲの樹木の群生する痩せ尾根のところにさしかかる。道そのものは
しっかりしているが尾根の左側がかなりの急傾斜なので、高度感にあまり慣れていない実
生氏のことを考え、そこで待つことにした。あたりの地形は起伏に富んでいていかにも大
峯らしい雰囲気を感じさせ、すっかり晴れわたった青空の明るさが樹間越しにそこらじゅ
うの林のなかを照らし、野鳥のさえずる声以外物音もなく実にすがすがしい気分である。
この素晴らしい早朝の山の清澄さを味わいたいがために私は泊りがけの登山にこだわるの
である。皇太子殿下も今ごろこの大峯のどこかの尾根筋で同じ気分を味わっておられるに
違いなく、山を愛するものとしての連帯感をこのとき強く感じたものである。
 10分ほどして山谷氏らが到着、実生氏は思ったよりもお元気そうでホッとする。痩せ
尾根の通過もなんの支障もなく道はいったん下っていき、ふたたび登りとなる。もう奥駈
尾根も近いのではないかと思い、先に行って尾根に着いたらほら貝を吹いて合図すること
を提案したら、山谷氏は是非そうしてくれと言うので私は三たび先行して尾根をめざす。 
 そこからは普段の山登りのときの早さで歩いたのだが、思ったよりも尾根は遠く、20
分ほどして笹の繁るなかを道が不明瞭になってきたときやっと奥駈道に飛び出した。時刻
は7時半であった。ザックをおろし、ほら貝をとりだして立て続けに吹き鳴らす。誰もい
ない大峯の尾根上でほら貝を鳴らすのもまた格別の気分である。山谷、実生氏らに聞こえ
ているだろうか。何度も吹き鳴らす。
 空は雲がすっかり消えて素晴らしい快晴である。奥駈尾根の樹間から東側を見ると、薄
く靄のかかた台高山系の山々が朝の陽光に輝いてたいそう美しい。日が高く昇る前だった
らもっと神がかり的な美しさだったろう。4年前にハレー彗星が来たときに高野山で夜通
し観測した帰りの早朝に見た奥高野の朝もやにぼかされた山並の美しさに匹敵する景観だ
った。
 皇太子様もどこかでこの景色を眺めておられるに違いなく、百名山のなかではかなり地
味な存在の我が愛する大峯を、梅雨の季節にもかかわらずこのような素晴らしい晴天のも
とに殿下に見ていただけるのが嬉しくてならない。
 30分後に山谷氏らが到着する。私の普通の歩調で歩くとだいぶ差が出てくるようである
。15分ほど休憩して8時13分ここを出発し、奥駈道を北に向かって行く。尾根にさえ
出てしまえば南下してこられる皇太子殿下御一行と必ずどこかで出会うので我々はゆっく
りと進めばよく、のんびりと行く。
 私の予測では御一行は朝6時に山上ケ岳を出発し、早ければ10時、遅ければ11時半
頃に行者還小屋に着く見通しで、ちょうど小屋のところで出会うのではないかと思っていた。
 ところがトンネル西口分岐から30分も行っていない地点で4、5人ほどのパーティが
向こうからやってくるのが見え、近づいて来たとき先頭の者が無線機を手にしているのに
気がつき、皇太子御一行の先発隊に行き会ったことを知った。
 「こんにちは」と、こちらから先に声をかけると先頭の人も愛想よく挨拶を返してき、「
どちらまでいらっしゃるのですか」と丁寧な口調で尋ねられた。歳は30代後半ぐらいの
大柄で血色のよく、人懐っこい表情を浮かべたなかなかの美丈夫である。「行者還小屋ま
でです」と答えると、相手は一瞬なにかを考えるふうだったが、すぐさま「皇太子様のこ
とはご存じですね」と言った。実は山に登る前、このことについて問われた場合には情報
を教えてくれた人の助言にしたがってしらばくれることにしていたのだが、この礼儀正し
く気持ちのよい好漢を前にしてどうも嘘をつく気になれず、「はい、知っております」と
答えた。その人は、自分たちは警官で御一行の先発隊であることを説明し、皇太子様はこ
の後1時間の距離のところを来られており、行者還小屋で休憩された後この先300メー
トルのところのお花畑まで来られてそこで昼食をとられる予定であることを教えてくれた
のである。これは皇太子殿下が現実にこの奥駈の峰をこちらに向かって歩を進めておられ
ることの初めての確実な情報であった。
 遅れてきているが老人を含む二人の山伏を同行していることを話し、我々は殿下の御一
行に行き会ったときに御面前をさけるべきだろうか、とこの警察官に尋ねた。すると「いや
、そんな必要はないです。行き会ったらどうぞご挨拶をなさってごらんなさい。殿下は気
さくなかたですから、きっとご挨拶を返されると思いますよ」と彼は答えるのである。山
に入る前、もっと職務尋問に近い硬くて冷たい応対を受けるのではないかと思っていた私
の予想は見事にくつがえされ、このとき皇太子様にお会いできることを確信し、ああ、実
生氏の苦労は報われるのだという思いに胸がいっぱいになった。私は最近、感動すると胸
がふさがるような気分になることが多く、狭心症ではないかと思ったりすることがある。
もっとも狭心症の症状がどんなものかは知らないのだが。
 しかし吉報をもたらしてくれる人は神仏のように光輝くように見えるというがまさにそ
のとおりで、この警察官の親切な態度と優しい表情は感謝の気持ちとともに忘れられない
ものがある。
 先発隊が去っていったあと、その場で山谷氏と実生氏が来るのを待つ。やがてやってき
た彼らも先発隊から話を聞いたそうで、「実生さん、間違いなく皇太子様にお会いできま
すよ」と言うと実生氏は感慨深げにうなずいておられた。
 先発隊に遭遇してからは一定間隔ごとに御一行関係者らしき二人連にすれ違うように
なる。ボッカや腕章をした報道陣の人もいたがその多くは警官らしく我々のことを先発隊
に無線で連絡を受けているのか、ただ挨拶をかわしてすれ違うだけであった。
 山谷氏がほら貝を吹くように言ったが、まだその時期ではないと思って断ると山谷氏は
再三、要請し、私にその気がないと見て取ると「自分が吹く」と言い出した。ここで素直
にほら貝を渡せばよいものを(ほら貝は山谷氏ものなのである)別に意地を張ったわけで
はないが、山蔭のこちらで吹いてもまだ1時間近くも離れた距離にいる皇太子御一行に聞
こえるわけはないから、その地点に行ったら必ず吹くから私にまかせてください、と言っ
たのである。そしてこの「私にまかせろ」と言ったのが山伏としての山谷氏の感情をたい
へん害したようで、「山伏の組織のなかでほら師が自分にまかせろなんて差し出がましい
言い方をすることは絶対に許されないことなのですぞ。まあ山伏でないもりさんにはこれ
以上は言わないが」と厳しい口調で言われてしまったのである。
 修験道の世界でのほら師の地位序列の位置を私は知らないが、山谷氏の言い方から察す
るにほら師は多分地位が低いもののようで、正大先達という山伏として最高位にいる山谷
氏からすれば普段は友人として同等につきあっていてもいったん山伏の峰入りというかた
ちで大峯に登り、しかも自分からほら師を買ってでた以上、大先達の指示に従って欲しい
という気持ちは当然おきるだろう。
 修験道の世界の規律は非常に厳しいものがあり、そのことについては充分知っているつ
もりではあったが、ついつい山谷氏との親しい間柄になれて心ならずも無礼な振る舞いに
及ぶことになり、今後は宗教上の領域では山谷氏との間にきちっとした一線を引いて、彼
は修験者、我は登山者とそれぞれの立場を明確にしてお付き合いをしなければならないな
と多いに反省させられた。中途半端に修験者のなかに入りこんで山伏の真似事のようなこ
とをしていたらまたいつか今回のようなことが起こり、下手すると山谷氏との友情にもひ
びが入りかねない。
 行者還岳手前のピークの頂上付近手前でお花畑らしきところに到着したので、ここで山
谷氏らに休憩するようにすすめ、私だけ一人でピークの皇太子ご一行が休憩するところら
しきお花畑を越えて北側の山腹まで下りていき、樹間越しに行者還岳が見えるところでほ
ら貝を長々と1回だけ吹いた。ほら貝の音は行者還岳にこだまして響きわたり、ご一行が
行者還岳よりこちらがわに来られておれば確実に聞こえるはずである。
 山谷氏らのところに戻ってほら貝の音が聞こえたか尋ねると聞こえなかったとのことで
、わずかな距離でもピークを隔てるとほら貝の音は伝わらないことを確認したのである。
その事実が判っても山谷氏の機嫌は直らないようで、すこぶる無愛想な対応は変わらず、
こっちが話しかけても素っ気ない返事しかしてくれない。ははーん、これだな、山谷氏の
家族や近しい人達が辟易してしまうのは、と思ってしまった。そのすねた態度はまるで子
供のようであり、まあ、なんと自分の感情に正直な人なんだろうと呆れるとともに感銘を
も受ける。
 そこを出発して5分もたたないうちに7人程のグループがやってきて挨拶をかわしたが
、年期の入った登山服やザックから察するにベテランの登山者たちだろう。そのなかの眼
鏡をかけた目付きの鋭い人が、私をじっと見つめて「おたく、どこかでお見かけしたこと
がある」と言った。私はその人に見覚えがないので「私は大峯の山々にはしょっちゅう来
ているのでどこかでお会いしたのでしょう」と答えるとしばらく何か考えこむような眼で
私を見つめていたが何も言わずに行きかけた。
 そこで今度は私のほうから声をかけて「皇太子様に出会ったとき写真を写してはまずい
でしょうかね?」と尋ねると、そのグループの人たちは立ち止まり、無言でお互いに顔を
見合わせていた。いいとも悪いとも言い出しかねるような気配を察した山谷氏が「もりさん
、やっぱりまずいのじゃないかな」と言うと、先頭の人が「そうですね、写されないほう
がいいと思います」と言われたのである。私はがっかりしたが「わかりました」と言って
その人たちと別れた。
 やがてご一行が食事休憩をとられるところに違いないと思われるお花畑に着いた。我々
もここで食事をしながらご一行を待とうかと思ったが、樹陰がなく、日差しが暑いのでそ
のまま休止せずに行く手の樹林のなかに入っていった。そして樹林帯に入ってすぐに4人
連れと行きあい、皇太子様がもう間近まで来ておられることを知らされたのである。「ほ
ら貝を吹いたのはおたくたちですか」と聞かれ、そうだと答えるとよく聞こえたとのこと
である。
 この先の北の斜面は足場もせまいのでこの場所でご一行を待つことにしようと山谷氏と
話しあうと、その4人連れは「お引き止めすることになってすみませんね」と言って去っ
て行った。ご一行のほとんどの人たちが示すこの丁寧な応対はどなたの配慮によるものな
のだろうか、と想像してしまう。
 4人連れが過ぎ去るとすぐさま向こうから今度は列をなした一団がやってくるのが見え
、いよいよ皇太子殿下の本隊だなと思って私達は道から笹のしげる中に移り、ご一行が近
づいてくるのを待った。ところが先頭の人が10メートルのところまで来たときに、「皇
太子殿下をお待ちするのに山側で待つのは失礼だ」との山谷氏の言葉に山側にいた私と実
生氏はあわてて谷側のほうに移ったのである。普通、山ですれ違う人に道を譲るときは安
全性を考慮して山側に寄るのが正しいのだが、今回の場合、山側は高くなっていて道を行
く人を見下ろす格好になるのでこの山谷氏の判断は適切なものであった。
 そして私が谷側に移って足元に注意を奪われていた瞬間、目の前を通り過ぎかけた人が
私の前で立ち止まったのである。私もふと面をあげて目の前の人を見たとき、その人は一
緒に立ち止まった直前の人に私のことに注意を向けるような仕草をしたところで、注意を
促されたその人が私を見るのと私がその人を見るのとが同時であったが、なんと、そのか
たが皇太子殿下であったのである。2メートル足らずの至近距離にいきなり、テレビや写
真でよく馴染んでいた皇太子様のお顔を発見したのだからそのときの私の驚愕ぶりを察し
ていただきたい。皇太子様はまだ30人と聞いていた本隊の真ん中ぐらいにいらっしゃる
ものと思っていたのに先頭から二人目にいらっしゃるのだから、こちらはまさに不意打ち
をくらったようなもので、道々歩きながら考えていたご挨拶の文句がとっさに浮かばず、
急いで帽子を脱ぎ「皇太子様!」とうめくように声を出したのが第一声で、すぐに「夢の
ようです」と申し上げたのである。殿下は一瞬はにかむような表情をされたが「山上ケ岳
まで行かれるのですか」とおっしゃられた。「行者還小屋までです」とお答えするとつい
先ほど休憩されたところと思い当られたのか、うなずいておられた。「きょうは素晴らし
いお天気でたいへん喜ばしゅう存じます」と申し上げると、殿下はひときわこぼれんばか
りの笑みを浮かべられた。
 ここで、私だけでなく実生氏と山谷氏らにも殿下に御注意を向けてもらわなくてはと思い
、「きょうは皇太子様に是非お会いしたいという老山伏を連れてきております」と言って
実生氏のほうを振り向くと、彼はこちらに背を向けて向こうむきにたたずんでいた。皇太
子様とすれ違ったことにまだ気付いていないのである。山谷氏がすばやく実生氏の体をこ
ちら向けにし、最初戸惑ったような表情でこちらを見回した実生氏は自分のほうに近づい
てこられる皇太子様に気付いたとき愕然とし、即座に合掌をされたのである。このとき後
の山谷氏も間髪入れずに同時に合掌したのだが、二人が瞬間的にこのような姿勢を決めた
その素早さは見事なもので、なにか武士の立ち居振る舞いを眼前にするかのような感銘を
受けたものである。 
 実生氏のそばまで近づかれた皇太子さまは「何回登られたのですか」とお尋ねになったが
、山上ケ岳の登山回数によって位階の違う修験道の大峯のことをよくご存じのうえでの殿
下のご質問である。「46回です」ひどく緊張しているだろうにしっかりした口調で実生
氏が答えると、今度は「おいくつになられましたか」とお尋ねになり、「当年79才にな
ります」と答えた。ここでしばらく沈黙が生じたので、私が山谷氏を指して、大峯の全奥
駈の修行をした筋金入りの修験者だとご紹介したが、口頭で「全奥駈」と言っても殿下に
意味が通じたかどうかは心もとなかった。
 殿下は無言で山谷氏に会釈され山谷氏は「殿下がおいでになったあと、送りぼらをふか
ていただきます」と一言言ったのである。
 再び沈黙が生じたとき殿下は私のほうを向かれてもの問いたげなご表情をされた。「ま
だ何かお話すべきことがありますか」とお尋ねになっておられるようで、ああ、殿下はご
自分から会見を打ち切るようなことはなさらないのだなと思い当り、これ以上お引き止め
してはいけないと思って「どうぞお気をつけていらっしゃいますように」と申し上げると
殿下は「ありがとうございます」とお辞儀されて歩きはじめられた。
 そして殿下が5、6メートルほど行かれたときにやるせないほどの名残惜しさを感じ、
思わず私は「皇太子様」と呼びかけ、殿下が振り向かれると「写真を撮らせていただいて
よろしいでしょうか」と一気に申し上げたのである。殿下は一瞬戸惑われたような表情を
され、それを素早く見て取られたか山谷氏が「もりさん、それは失礼だよ」と声をあげたが
、殿下はすぐににこやかに「どうぞ」とおっしゃってくださったので私は夢中でカメラの
シャッターを押した。ただこのとき逆光だったので、あせっていながらもオートマティッ
クを解除してシャッタースピードを60分の1に設定しなおしたのは我ながら上出来であ
ったと思っている。
 山谷氏吹くほら貝に送られて殿下が去って行かれるお姿をお見送りしながら、心がさわ
いでしかたなかった。きょう初めてお会いする皇太子様に対してどうしてこうも深い思慕
の情がおきるのであろうか。元来、皇族に対しては日本人として世間並みの尊崇の念を抱
いてはいたが、皇太子殿下に直に接した今、皇太子様が私にとって皇族のなかでも特別の
存在になってしまっているのである。
 そこへ読売新聞の記者に皇太子様にお会いした印象を聞かれたので率直に感じたままを
話した。姓名、住所、職業まできっちりと聞かれ、ささいな行きずりの人の談話でも身元
はちゃんと確認しているのだなと感心させられた。私の記事は大阪の新聞にはのらなかっ
たが読売の奈良版にのったそうで、橿原市の友人、堂田氏の奥さんがわざわざ知らせてく
ださった。
 御一行と別れたあと我々は休憩をとり、山谷氏が法螺貝を吹く。山谷氏は、前歯のほと
んどが無くなっているために法螺の音は流麗とは言いがたかったが気迫のこもったもので
あった。そしていずれも軽い興奮状態になっているなかで皇太子様にお会いした感激を語
りあった。とくに実生氏の感動が大きく、「まさか殿下にお言葉を賜ろうとは」とふるえ
る声でゆっくりと言われるのである。山谷氏も先ほどまでの不機嫌もどこかに吹っ飛んだ
ようで、上気した顔は晴れ晴れとしていた。
 実生氏はその後も山道を歩きながら感涙にむせんでおられたようで、途中休憩したとこ
ろで、「人前で涙を見せるような不細工なことはするまいと必死に我慢するのだが、どう
しても涙があふれてきて仕方ない」と言われ涙を拭っておられた。私も実生氏のその姿に
感動して「おおいに涙を流されたらよろしいではないですか。深く感動して涙を流すのは
昔から日本人の得意とするところだったのです。平家物語や太平記の武将たちも感動する
たびにやたらと泣いていますよ。なんの恥じることがありましょう」と言ったのである。
深くうなずく山谷氏の目も赤くなっていた。
 たしかに皇族という身分は出会った人に強い印象を与えるようで、ましてや一国に一人
しかいない皇太子という地位で、しかもそのご表情のかもしだすお人柄の雰囲気が清潔で
高貴で誠実さと善良さに充ちあふれているとき、誰が魅了されずにおられよう。平成の皇
太子殿下はそういう印象のお方だったのである。
 私は御一行のなかにおられる皇太子さまをお見受けして、昔、源義経や護良親王などが
身をやつして落ち延びていくとき、不審がられたりその正体を見破られたりするのはどう
隠しようもないその貴種の容貌からかもしだされる独特の雰囲気ゆえにではないかと思っ
たもので、「あれを竜顔というのだろうな」と山谷氏も感嘆していた。
 本懐を達したと言えばおおげさではあるが、皇太子様にお会いすることができたあとに
山道を歩く我々の心のなかはきょうの青空のような晴れ晴れとしたものだった。山谷氏と
実生氏が下り坂をおりてくるところを写したスナップ写真ではお二人の満ち足りたような
ニコニコした表情をよくとらえている。
 皇太子様とお別れしたあと小1時間ほどで行者還小屋に着いた。ちょうど時計は12時半
。ここで昼食休憩をすることにする。間をおかずして二人連れが到着する。20代の若い
ほうの人は先程すれ違った○○放送の人で、足を痛めて皇太子御一行からずいぶん遅れた
ところで休憩していたので、一緒に行者還小屋からの下山をすすめていた。もう一人の3
0代半ばの人は同じ○○放送のカメラマンで、二人で相談した結果、我々について下山す
ることにし、引き返したとのことである。
 行者還小屋前の広場で一緒に食事をしながら彼らの話を聞くと、二人は皇太子様が入山
される前日に突然、皇太子について大峯に行くように指令され、二人とも山なんか登った
こともないのにろくすっぽ運動もしていない状態のまま山に入り、しかもカメラとビデオ
の器具一式(私が手に持った感触では15キロの重さはあった)を背負って、慣れた登山
者でもなかなか容易にはいかない山上ケ岳、弥山間の縦走にやってくるのだから、ただた
だあきれるばかりである。しかも若いほうの助手の人は他人の登山靴を借りてきたそうで
、足の不調を訴えないほうが不思議なくらいであり、縦走コースの3分の2にあたるここ
までよくもやって来れたものだと思う。二人の経験した肉体的、精神的疲労の辛さは我々
の想像を絶するものがあったことだろう。二人の大峯の無知さ加減を笑う前にこんな無茶
な山行を指令する○○放送の上司の思慮の無さを非難すべきである。
 食事をすませ、十分休憩したあと下山するにあたって車道に下りたあと登山口まで車を
とりにいかなければならないことも考慮し、歩調の遅い実生氏を山谷氏と○○放送の人た
ちにまかせて私だけ先に急いで下山することにした。
 天川辻まで一緒に来て、分岐から私一人ピッチをあげてゆるやかでしっかりした下り坂
の道を大股の歩調で下りていく。この調子で下までよい道が続いてくれたら実生氏も安全
に下りれるなと思ったが、10分も行かぬうちに太い倒木が道をふさいでいたり、斜面を
トラバースするところで道が崩れかかっていたりでけっこう荒れているのである。本来は
しっかりしたよい道だったのだろうが、行者還トンネル口からの登山路ができてからはこ
の道を利用する人が減ったために整備もおろそかになったのではないかと思われる。
 道はほぼ沢ぞいを通っているが、水の流れていない涸れ沢を伝って行くとき、所々立ち
木にテープで道しるべをしているものときどき進路が不明瞭になり、ごろごろした岩や倒
木を乗り越えたりして両側の山腹に常に注意を払いながら道がついているところを見つけ
ては右岸や左岸へと移動し、下方へと下りていくが、足場の悪いところも随所にあり、こ
んなところを山谷氏たちは迷わずに無事に下りて来れるかしらという不安感が心をよぎる
。途中で彼らを待ち受けて一緒に下山しようかとも思ったが、下山後、車を取りに行くの
に1時間以上はかかることを考えると、ここは修験者の山谷氏を信頼して私は予定どおり
そのまま下りていくことにした。
 道は終始沢沿いを通っていたが、水流が現われたのか水音が聞こえはじめ、それがしば
らく続いたのちにやがて山道からも流れが見えるようになり、滑(なめ)とか瀞(とろ)
の清涼感あふれる谷川の景色が間近に見えるようになったと思ったら間もなく水流の音が
急にゴーゴーと大きな音にかわり、すぐに別のもっと大きな谷川に合流した様子である。
車道が通っている川迫川(こうせいがわ)の本流に出たな、と思って歩をすすめていくと
案の定、対岸に車道の走る谷川との合流地点に来たのである。もう下山口は目の前で、天
川辻から1時間たらずの予想外の早い到着であった。
 山谷氏との打ち合せどおり、ザックを吊橋の手前の道ばたに置き、吊橋を渡って車道に出
、身軽になったため元気もでてきて大股で車道を行者還トンネル口に向かって歩きだす。
 車道はトンネル口まで240メートルの高度差を登るために大きく蛇行しており、40
分ほど歩いて一時はずいぶん後方に遠ざかった行者還岳がふたたび間近になったときにヤ
ッホーとコールをかけてみると、驚いたことに目の前の行者還岳の中腹あたりらしきとこ
ろから「おーい」と山谷氏の野太い声の応答が二回にわたって聞こえてくるのである。位
置からしてまだ天川辻からそれほどへだった距離ではなく、時間のかかりすぎに道に迷っ
て別の谷に迷いこんだのではなかろうかと心配になったが、その後応答はなく、とりあえ
ず車を回収することが先決と私はトンネル口に向かっていき、20分後に車のところにた
どり着いたのである。
 トンネル口近辺は昨日よりも車が増えており、駐車場がわりのトンネルそばの空き地に
入りきれなかった車が車道のあちこちにとまっており、その大半が報道関係の車らしくそ
の前を通るたびに○○放送関係の人はいないかと尋ねたのだがいずれも違うということで
、一緒に下りた○○放送のカメラマンのことを話すこともなく自分の車のところまで行く
ことになったのだが、これを1台、1台の車の人達にカメラマンのことを話しておけばこ
のあとに起きた騒ぎはもしかしたら防げたのではないかと悔やむことになるのである。
 車のところには今朝会った二人連れがおり、近寄ってきて「あの御老人は無事に下山さ
れましたか?」と聞かれた。無事に下りたかどうかは今のところ下山中でまだ解らないが
3人も連れがいることと、稜線で皇太子殿下にお会いできて言葉を賜ることができて老人
が感涙にむせびながら下りてきたことなどを話すと、「それはよかったですね。その話を
聞くだけでも私達まで感動します」と言うのである。それで二人に報道関係の人かと尋ね
ると、二人は私服の警察官で、皇太子殿下が山に逗留中、ここの持ち場で交替で待機して
いるとのことで、今朝は、実生氏が登っていくのを見て大丈夫だろうかと心配していたこ
とを話すのである。山の上といい、この山の下といい、今回お会いする警察官はどうして
こうも心遣いのやさしい人たちばかりなのだろうと感動した私は、稜線上で出会った警護
の警官に親切に接していただいたことがたいへん嬉しかったことを話し、もし先頭を歩い
ておられたその警察官が判るようであったらどうか感謝の気持ちを伝えて欲しいとお願い
したのである。
 皇太子様に直接会う機会もない地点で、ただ与えられた任務を忠実に遂行するこの二人
の警察官に深い敬意を表して私は車を出発させた。
 下山口にもどって車を道路脇の空き地にとめてつり橋を渡ると私のザックはもとの場所
に置いたままで、山谷氏一行がまだ到着していないので道に迷っていることも考えられ、
迎えに行くことにして下りてきた道を登っていく。この登山道は涸れ沢沿いのところにく
ると登る場合も判りにくく、以前、行者還小屋で宴会を開こうと夕方にこの登山道を登る
ことを考えたことがあるがとても無理な相談であることがつくづくと分かった。
 途中、二度ほどコールをかけたが応答が無く、もう声ぐらい届きそうな距離には来てい
るはずなのに、と道に迷っている可能性を懸念しながら20分ほど登ったとき、「チリン
、チリン」と山伏が腰にぶらさげる鈴の音が聞こえてき、やれやれと思ってコールをかけ
ると今度は山谷氏の力強い応答が帰ってきたのである。
 私が想像する以上に実生氏は降りるのに困難を来したようで、やがて山谷氏一行の姿が
涸れ沢の上手のほうに姿を現わしたときに実生氏を介添えして降りてくる様は遅々とした
ものであった。○○放送のカメラマン氏らが先におりてきたので、「老人が一緒で歩行が
遅くなり、かえってご迷惑ではなかったですか」と聞くと、カメラマン氏(名は宮下正幸氏
)は、仲間も足を痛めており、自分も相当疲労しているので、このぐらいゆっくりでなか
ったら無事に下りれなかったと思う、と言って私の懸念を打ち消された。
 「もりさん、下までまだだいぶありますか」と山谷氏の問いかけに、あと20分ぐらい
と答えると、実生氏のことは心配いらないから、カメラマンの人たちを連れて先に行って
休憩していてくれ、と言うので、お言葉に甘えて、我々は先に下りていった。
 ふたたび下山口に着いたのは午後4時ごろで、車をとめている空き地で山谷氏らを待つ
ことにし腰をおろして我々は談笑しながらゆっくりとくつろいだ。宮下氏はマスコミの世
界で相当の年数を生きてきたかただろうに、自我の強さとか衒学的なところのまったく見
受けられない、それでいて、ぽつりぽつり話される内容からかなりの教養に裏打ちされた
情操の深さを推しはかられるといった具合の奥床しくさわやかな雰囲気をもつ人である。
特に、宮下氏が宇江敏勝という和歌山県在住の山の随筆作家と取材を通じて親しい間柄に
なっていることがわかったとき、常日頃この知る人ぞ知るのマイナー作家の数少ない随筆
を愛読している私にとってまさに奇遇の思いで、宇江敏勝氏のことで話しに一段と華が咲
くのであった。
 4時半ごろ、山谷氏と実生氏がおりてきた。「いやー、この坂は下りるのに難儀した」と
、実生氏が呼吸を整えながらゆっくりと言われ、行きにこの道を選んでいたら登れなかっ
たのではないかともつぶやかれたが、足場のよくない山道を下るときにかならず感じる足
元の不安定さが実際以上にその山道を厳しいものに感じさせるわけで、行きにルートをと
った行者還トンネル口からの道のほうがはるかに険しい道である。
 無事に山を下りれたことを各々喜びあい、我々は車に乗りこんで天川川合に向けて車道
を走りだしたのはもう5時ごろであった。長い1日であったが、我が愛してやまない大峯
山中で皇太子殿下にお会いするという希有の出来事に遭遇した私の心のなかは深い充足感
に満ちあふれていた。実生氏、山谷氏もご一緒の気持ちであろう。
 下山後の翌日、天川坪ノ内でお別れした○○放送の宮下氏から電話をいただき、あの日
、我々と一緒に天川辻から下山したあと、弥山小屋に無線電話を入れるのが遅くなったため
、小屋では○○放送のカメラマン二人がいつまでたっても姿を現わさないのに大騒ぎとなり
、警察の捜索隊や、ヘリコプターまで出動したそうで、お二人は職場の上司から大目玉を
くらい、始末書を書かされたそうである。まったくお気の毒なことで、たしかに結果的に
は無断で下山して多くの人達に迷惑をかけたことになったが、あの場合、足を痛めた山の
ずぶの素人をあのまま弥山まで歩かせるのはあまりにも酷というもので、だいたいこんな
無茶な山行を強いた職場の上司にも大方の責任はあるのであり、私からそのことを上司の
かたに電話しましょうか、と言うと、「いや、そこまでしていただく必要はありません。
ただ、職場あるいは警察から問い合わせがあった場合はありのままおっしゃってください
」と、宮下氏は言われるのであった。
 その後、弥山小屋に行ったおりに小屋の主人から聞いたのだが、皇太子殿下一行の先頭
をきった先発隊の親切だった警察官は皇宮警察の警視だそうで、道理でどことなく普通の
人ではない雰囲気を印象づけられたわけである。
 なお、宮下氏からお聞きしたのだが、縦走中の皇太子殿下を報道陣が写真、あるいはビ
デオ撮影することは固く禁じられていたそうで、それで、私が写真を写してよいかお尋ね
したとき、皇太子様は報道陣の人の手前一瞬戸惑われたわけであるらしい。報道関係者の
写真撮影に対する宮内庁の規制の厳しいことは、それから二週間後の秋篠宮殿下御夫妻御
成婚のおりの紀子様のスナップ写真問題でも大きくクローズアップされ、私も認識を新た
にしたのだが、規制はあくまで報道陣むけであり、私のような民間人の写真撮影はまった
く問題無い、との宮下氏のお言葉であった。

追記
 実生氏は平成8年2月に逝去された。享年84才。私のこの拙文を大変喜んでくださっ
たそうで何度も読み返され、何十枚もコピーして親戚知人に配りまわられたということを
お嬢様からのお手紙で知った。
 「父の晩年の大きな光芒となるような出来事でした」と記された言葉に、私はこの手記
を書いて良かったという幸せな気持ちとともに、実生氏がご一緒でなかったらこのような
手記は書けなかっただろうという確信をも抱いたのである。実生氏の最後は眠るような大
往生だったとのこと。
 山谷無心氏は平成12年8月に逝去された。享年62才。持病の心筋梗塞で伏せておら
れるのを私と山仲間の二人でお見舞いに行ったその席で発作を起こされ、急ぎ担ぎ込んだ
救急病院で家族の誰もが不在のまま、私が見守る中で息を引き取られたのである。
 平成11年末の皇太子妃殿下雅子様の御懐妊の報(このときは流産になられたが)に接
して、電話口で涙声で歓喜の思いを話された無心殿が、昨年の平成13年末に実現した内
親王殿下のご誕生のことを知ったなら、どのような喜びを表されたことだろうかとその姿
を想像すると胸が詰まるものがある。
お二人のご冥福を祈ります。