「顧客宅での調律師のマナーについて」

ピアノ調律師はまず、技術の向上に精進することが本分であり、顧客への対応というのは
その次の問題として捉えられているように思いますが、顧客に信頼されるには技術以外に
も接客対応の面も重視しなければならないと考えますので、以下、私が常々思っているこ
とを記させていただきたいと思います。

顧客に信頼される接客対応ということを考えていく上で、まず頭のなかで深く認識しておか
なければならないのは顧客層の9割以上がご婦人であるということです。
昼の日なか、女性一人でいる場合の多い顧客家庭の中に上がっていって調律作業やそ
の後の座談などで1時間以上も滞在するわけですから、女性に対する正しく適切な対応を
常に心がけなければならず、十分にそのことを注意した上でのマナーを我ら調律師は守
らなければならないと思います。

私自身の経験としてこんなことがありました。
我が家の台所の瞬間湯沸かし器の調子が悪く、ガス器具保全会社から点検修理に来て
もらったとき、目つきのあまり良くなく、視線をキョロキョロさせる技術者がやってきたのです。
彼は点検作業をしている間、絶え間無しに独り言をブツブツつぶやき、時折、同じ部屋で新
聞を読んでいる私に作業とはまったく関係ない世間話しを話しかけてきます。私はそれが
鬱陶しく、しまいには薄気味悪くなってきたのですが、その時、男の私でもこうなのだから、
これが女性たった一人だったらどんな気持ちになるだろうと思ったのものでした。
このことからも一般家庭に入っていく私達調律師は女性客にそのような不安感を持たせ
ないよう十分に気をつけるべきではないかと思いました。

女性客に不安感を与えずに良い印象を与えるために心がけることは、
@身だしなみに気をつけること
A立ち居振る舞いに気をつけること
B会話の内容に気をつけること
の3つに要約されるのではないでしょうか。

@については清潔な着衣は当然のことで、女性は身体の清潔さもひどく重視するので髪
の毛や背広の肩にフケがついていたり、汗くさい臭いを発散させるようなことはかなりのダ
メージを与えることについてはどなたでもお気づきでしょうが、頭髪につける整髪料の臭い
のきつさに辟易して調律師を換えた客を私は知っておりますので、そういった点も十分に
考慮した方が良いと思われます。
Aについては、人品骨柄を誉めてその様を表現するときに、立ち居振る舞いの優れた人、
という言い方を昔の人はよく使ったものですが、折り目正しい挙措は女性客に「キチッとし
た人」=「堅実で真面目そうな人」という好ましい印象を与えるようです。
立ち居振る舞い、と言ってもなにも能楽師や武士のような完璧なものを言っているのでは
なく、たとえば挨拶一つにしても腰の所からキチッと折るようにおじぎし、顧客宅に入ったら
無闇やたらにキョロキョロしない、顧客の尋ねることには饒舌過ぎずにキチッと答える、と
いったそういう落ち着いた物腰、物言いが女性客に好ましいイメージを与えると思うのです。
女性は人の表情に非常に敏感であり、男性の目つき、ちょっとした仕草から相手の考えて
いること、どんな人柄の人かを鋭く見抜くようです。
また、訪問約束時間を厳守することも立ち居振る舞いの一つとして大切なことで、時間に
正確なことは顧客の男女問わず、真面目なキチッとした人としてのイメージアップに大きく
プラスするようです。
私の場合、約束の時間に15分以上遅れそうな時は必ず電話で遅れるむねを伝えるよう
若いころから心がけてきておりましたが、それは同じ遅れるにしても顧客に与える印象は
随分と違うように感じました。

Bは大変大切なことでして、調律を終えたら挨拶もそこそこにさっさと顧客宅を後にする、
という忙しい調律師たちもいるでしょうが、顧客とのしばしの雑談も私はたいへん有益な
ことと思いますので、これについて少々駄弁を弄させてください。
まず、最初に心すべきことは、決して喋りすぎないこと。
これは技術屋は寡黙であるべし、と言っているのではなく、自分ばかり喋らない、客の話
を良く聞くこと、という意味です。
話好きの調律師も、一日4台、5台の台数を稼ぐ多忙な調律師でも必ず出くわす客との対
話はピアノの保管上の注意、質問、クレームのたぐいのことがらではないでしょうか。客か
らピアノの技術的な面で質問や要望を受けた場合、想像力をたくましくして十分に客の話
を聞き、答えるときはなるべく専門的用語は使わずに説明することが肝要だと思います。

ハンマーが、接近が、ユニズンがどうのこうのと言った業界用語で語ってもそれは調律師
の間でのみ通用する会話であり、一般の客には何のことかイメージしにくいことをよく認識
して語らないとすれ違いの対話になって一つも客に満足感を与えないからです。
響板とか共鳴とかいう言葉でさえも音で聞いたら何のことか解らない客はたくさんいるの
です。しかも、説明してくれている意味がもう一つよく解らないのでもっと噛み砕いて解り
やすく説明して欲しい、と口に出して言う女性客は少なく、専門家のまくしたてるような説
明に圧倒されて口を閉ざしてしまうけれど決して納得したわけではなく、この調律師では
話にならないから、といともあっさりと別の調律師にとって換えられることがしばしばある
のです。

顧客との会話では技術的な話以外に世間話のような雑談をすることもよくあると思います。
コーヒーをご馳走になりながら雑談しているうちに結構話に花が咲くということも調律師で
したらよく経験することですね。しかし、ここでも決して話のイニシアチブを調律師がとるよう
なことは極力控えるべきだと思います。
人間というのは自分が話すことは楽しいのに他人の話を聞くことに喜びを感じるなんてこと
はよほど話術にたくみな人が話し手でない限り少ないものでして、誰だって相手がおれば
相手の話を聞くより自分が喋りたいと思うのは人間の自然の欲求だと思います。
興味の抱けない話なんかを一方的にしかも長時間、聞かされることは苦痛以外の何者で
もありません。ところがそれは相手も一緒であり、それがお客様ときた場合にはこれはもう
絶対にこちらが控えめにするのが礼にかなっている(商利益にかなっている、というと実も
フタもないのでこういう言い方をしますが)というものではないでしょうか。
客の話したがっていることはたとえそれがつまらない退屈なものであっても辛抱強く聞くべ
きであり、この忍耐と努力はとても良い結果をもたらすと私は信じております。

しかし、相手の話に上の空で単調子にうなずいていたのでは鋭い直感力を持つ女性には
簡単に見破られ、対話も即座に打ち切られて努力も忍耐も水の泡と帰する恐れがありま
すからそこはなかなかのテクニックを要します。相手の話に打てば響くような合いの手を
入れて相手をますますいい気分にさせて話を白熱化させれば客はいつまでも楽しく語り続
けるのではないでしょうか。(もっともあまり長引かせると、次の仕事に差し支えることもあり
ますが)

元来技術屋という人種はそういうのが苦手な人が多いと思うのですが、別に小細工を弄さ
なくても語り続ける顧客の心を掴む話の聞き方というものはあると思います。それは私が
長年意識して実践してきたことでして、これは顧客だけでなく、友人、知人たちとの交友関
係でも大変プラスになったことでした。

私の実践してきたこと、それはいとも簡単なことです。
つまり、同じ時間を費やすのなら、この客の話を自分の知識のデーターとして取り込もうとい
う意欲を持つことです。
どういうことかと言いますと、話し手の内容が興味を持てないものであろうと、下らないもの
であろうと、それはそれで自分の世間知の蓄積を増やしていくものであり、それは必ず自分
にプラスになるという信念を持ち、この一見浪費としか思えないような時間の経過をただで
は過ごさないぞ、という強い意志を持つことなのです。つまり客の話を自分の新しい見聞体
験として真剣に聞くという態度を自分に強要するのです。そういう気持ちで聞いていれば、
客の話の中に論理性を欠く場合や理解し難い点を見出したとき、即座にその整合性ある説
明を求めたり、質問をしますから客は驚くと同時に、この調律師さんは真剣に私の話に興味
を持っていてくれる、という認識を抱いてくれるのです。こういった姿勢で人の話を聞いてお
れば、そこから出てくるこちらの対応発言は真実味のあるものに聞こえる訳なのです。

このような対応は一朝一夕で身に付くものではありませんから、ある程度の忍耐、継続は
必要ですが、辛抱強く努力し続ければピアノのお稽古と一緒でいつかそれが自分の身に
付くようになると私は思ってます。私はこれを長年、自分に強制してきたおかげで、最近は
どんな話でも退屈することなしに人の話を聞くことができるようになりました。

調律師は常に顧客の話ばかり聞かされるというわけでもなく、顧客によっては家に来る調律
師に好感を持ち、その人となりに興味を持つ人もいますから、そんな場合は調律師が自分
のことを語ることはいっこうに構わないと思いますが、それも先方から問われてこそ初めて
自分のことを語るべきだと思います。聞かれもしないのに自分の腕前の自慢や趣味のこと
をペラペラ喋ったり、ましてや自分の家族の自慢談などは慎むべきではないでしょうか。

また、顧客との親密度によってはずいぶんと立ち入った話をすることもあるでしょうが、常
に忘れてならないのは、昼の日なかに女性と男性が家の屋内で対峙しているということで
す。ずばり言うと、よほどの高度なユーモアとスマートな話術を持つことに自信を持ってい
なければ性的な話題は避けた方が無難だと思います。ちゃんとしたご婦人だったらそう親
しくも無い男性とそのような話題を口にすることはかなり抵抗感があり、警戒心を起こさせ
ることを知っておくべきでしょう。

顧客女性の容貌を誉めることは、美しい、綺麗と言われて喜ばない女性はいないでしょう
けれども、誉められて喜んだからそれを言ってくれた相手に好印象を抱くかと言えばそれ
は別の話でして、誉められた当の本人がこの調律師さん、何か下心があるのでは、と警
戒心をも同時に抱いていることを知るべきです。女性の容貌をあからさまに誉めることは
避けるべきであり、ましてや「奥さん、色っぽいですね」なんて世辞はもっての他だと思いま
す。
顧客女性当人にお世辞を述べるのなら、人柄が温かいとか、品が良いとか、聡明なご婦
人といった人格的な面で誉めるのが無難であり、有効的ではないでしょうか。顧客女性の
子供さんたちや顧客女性の打ち込んでいる趣味のことを話題にし、それに興味を示すこと
は私の経験上大変有効でして、たいがいの場合、顧客は嬉しそうに熱を込めてそれらの
ことについて語ってくれることが多かったです。しかもそれは私にとっても大変ためになる
話が多かったのです。

初めての顧客のピアノを調律した時、前任の調律師の悪口を言う人がときたまいるようで
すが、顧客の前では人の悪口、特に別の顧客の悪口や同業者の悪口は絶対に禁物だと
思います。悪口に迎合する客もいるでしょうが、ちゃんとした見識を持った女性はそのよう
な人の悪口を言う人間を信用したりはしません。調律師の技術の良し悪しを一般の客は
判別しにくい面があり、思慮深い客はそれをその調律師の人柄をよりどころに推し量ろう
とするものです。人間性重視で調律師を選ぶ見識の高い女性は、調律料金の値段の安さ
などに惑わされることなく、いったん信頼した調律師をひいきし続けるものでして、そのよう
な客こそ長続きする上質の顧客なのであり、また、こういった顧客から紹介される新しい
顧客も同じ様なタイプの人が多いということを思えば良質の客に信頼されるよう努力すべ
きではないでしょうか。

口幅ったいことを色々書き連ねましたが、たいした技術力も持っていない調律師が30年
もの間この業界で何とか仕事にあぶれることなく生き延びられてきた経験を基にして若い
調律師さんたちのアドバイスにでもなればと思い記しました。