ピアノ工房『KYOTO PIANO ART』
 
私のピアノ調律修行時代、浜松のピアノメーカーで苦労を共にした修行仲間の調律師が
京都市北部に新しいピアノ工房を建てました。
そのピアノ工房の名は『KYOTO PIANO ART』
その調律師の名前は新井浪男。京都生まれの京都育ちです。
年は私より2歳上ですが、自動車のセールスマンを辞めて研修にやってきたので私たち
は同期の研修生という間柄ですが、研修を終えてからの30数年間の歳月は彼と私の技
術力の格差をどうしようも無いくらい広がせており、私は仕事の技術上のことで困難な目
に遭うといつも彼に助けを求め、彼はいつも完璧にその求めに応じてくれるのです。
私は彼のことをピアノのブラックジャックと渾名しております。
たまたま、4日は京都市で仕事がありましたので、ついでに彼の工房を見学取材してくる
ことにしました。

工房は駅前の広い通りを数分走ったところの右手にありました。



綺麗な建物ですが、看板らしきものは何も掲げておらず、普通のやや大きい民家という感
じです。聞けば、注文している看板がまだ出来上がってないとのこと。
広い道路の向かいは雑木林、こちら側は閑静な住宅街と環境はとてもよいところで、後を
振向けば比叡山が間近に見られます。
それまでに彼が工房としていたところは出町柳から琵琶湖の方に抜ける国道が山間部に
入った場所にあり、飯場みたいなところにあるプレハブ家屋といった感じでしたから、月と
スッポンくらいの違いの環境です。


車を降りて、入り口と横の窓ガラスから伺える中の洒落た光景に私は浮き浮きしてきまし
た。私にとって兄同然の新井さんがこんな綺麗な工房を構えたことが嬉しくてならないの
です。素晴らしいピアノを作るのに前の工房は雰囲気が悪くてダメージを客に抱かせやす
かったことに心を痛めていたのです。
よ〜し、絶対にHPに掲載だ!ばんばん写真を撮るぞ、と私は張り切りました。
中に入ると新井さんとの挨拶もそこそこに私は手当たり次第、という感じでデジカメを撮り
まくりました。

入り口を入ったすぐ右手です。

左手奥、階段すぐ下のピアノの拡大写真にご注目下さい。
燭台がついているでしょう?
ドイツ・イーバッハ社の製品です。

ルノアールの絵「ピアノを弾く娘たち」に使われたようなピアノではありませんか。

1893年製ですからルノアール52歳のときですね。


何ともクラシックな形のピアノです。


鍵盤蓋裏に記されるコペンハーゲンの文字からこのピアノはデンマーク製ということが判
ります。19世紀前半のものというのが新井さんの推定。
同業者が置かせてくれと頼み込んだので置いているとのこと。
300万円のお値段だそうですが、このピアノだけは我が顧客に買っていただきたくないで
すね。なぜなら、調律はじめ、メンテナンスが大変そう!
よく、見てください。
チューニングピンは普通のグランドピアノだったらこちら側にあるのにこのピアノは向こう側
にあるのです。調律がやりにくいと思うし、弦が切れたら張るのも一苦労ってな感じです。

いずれのピアノもかなりの年代物。
それらを完全にオーバーホールしてここに陳列しているのです。
キータッチ、機能の俊敏性は新品商品と比べて何らの遜色ありません。
「母の形見なのです」「父が無理して買ってくれたのです」「祖母が愛用してたのです」「私の
汗と涙の結晶がこもっているのです」と様々な思い入れがあるためにひどく老朽化してもピ
アノを手放すことができない、という人達にとって新井さんは救世主なのです。

2階に上がる階段から見た1階です。


2階にもこのように4台のピアノが。

天上から吊り下げてあるのはピアノの鉄骨をピアノ本体から引き離すときに吊り上げる機械
です。


二つのスタインウエイピアノです。

向こう側が1898年製ニューヨークSW・Aモデル
手前が1935年製のハンブルクSW・Mモデル
1898年と言ったら鉄血宰相ビスマルクが死去し、ハプスブルク家のエリザベート皇后が暗殺
された年です。


ニューヨーク・スタインウエイを引き取るときの65万円の価格はスタインウエイの中古品として
は捨て値のような価格だそうです。
大屋根(グランドピアノの上を覆う蓋)のまくり蓋(譜面台のちょうど上に位置する蓋の部分)が
真っ二つに割れ、ピアノケース本体のあっちこっちが破損しているぽんこつ同然の状態から
新井さんは接木をし、響板の傷に埋め木をし、駒板の斜めに刻み込まれた表面が100年以上
にわたってこびりついた汚れで凸凹しているのを一つ一つノミで削り、このようにチューニング
ピンを打ち込んで絃を張り、ピアノとしての、スタインウエイとしての音色を出しうる、いわゆる
生命を蘇らせ、魂を吹き込んでいく作業をやっていくのです。
鍵盤には新井さんが取って置きの象牙を貼っております。
「もりさん、どんなに苦労をしたことか!どんなに金をかけたことか!」
過去30年間、一緒に酒を飲んだときに吐く新井さんの言葉には血を吐くようなものを感じること
がしばしでした。
ちなみに出来上がったこのニューヨークSWの販売価格を尋ねると490万円から500万円ぐらい
とのこと。


ウオールナット塗装のハンブルク・スタインウエイ
外枠の塗装と新品の象牙を貼った鍵盤という状態で引取り値が250万円


まだ、チューニングピンも打っておらず、弦も張っていない状態です。
ここから新井さんは鉄骨に金粉を塗り、アクション部の磨耗部品は総取替えにするのです。


ピカピカに磨き上げた響板と駒


ニューヨークSWの調整にいそしむ新井さん。
人間的には非常に心暖かく、義侠心に富んだ男ですが、仕事に対する姿勢はそれはそれは
厳しく、典型的な職人気質の人です。
感情の起伏も激しく、若い頃は、取り付けたハンマー(弦を叩くフェルト製の部品)が全然いい
音を発しないのに頭に来て全部折って捨ててしまう、と言うこともよくありました。
取り付けたハンマーが鍵盤を弾くと弦を二度打ちすることの原因が分からず、徹夜で原因追
求を続けたことなど、彼の苦労談を私は随分多く聞いてきております。
新井さんは職人気質の最後の職人のように私には思えます。