故・名合博子先生を偲ぶ「お別れコンサート」

去る10月4日、名合博子先生を偲ぶ「お別れコンサート」がゆかり深い有志の人たちに
よって企画され、開催されました。

会場は先生がお住まいだったマンション群の敷地内にある‘辻久子記念’弦楽アンサンブ
ルホール。144名収容のこじんまりとしていながら瀟洒なインテリアに装われたホールです。
先生のご主人をはじめとするご家族、ご親戚、ご友人、そして先生のお弟子さんたちとその
親御様、スズキ・メソードの指導者のお仲間たち、そして鳥取の”野の花診療所”から先生
の最後の日々をお世話された3人の看護師さんまでが集まられました。

鳥取から会場に到着されたばかりのご親族の皆さん。左から2番目が名合先生のお母様。

受付に並ぶ世話役の皆さん
社会人となって現在は名合先生のレッスンを受けていないかつてのお弟子さんたちも多く
駆けつけました。

世話役の中心となった女性達。写真右は左からマツオさん、吉行さん、ナカジマさん。
写真左はコデラさん、ツジさん。ツジさんはポスターやプログラムをPCで作られたのです。

片隅でたたずむお弟子さんの姉妹たち。

ステージには名合さんの遺影と花輪が。

そしてほぼ満席の状態でお別れコンサートは始まりました。

有志代表として吉行さんが開会の挨拶。
死を覚悟された名合先生から死後の追悼会についてすべてを任せられた女性です。
役柄を引き受けてまもなくして吉行さんも名合先生と同じく乳ガンが発見されたのですが、
気丈にもそれらを乗り越えて追悼会の任を辞退することなく、準備に励まれたのでした。

そして次に先生のごく初期のころのお弟子さんだったナカジマアヤさん、弟子の保護者
代表としてフジワラさん、スズキ・メソード指導者仲間として、また友人として30数年来の
お付き合いであるマツオさん等による先生の思い出と感謝の辞が述べられます。
写真左からナカジマさん、フジワラさん、マツオさん。

先生のお弟子さんたちによる演奏が始まりました。小学生から大学生までの11人のお
弟子さんたちが一人一人舞台に出てきては先生の遺影の前でお辞儀し、それぞれが先生に
抱く思いを司会者の人が代読した後、演奏をするのです。

どのお弟子さんの演奏にも共通するのが音の美しさ、繊細さであり、数多くのピアノ発表会を
見聞きしてきた調律師の私でも印象深いものがありました。名合先生の繊細さ、上品さがその
まま弟子たちの演奏に反映されているように思われたものでした。

名合先生が最後の日々を過ごされた鳥取の”野の花診療所”までお見舞いに行き、そこのホー
ルで療養所の人たちの前でピアノ演奏したコデラヒロノリ君です。

プログラムは下記のとおりです。(敬称略)
1.ソナチネOP.36-1第3楽章(クレメンティ)やまもとまい 2.2つのメヌエット(バッハ)サカイカナコ
 3.ソナタOP.49-2(ベートーヴェン)ゆうじつまゆか 4.ソナチネOP.36-1(クレメン
ティ)かみたにゆりか 5.ソナタK.545第1楽章(モーツアルト)むらたゆうか 6.トルコ行進曲(
モーツアルト)ふじわらゆきほ 7.イタリア協奏曲 第1楽章(バッハ)こでらひろあき 8.プレリュー
ド(バッハ)さかいなほこ 9.華麗なる大円舞曲(ショパン)ふじわらみずほ 10.アンダンテ・スピア
ナートと華麗なる大ポロネーズ(ショパン) こでらひろのり 11.タランテラ(リスト)こでらひろゆき

 お弟子さんたちの演奏がすべて終わった後、名合先生のご長女ユキさんとご長男ミツオさ
んが挨拶をされました。
ピアノを教えることが本当に好きだったこと、愚痴をこぼしたり人を責めたりすることが決して
無く、自分が闘病生活を送っているときにも常に他者への配慮を忘れなかったこと等
をユキさんは述べられ、ミツオさんは母のために作曲した「野の花」を生前母に聴いてもらい、
お別れコンサートのとき、友人たちと組んでいるアイリッシュ音楽のバンドで演奏しても良いか、
と尋ねたら「いい曲ですよ。是非演奏してね」と言われたことを披露されました。
お二人の姉弟に共通した言葉は「母は私たちにとっていつも最良の理解者でした」ということでした。

 そしてその後、ユキさんがヴァイオリンをそして二人の友人がチェロとピアノを受け持
つピアノトリオでメンデルスゾーンのピアノ3重奏曲 第1番ニ短調Op.49が演奏され、

ミツオさんが吹くティン・ホイッスルに寝屋川時代からの友人たち二人がピアノとヴァイオ
リンを受け持ってアイリッシュ(アイルランド風)スタイルの「野の花」の美しく叙情的
な音楽の演奏へと続いたのでしたが、二組の演奏を聴きながら「これ以上語ると涙が出そ
うなので・・・」と挨拶を短めに終わられたミツオさんの言葉が思い起こされて目頭が熱く
なってきました。

 すべての演奏が終わって、先生のご主人の挨拶となりました。
自分のことで誇ったことは無いがただ一つだけ、お母さんという女性を見つけたことだけ
は子供たちにいつも自慢してきたこと、体育会系の自分は歌を歌うのは好きなのだが
音痴なのだと言ったところ、「本当の音痴なんていないのですよ。皆、練習すれば上手に
なるのです」と励ましてくれたこと、今日は娘と息子が必死に涙を我慢しているのに親の
私が涙を流すわけにはいかないと心に決めているのだが、妻の死後、仕事から戻ってきた
駐車場の中で一人涙にくれてしまうことがあること等を時折葉を食いしばるようにして語られ
る、名合博子先生への夫としての切々たる哀切のこもった言葉の数々は同じ年頃の男とし
て私は深い共感と哀悼の思いを抱いたものであり、場内は洟をすする音が途絶えない有様
となりました。
 湿っぽいものにならないコンサートをとの生前の名合博子先生のご希望でしたが、これ
だけ多くの人に良き感化を与え、愛され、慕われた人のお別れコンサートに涙を禁じるの
はどだい無理な話でした。

 そのかわり、すべてのプログラムが終了して皆さんが散会されていかれるときの表情は
どなたも目を赤くはされてましたが、何か素晴らしいことに立ち会われたときのような深
い満足感と感動の色を浮かべておられたように私は感じたものでした。

名合先生が寝屋川市在住時代のお弟子さんと父兄の方達です。

名合先生が大阪市都島区へ引っ越しされてからのお弟子さんと父兄の方達です。
私は両方に関係しているのですが、こちら側に加わらせてもらいました。

鳥取からわざわざ駆けつけてくださった”野の花診療所”の看護師さんたちは電車の
都合で会が終わるとすぐさま帰られたとか。写真を取り損ねた私は”野の花診療所”に
お願いしてメールで同看護師さんたちの写真を送ってもらいました。
名合先生の最後の日々をお世話された方々です。

見て下さい、皆さんのこの晴れやかな笑顔を。
深く敬愛した先生の追悼演奏会を心残り無くやり遂げた人たちの安堵と充足感が表情
に出ているようではありませんか。

「湿っぽいものにならないような追悼演奏会にしてくださいね」と生前、吉行さんに何度も
念を押された名合先生は、あの世から「皆さん、ほんとうに有難う」と言われながら満足そ
うに微笑んでおられるに違いないと思ったものでした。

(※実名使用を了解いただいている名合様、吉行様以外の方はお名前をかな表記にさせてもらいました)