「戦艦大和からの生還」
2年前の4月10日、私は西宮市苦楽園の顧客Sさん宅に仕事に行きました。いつもな
らお嫁さんが待っていてくださるのですが、その日は急用ができたとのことで義父にあた
る方が私を迎え入れてくださいました。
物静かでありながら確固たる精神を宿しておられる、といったような風貌のご老人でした。
調律が終わり、和音を鳴り響かせる試奏の直前に電話の呼び出し音が鳴りだしました。ピ
アノ横の受話器を取り上げたS氏は丁重な対応をされていましたが、その間じっと作業を
止めて待機している私に気づき、一時も早く電話を終わらせようとされ、それがこちらに
も伝わってきました。
すべての作業を終えて領収書を記す時点で、S氏はコーヒーを、二つのカップに用意さ
れて持ってこられました。コーヒーを勧めながらS氏は言われます。
「先ほどの電話が長引いてお仕事の邪魔をして申し訳ございませんでした。ところで、
あなたは戦艦大和のことをご存知ですか?あの電話の相手は、戦艦大和の最後の出撃で戦
死した日本帝国海軍軍人のお嬢さんなのです。戦艦大和の沈没五十七周年を先日4月7日
に迎えて追悼式典をやったレポートをお送りしたことへのお礼の電話だったのです」
‘戦艦大和’という語彙を聞くだけで胸が騒ぐ私は問い返しました。
「お客さまは戦艦大和の乗組員だったのですか?」
「そうです。マリアナ沖海戦の時から最後の出撃まで、すべての戦艦大和の作戦に参加
しました」
唖然とした私は言いました。
「あの鹿児島沖で撃沈された大和に乗っておられたのですか?!」
「はい、三千数十人の乗組員のうち生還できた二百数十名の中に私はいたのです」
NHKスペシャル「コンピュータグラフィックによる戦艦大和の最後の模様」を夫婦共
々涙しながら見た私が、このS氏のお話にどれほど強烈な思いを抱いたかを皆さん、ご想
像いただけるでしょうか。
私はその詳しい話を聞きたい強い欲求を覚えながらも次の仕事の予定があるため、その
日はそこで辞去したのですが、翌年の昨年4月、時間を十分にとってSさん宅を訪れました
。そのときにSさんから聞いた詳しい話をここに記させてもらいたいと思います。
S氏は1944年(昭和19年)4月の20歳のときに学徒動員で召集され、広島の大竹海
兵団で2ヶ月訓練を受けたあと、6月に戦艦大和に配属となりました。所属は航海科で航
行・信号・見張・操舵に関する任務を主とするそうです。
戦闘態勢に入ったときにS氏が配置に付くのは司令塔の一番上のデッキ、つまり戦艦大
和の一番高いところに立つのです。そしてここでS氏に与えられた任務は終始双眼鏡で敵
機の来襲方向を見極め、すぐさまそばの機銃係に伝達することなのです。S氏が乗艦して
すぐさま始まったマリアナ沖海戦では双眼鏡で見える敵機が全部自分を目掛けて向かって
くるように思われ、恐怖で思わず目をつぶっていたそうですが、有名なレイテ湾海戦の激
戦では戦闘中にすっかり度胸がついてしまって、敵機が双眼鏡から姿を消して頭上を過ぎ
去って行くときもまったく目を閉じなくなったそうです。
マリアナ沖海戦では回りには味方の護衛艦、上空では味方の迎撃戦闘機も沢山飛び交っ
て護衛していたので敵機も大和にはなかなか近づかなかったのに比べ、レイテ湾海戦では
味方の護衛戦闘機が極端に少なくなって激しい敵雷撃機や戦闘機の銃撃を浴びながらも平
気だったとは、「人間、何だって慣れるものなんですね」とS氏は笑って仰いました。
「レイテ湾海戦はもうとにかく凄い戦でした」とS氏が言われるので、鹿児島沖の大
和最後の戦いのときと比べて如何でしたか?と尋ねると、「鹿児島沖のときは戦艦大和と
数隻の護衛艦だけですから、それに敵機が集中するだけですが、レイテ湾のときはとにか
く空を覆うばかりに敵機が飛び交い、味方戦闘機もほとんど無い状況の中、日本艦隊は攻
撃を受け、日本の艦船も応戦するのです。大和にも敵機がどんどん攻撃をかけてき、とに
かく艦船の大砲、高射砲、機関銃の音に飛行機の爆音、銃撃音、魚雷の爆発音ともの凄い
騒音のなかで私は必死になって観測をしたものでした。このときに私は近づいてくる敵機
が機銃掃射を発射した瞬間、光が横に棒状になっているときは別の方向に飛んで行き、そ
れが点になっているとき自分に向かってくることに気づき、わずかの身のひるがえし方で
顔のすぐ横を弾が飛び去っていったり、そのうちの一つが双眼鏡を持つ左手をかすったと
いう経験をしました。このように今でも手に大きく傷の跡が残っています」
そう語って、S氏は手を見せてくれましたが、手の甲の指の根元の関節のところにこぶ
のようなものが盛り上がっていました。
恐ろしい、とは思わなかったのですか?と尋ねると、「そのときは無我夢中で、どんな
だったかを今はよく覚えていないのですが、ただ、いつまで続くのだろうか、と思ったこ
とだけは覚えております。それと、戦闘中に艦橋に配置された者は全員、拳銃と短剣を帯
びることを許されたのですが、飛行機相手には何の役にも立たないその武器二つを腰にし
ているという思いだけで凄く心強かったこともよく覚えております。不思議な心理ですね」
「戦艦大和の主砲は仰角を45度にすると富士山の高さを越え、40キロの距離も飛ぶ脅
威の大砲でありながら、実際に軍艦同士で撃ち合うことは無かったので無用の長物のよう
に思われていますが、この主砲を空中に向かって射撃すると、敵機もその発射音と弾道音
の凄まじさに精神的に萎縮するのか大和への攻撃の手を緩める効果はあったようでした」
S氏の話によれば主砲の射撃が始まるときは身近の乗組員は耳栓をするそうですが、そ
れでも凄い音は振動と共に体に伝わるそうです。
レイテ湾海戦のときに偶然遭遇した敵空母を大和が主砲で撃沈したあと、敵空母の乗組
員が海上に浮かんでいるのを戦闘で興奮している大和の乗組員たちが機銃掃射するのを見
て艦長が激怒し、すぐに止めさせたそうですが、これは後で私が調べてみると米空母は損
傷はしたけれど沈没はしていないようで、戦闘中に海に落ちた乗組員が大勢いたのを見て
S氏は勘違いされたのだろうと思います。ちなみに、このときの砲撃が戦艦大和の最初に
て最後の敵艦船への主砲攻撃となりました。
S氏の話によればレイテ湾海戦で撃沈された大和の姉妹艦武蔵は、実際は航行不能に陥
った時点で軍艦の秘密を守るため自軍の手で沈没させられたそうで、それは戦争が終わる
まで極秘の事項だったとのことです。これについてはその事実について私はいささか疑問
に感じる面がありますが、S氏のお人柄を考えると、これは戦艦大和の乗組員の中ではそ
の話が事実として伝わっていたのだろうと思います。
この自軍の飛行機が全然飛ばなかったレイテ湾海戦を経験してからS氏は日本軍には
もう飛行機が無くなったことを知り、この戦争は負けるな、と実感したそうです。このと
きのレイテ湾海戦で日本の海軍は事実上消滅したと言われております。
そして最後の沖縄への出撃です。
出撃前に片道の特攻作戦であることは知らされていたのですか?との私の問いに、「今
は定かには覚えておりませんが、多分知らされていたと思います。出撃前夜は艦内で祝宴
をやるのが日本海軍の慣例となっており、いつもですとみんな大いに浮かれて宴を楽しむ
のですが、この沖縄行きのときは宴が通夜のように静かだったことを覚えています」
「鹿児島から出撃されたのですか?」
「いいえ、徳山からです。忘れもしません。4月6日、徳山を出港して豊後水道を通過
するとき島々の桜が咲いているのを見て、『桜が見送ってくれてるぞ〜』と皆々が声をあ
げて祖国との別れを惜しんだ光景が今でもありありと私の心の中に残っております。私は
毎年4月になって桜を見るたびにいつもあの光景が蘇り、戦死していった二千数百人の乗
組員たちのことを思わずにはおれないのです」
S氏のお宅は西宮市のあの桜並木で有名な夙川の河畔に建っているのです。このお話を
お聞きしながら私は胸をこみ上げてくるものがあり、危ういところで落涙を防ぎ得ました。
戦艦大和には片道の燃料しか積まれなかったと言われてますが本当だったのですか?の
私の問いかけに対して「違います。燃料は満タンでした。大和は沖縄で海に浮かぶ砦とし
て長い期間、アメリカ軍と闘う任を負わされており、艦船の機能を持続するためにも動力
の必要があったのです。食料もかなり豊富に積まれておりました」とS氏はきっぱりと
答えられました。
「それにしても、帰還をまったく考慮していないこの沖縄への突入作戦はひどい話です
。艦長以下、誰もが理不尽さを抱いていたと思います」
Sさんは大和の艦長に近くで会われたことがあるのですか?の問いかけに、「私は気象
状況を艦長に伝達する役目を仰せつかっていたのでしょっちゅう会っておりました」
「どんな方でした?」
「ひとつも威張ったところが無く、温厚で軍人というよりも文人肌の人でした。S君、
明日の天気はどんなもんやろうな、と気さくに語りかけてこられてとても親しみの持てる
方でした」
この艦長も当時の海軍軍人の指揮官としての習いに従い、離艦することなく大和と運命
を共にしております。
鹿児島沖での最後の戦いで印象深かったことは、意外にも最初に雲間から現われたいく
つかの敵機の姿だったそうです。
それは偵察機だったそうですが、この敵機の姿が見えたとき、いよいよ最後のときが来
たな、と思われたとか。不沈戦艦、海の要塞と言われた大和は沈められる、と弱冠20歳
の青年でさえも感じたそうです。戦艦大和への集中攻撃は間断無しに行われたように思わ
れがちですが、実際は途中で米航空隊は引き返し、30分ほどしてからまた再来し、この
ときの猛攻撃で大和は撃沈されたのだそうです。
大和の傾斜の度合いがひどくなり退艦命令が出されたのが午後2時ころとのこと。
「海に飛び込んだのですか?」
「私の場合は振り落とされました。大和がひどく傾いていたおかげで海面まで10メー
トルくらいだったと思います」
戦艦大和は最後は大爆発して沈没しますが、それまでにS氏はどうやって十分な安全
地帯まで泳ぎ着くことができたのだろうかと尋ねたところ、「私を振り落とした大和は航
行速度を落としておりましたが、どんどん私の浮かんでいるところから離れて行きました
。だから渦にも巻き込まれなかったのです。航行不能となってから退艦命令が出ていたら
あの大爆発の巻き添えを食い、渦に巻き込まれて恐らく生存者はもっと少なかったことで
しょう」
「大爆発の様子はどんなでしたか?」
「覚えておりません。大和から離れ去ることばかりを思いながら必死に泳いでいたから
爆発の瞬間は見ていないのだと思います。後に写真で見た原子爆弾のきのこ雲によく似て
いる雲が漂っていたのはかすかに覚えております。それと凄い大音響も」
「ライフジャケットをされていたのですか?」
「いいえ。ただ、海に散乱している色々な浮遊物があり、それらの小さいのをポケット
やズボンの間に入るだけ入れて浮き具代わりとしました」
「どうやって救出されたのですか?」
「護衛の駆逐艦のランチがやってきて私たちを引き上げてくれました。そばに上官がい
たので多分、一緒に助けられたのだろうと思います。もっと遠くにも大勢浮いていたはず
ですが、私たちを救出すると急いでランチは引き上げて行きました。大和が撃沈された今
、アメリカ軍の再三の攻撃がある前に急ぎ戦場から離脱するためだったのではないか、と
思います」
「と言うことは沈没を免れた駆逐艦が時間をかけて救出活動をすればもっと生存者はい
た可能性があったのですね?」
「はい。私は本当に運が良かったのだと思います。私と違って艦底深くにいた乗組員た
ちの中には大爆発の前に安全地帯までたどり着くのが間に合わなかった者も大勢いたので
はないかと思うのです。本当に戦争はむごいものです」
「乗った駆逐艦は鹿児島に行ったのですか?」
「いえ、佐世保の軍港です」
「そこでSさんはお役目御免となったのですか?」
「いえ、とんでもない。戦艦大和の沈没は国民の戦意を喪失させるため極秘とされたの
です。佐世保の海軍療養所に乗組員全員が隔離されました。ただし、戦艦大和の生き残り
として皆から大切にされながら治療を受け静養をし、すっかり元気になったあと、徳山に
戻されました」
「また、軍務につかれたのですか?」
「はい。しかし、徳山で招集兵の教官を命じられ、二度と戦地へ駆り出されることはあ
りませんでした」
ここまで話されてS氏はおかしそうに言われます。
「招集兵と言いましてもその頃に入隊してくるのは40代や50代の人が多いのです。み
んな私よりはるかに人生の先輩の方であるのに、一様に私に尊敬の眼を寄せるのです。ど
うも上官たちがSはマリアナ沖、レイテ湾の大海戦を経験してきた海軍の猛者なんだ、
と吹き込んでいたのに違いありません」
そこで私は言いました。
「それもあるでしょうが、戦艦大和の司令塔の上で最初は恐怖ですぐに目をつぶってい
たSさんがレイテ湾、鹿児島沖と凄まじい激戦の中で冷静におられるようになった、その
身に付いた度胸が風貌に表れて人の畏敬を招いたのだろうと思います」
S氏は一つの編纂されたアルバムを持ってこられました。
戦艦大和乗組員の中の航海科に所属した仲間たちで作った航友会のアルバムで毎年、生
き残った仲間たちで集まって一緒に旅行されるその記念写真が沢山載っておりました。十
数人の男女が写っている去年の写真の中のご自分とその後ろにいる人物を指差して、「こ
の二人が大和最後のときに乗艦していたのです。戦艦大和沈没時の生き残りはどんどん減
っていっております」
どの写真にも「戦艦大和・航友会」の旗が一緒に写っており、私は尋ねました。
「旅先や旅館でこの旗を見た人たちがみんな尋ねませんか?戦艦大和の乗組員だったの
ですか、と」
「はい、しょっちゅう尋ねられます。皆さん、戦艦大和にはそれぞれ色々な思い入れを
持っていらっしゃるようですね。感に堪えぬような表情をされます」
アルバムにはこの航友会が靖国神社に献燈した模様の写真も掲載されていました。それ
についてS氏は言われました。
「私は個人的には靖国神社を肯定しているわけではありません。しかし、あそこに我々
の戦友が祀られている以上、弔いに行かなければなりません。そういう意味で私たちは献
燈したのです」
S氏のお話を聞いていて言葉の端々に戦争は残酷なもの、二度と戦争なんて起こしてはい
けない、の反戦の思いだけでなく、大東亜戦争への否定の気持ちが伺われます。お聞きし
ませんでしたが、今度のイラク戦争に対してもS氏は私とは違った反応をされたことで
しょう。
しかし、戦争で死んでいった同胞への鎮魂は絶対に忘れてはならない、という強い思い
も感じられました。
S氏は最後にこう言われました。
「今までに何度も戦艦大和の話をして欲しい、と講演を頼まれましたが、すべて断って
きました。生き残りの1人が講演しているのを聞いたことがありますが、自慢めいた話で
聞いていて不愉快でした。戦艦大和を民族の魂のように考えたり、英雄視するような風潮
は好ましいものではありません。私がそのように思っていることは是非、あなたの心の中
に留めておいてください」
私の受け応えから愛国的心情と戦争も場合によってはやむを得ず、という私の考え方を
敏感にもS氏は察知したようなそのご発言でした。私は複雑な思いでS氏のお言葉を受
け取ってお宅をあとにしました。
S氏と私では政治的思想・信念で若干の相違があることは事実のようです。私と仲の良
かった予科練生き残りの義兄と私の間にも相違があったように。
私はS氏の感動的なお話をお聞きしたからとて私の信念、考え方を変えるつもりはあ
りません。私にとって戦艦大和はやはり日本人としての心の琴線に触れる類の存在です。
間違った戦争と言われますが大東亜戦争は日本人が民族の存亡をかけて戦った戦であり、
負けましたが一方的に我が日本が悪いとは決して思わない、その私たち日本人の誇りを失
いたくない、その象徴が戦艦大和だと私はやはり思います。
しかし、S氏も私の亡き義兄も軽率な戦後の進歩的文化人や、安易な反戦運動をやる輩
とは全然違うタイプの人たちです。
戦艦大和の最後に立会ったS氏、そして戦争末期、家族からは引き離されて鹿児島で
いつ出撃か、いつ自分の確実な死が身近にやってくるのかと、脅えながらの予科練の訓練
中に敗戦を迎えた義兄たちの激しい戦争への反撥に対して、私は反論するべき言葉を失い
ます。こういう方々にはやはり敬意を表し、そのお気持ちを尊重します。
S氏は戦後、西宮市の小学校の教師になったそうですが、教え子たちにとって大変印象
深く、大きな良き影響を与えた教師に違いない、と確信しております。