私に届けられたもの                     dorami

 2003年4月6日(日曜日)。その日は、嵯峨野でのコンサートの日。
 嵯峨野の満開の桜の花は、満面の笑みを浮かべたあなたの姿と重なり、あなたが桜の花になりかわり、こうしてみんなに綺麗な花を咲かせて見せてくれているんだと思うと、いとおしさと、いじらしさで、胸がいっぱいになりました。

 コンサートに至るまでの準備から、前夜祭、そして当日も、まるで自分のことのようにして、顔を出したり、力を貸してくださった方々や、温かさを届けてくださった出演者の方々や、聴きに来てくださったお客さま方に、自分が一生懸命咲くことで「ありがとう」を伝えたかったのですね。

 あなたがこの世を去ってからずっと、最後の電話の言葉がリフレイン。幾度となく 眠れない夜を過ごしているという声が頭の中でリフレイン。 苦しかったんだよね…。辛かったんだよね…。そう思うと私も、眠れない夜を過ごす日々。
 そんな時浮かんだ言葉が「詩」のようなカタチになりました。飯田 薫さんの「薫」の文字をおりこんで、私の心の中の薫さんと、薫さんが大好きだった長坂先生に贈りました。すぐさまそれは先生の手によってメロディが付き「詩もどきの言葉の連なり」に生命が吹き込まれた気がしました。それは、飯田さんへのレクイエム。

 コンサートの日、会場の隅からふと遠くを見つめたら、確かに、あなたの姿が見えました。長坂先生の弔電の通りに、先生の歌を聴きに来たんですね。やぶ先生のトーク、おもしろかったでしょ?!それと、やぶ先生の「涙そうそう」聴いた?先生の歌聴くの、初めてだよね。たく君のバイオリンも良かったよね。心に染み入る音色だよね。磯子のなっちゃん先生の歌声は、子守唄みたいに優しい響きだったでしょ。そして、長坂先生の歌…もちろん、しっかり聴いていたよね。
 私はあなたが亡くなってから、コンサートのことが頭をよぎった時、一瞬、ちょっぴり不安になりました。でもね、長坂先生は「飯田さんのためだけにやってもいい!」と言ってくださったから心強かったし、やぶ先生は「音響機材はまかせて!」と言ってくださったんですよ。そして、たくさんの人達に助けられ、支えられて、この日を迎えることが出来ました。横浜の越後屋さんだって、「乗りかかった船です」…なんて言って、遠くからお手伝いに来てくださったんだから。たくさんのお客様にもびっくりしたでしょ?日頃あなたが頼りにしていた甥のまささんもご夫婦で来てくださってたね。終了までいることが出来なかったのは、あなたが最後まで気にかけていた大切な息子の久君のことで施設に行くことになっていたからでした。三人娘のうちの後の二人も頑張ってくれていたでしょ!それとね、後ろの方にいた、うちのしょうちゃん、見えたかな? …きっと、全部、全部…見えたんだよね。

 コンサートの準備を進めていく中で、私達は又別のお別れを経験したのです。三枚目のCDを渡したFさんの死。私が入院中の彼女を尋ねた時もそうとう病気は進行していて、「春になったら一緒にコンサートに行こう!」と励まし続けていたMさん達の願いも叶わないまま、3月3日に命の炎は燃え尽きました。飯田さんの傍に逝ってしまわれたんです。入院中のFさんには飯田さんの死を知らせていなかったから、きっと飯田さんに逢ってびっくりされたことでしょうね。
 飯田さん、そしてFさんの死を通して、仲間の間で誓い合った言葉があることを後で知りました。Mさんの仲間の間でも、Kさんの仲間の間でも…いろんな所で耳にしました。『今出来ることは、後に延ばさず、今しておこう!』それは偶然ではなく、しみじみとみんなの心の底から湧き出た言葉に違いないと感じました。
 人はこの世に「生」を受けたなら、必ず「死」といものがやって来て…。「人の死」…それはまぎれもない真実で…。避けては通れない出来事で…。
 今まで、何度か死にそうになって、「死」というものと向き合ってきた私だけれど、「死ぬこと」が怖くないと言えば嘘になります。「死ぬこと」って、限りなく怖いけれども、常に「命」といったものを見つめていたいと思います。時に「生命の尊厳」について、考えてみたいと思ったりしています。

 嵯峨野で私に届けられたものは、たくさんの「温かさ」と「再会」と「新しい出逢い」と「想い出」達。
 寡黙が美徳だと思っていたあの頃…。悲しくても、笑っていたあの頃…。思うことの反対を言ったりしたりしていたあまのじゃくのあの頃…。あの頃はそんな私だったけれど、この歳になって精一杯の素直さで生きていたいと思うようになりました。
 悲しい時は「悲しい」って言うよ。嬉しい時は「嬉しい」って言うよ。苦しい時は「苦しい」って言うよ。寂しい時は、「寂しい」って言うよ。そして、そんないろんな想いを受けとめあって、分かちあえる人達と出逢えた気がしました。
 私はドラえもんが大好きです。ドラえもんはね、「過去と現在とをつなぐ掛け橋」 「現在と未来とをつなぐ掛け橋」そして、「人と人とをつなぐ掛け橋」なんだそうです。ねえ、ドラえもん…「夢や希望」をいつも私に持たせてね。そしてこれからも、 たくさんの「出逢い」をくださいね。

 そして、コンサートから二週間経った日に、京都のYさんから私宛てに、荷物が届きました。私は送り主の名前を見てもピンと来ず、もちろん顔さえも思い浮かびません。箱を開けるとまず封筒に入った手紙が目につきました。「コンサートを開いて下さってありがとうございました」との文で始まり、飯田さんとの想い出が簡潔に綴られ、生前の彼女から私の話しをよく耳にしていて、私の事を自分の知人であるかのように思っていたとの内容でした。
 箱の中身は飯田さんのコート。一月の始め、息子の久君の帰省に合わせ、三人で食事をされた時にもらわれたコートは「自分が持っているよりも、あなたが持っていて、時々着たり、ながめたりしてくださる方が飯田さんが喜ばれるのでは…」と書いてあり、Hさんに相談され、送ることにされたらしいのです。一方的に送ったことと、再び私の心を波立たせることへの断わりと、私の身体への気遣いで結んでありました。そして最後に、「包みのスカーフは未使用のものです。お使いくだされば…と思います」と追伸。
 今の私は、まだ、そのコートを包みこんでいるスカーフの結び目さえほどけないでいるのです。何かまだ、飯田さんの温もりが残っていそうで…。Yさんの気持ちを思うと、少しでも手にとりたいのですが、今の私にはまだ無理、かな…。でもいつか、Yさん、あなたと会える日に、二人でこのコートを手にして、想い出話に花を咲かせる日が訪れる日もきっと来ると思います。そして、もう少し時が経てば、その結び目をほどいて、スカーフを身につけますからね。あなたの想いを受けとめたいから…。

 私は以前、長坂先生から、こんなことをメールで教えて頂いたことがあります。
 『どれだけ生きたかではなく、どんな生きかたをしたか』という「命の量と質」について。そしてその人が残した「生きた証」についてのこと。『「命」とは永遠のものであり、「死」は「宇宙」という新たな世界への旅立ち』。生き切ったあなたは、たくさんの「生きた証」を残し、今、「宇宙」へと旅立っているのですね。
 そして以前、やぶ先生から教わった話しもしますね。「人の死」は渡された「卒業証書」。頑張って生きていたあなたは卒業証書を渡してもらったのですね。もうひとつ…やぶ先生が辿りついた「健康の定義」についてお話しさせてください。『健康とは失われていったものを認め、それと共に生きる態度の中にある』 それは「共生」そのもので、私達から失われていくものはたくさんあるけれど、それをごまかすことなく真正面から認め、それでも生きていく態度の中で見えるものだということなのだそうです。「真の健康」について考えてみたいなって思います。
 
 私はこれからの人生をどう過ごすのかなぁ?以前にも話しましたが、私は膠原病。私は自分に病気があったから、こうしてたくさんの方達と出逢えたと思うのです。 『私の病気は、神様からもらった贈り物。そして、それは、大切な私の宝物』これか らもずっと自分の病気と仲良く付き合っていこうと思っています。

 忘れられない大切なひとを想う時、そのひとの魂が何かに宿って再び目の前に現れてくれると信じています。
 春を待っていたあなた…桜の花が咲くのを待ち望んでいたあなたは、きっと桜の花になったんですね。
 コンサートから、二週間が経ちました。満開だった桜の花も葉桜となり、春の陽射しを浴びながら輝いています。季節はめぐり、また来年も同じように桜の花は咲くのですね。
 桜の花の異称は、夢見草(ゆめみぐさ)。眠れるようになったあなたは、どんな夢を見たのかな?

   『これから 毎年私は 夢見草が薫る頃を
     心待ちにすることでしょう
        何故って … あなたに 逢えるから… 』