私の好きな漢詩(5)

『沈園・其一』  陸游

今回は男女の情愛を歌った詩をご紹介します。

陸游(りくゆう)は南宋時代のもっとも有名な詩人であり、生涯に1万近くの漢詩を作ったと言われ
ております。愛国者としても知られ、ツングース系の女真族が建てた国、金によって滅ぼされた北
宋の後に皇族を戴いて江南の地に南宋が建てられ、以後、金との政治的緊張が続く時代の中で
常に金相手の徹底抗戦派に属した人でした。この時代の有名な英傑に岳飛という人物がおり、
今でも中国で高い人気を得ています。
陸游は20才のときに相思相愛で結ばれた唐婉(とうわん・とうえん)という妻がおりました。しかし、
陸游の母親(唐婉の伯母だったようです)がこの嫁を嫌い、強引に二人は別れさせられたのです。
陸游も唐婉もそれぞれ再婚しますが、唐婉は若くして亡くなります。
陸游はこの別れた女性のことを生涯慕い続け、いくつかの漢詩に詠んだ一つがこの「沈園・其一」
です。

唐婉と別れた陸游は首都に上りますが、時の権力者に憎まれて出世の道を阻まれ、傷心の思い
で故郷の紹興に一時戻り、沈園という公園を散歩していたとき、思いもかけず夫と散歩をしていた
唐婉に再会したのでした。10年ぶりのことです。
風のたよりで陸游の挫折のことを知っていた唐婉は夫、趙士程(南宋の皇族だったと言われてお
ります)に頼んで、陸游に酒肴を贈って元の夫を慰めたそうです。夫の趙士程も立派な人物ですね。
その直後に感謝の思いを込めて陸游の作った詩の中に「春いにしえのままながら、人むなしく痩せ」
と別れた妻が痩せてしまっていたことが記されてありますので、唐婉の死はそれからあまり遠い先
のことではなかったと思われます。
そしてこの「沈園・其一」なのですが、唐婉と再会してから何と40年後に沈園を訪れたときに作った
詩なのです。陸游75才のときです。

夢斷香消四十年
沈園柳老不飛綿
此身行作稽山土
猶弔遺蹤一[シ玄]然


・詠み
夢は断たれ、香は消えて四十年、
沈園(しんえん)の柳も老いて綿を飛ばさず。
此の身、行く行くは稽山(けいさん)の土と作(な)らんも
猶(なお)遺蹤(いしょう)を弔(とむら)って一(ひと)たび[シ玄]然(げんぜん)たり

・注
沈園:紹興酒の名で有名な浙江省紹興にある公園
夢は絶え、香は消え:唐婉の死を指す
柳老不飛綿:春になって柳の木が飛ばす胞子が綿が空中を遊離するように見えることからこの表現
がなされている。漢詩にしばしば出てくる比喩。
稽山:呉越の戦いで有名な古戦場、会稽山のこと。つまり陸游の故郷である紹興の地。「会稽山下
の恥をそそぐ」という諺は修猷館高校の応援歌にも取り入られている。
遺蹤:想い出の残る場所
[シ玄]然:はらはらと涙を流すさま。[シ玄]はさんずいに玄という文字。

・訳
夢は断ちきられ、かの人の残り香も消えて40年となろうとする。
沈園の柳も老いてしまってもう綿を飛ばすことも無くなった。
わが身もいずれは会稽山の土となろうとしているのに、
今なお、昔の想い出の地を訪ずれると涙が溢れてくる。

陸游は85才まで生きた当時としてはかなりの長寿だった人ですが、81才のとき、84才のときも沈園
を歌った詩を作っております。
石川忠久氏によれば、「中国の長い詩の歴史の中でも、一人の女性を思い続けて詩を作るということ
は、陸游以外にはいない」そうです。
20才のときに別れた女性、しかも他人の妻となり、そして早くに亡くなった女性のことをこれほど長く
思い続ける陸游の純愛は尋常なものではありません。
恋愛詩は苦手な私ですが、陸游の「沈園」だけはしばしば口ずさみます。
中国の歴史では女性の固有名が残ることは珍しいのですが、唐婉の名は陸游の詩によって不滅の
存在となっております。女性冥利に尽きるでしょうね。