深刻化するイラク情勢  田中明彦(東大教授)

 このひと月のイラク情勢ほど世界情勢のなかで懸念を持たせる事態はなかった。日本人の多くにとっては人質の安否が気づかわれたのはもちろんである。しかし、人質問題と関連しつつこれと同時進行していたイラク情勢は、単にイラクの今後だけではなく、世界全体の動向の分岐点ともなりうる深刻な事態となっていた。この1カ月だけで米軍の死者は、昨年のイラク戦争の軍事作戦における死者に匹敵し、この過程で、さらに多数のイラク民間人の死傷者がでた。ファルージヤにおける停戦が維持できず、しかも(あるいはその結果として)今後のイラク暫定統治の方針が瓦解するようなことがあれば、イラクの占領統治は全面的に見直しを迫られることになるだろう。
 一体、この事態をどのように解釈したらよいだろうか。私は、アメリカ軍の「戦略目的」の混乱が今回の事態を引き起こしたのではないかと思っている。ここで「戦略目的」といったのは、かならずしもイラクにおける個別の戦闘行為における目的ということではない。個別の戦闘において、アメリカ軍が軍事的に合理的な戦術をとっていることは十分ありうるであろう。しかし、そのような局所的に軍事合理的な行動は、全体状況の中でどれほど合理的か。はたしてアメリカ軍の軍事作戦を指導している人たちは、そのような「全体状況」をどれだけ把握しているのか。そめことに深刻な疑問が生まれたのがこの1カ月であった。
 そもそも原点に立ち返ってみれば、世界各国がイラク攻撃に対してばらつきがあっても支持を与えたのは、イラクが保持しているかもしれない大量破壊兵器がテロリストにわたることを阻止しなければならないと感じたからであった。また、大量破壊兵器がイラクに存在しないのではないかと思われるようになってからあとも、有志連合の国々がイラク復興支援に協力しているのは、イラクが破綻国家となって、アルカイダなどの国際テロリストの根拠地となることを阻止しようと思うからであった。つまり、9・11を引き起こした国際テロリストに対する戦いの一環であると考えるから、イラクでの占領統治に協力しているのである。
 したがって、イラクにおける占領統治の方針にしても、治安維持の方針にしても、すべては対テロ戦争という「全体状況」を墓準にして考えられなければならない。治安維持の方針が、アルカイダなどの活動をかえって容易にするのであれば、それは改められなければならない。治安維持と称して民間人の犠牲が増大するような形で武装勢力を鎮圧するというのでは、眼前の武装勢力が一掃されたとしても、テロリストに対して、彼らが自由に泳げる「人民の海」を与えるだけになるかもしれないのである。
 毛沢東鳳にいえば、何が「主要矛盾」であって何が「副次矛盾」なのかという区別であり、誰が本当の「敵」なのかということである。いかなる「戦争」においても「敵を孤立」さセることは当節の戦略であるが、対テロ職争においては、まさに決定的である。テロリストとの戦いで、アルカイダでない反米勢力を、アルカイダの味方に追いやってはならない。ブッシュ大統領は、我々につくのか相手につくのか」ということをいった。対テロ戦争において中立はない、というのは道義的にいって正しいと思う。しかし、戦略的にいえば、アルカイダという敵以外の存在は、みな味方にするのだ、というのが正しい方針ではないのか。
 アメリカに抵抗するものは、みな「敵」だというのでは、アルカイダの思うつぼではないか。アメリカ軍が押収したといわれるアルカイダの指導者ザルカウィの文書は、まさにイラクに内戦状態を現出させることによって、アメリカを孤立させることを指摘していた。ファルージヤでのアメリカの強硬姿勢こそ、まさにこのザルカウィの戦略にはまりかけた行動ではなかったか。
 たしかに人質をとるような作戦に対して「交歩」は望ましくない。しかし、アルカイダのような根源的交歩不可能性をもった国際テロリストと、各地に割拠する武装勢力とを同一視するのは間違っている。ありとあらゆる手段で、アルカイダに連なるテロリスト以外の勢力と「手をうつ」ことが探求されなければならない。イラクを武装解除して、できるだけ理想的な民主統治が実現できるようにすることは重要である。しかし、これは長期目標なのであって、当面の目標は、アルカイダに乗っ取られない体制をイラクに作るということなのである。これこそが「主要矛盾」なのであって、その他の「副次矛盾」を現在解決しようとすることは、本末転倒である。
 最近の動きからみれば、アメリカ政府もここで私の述べた懸念についてはある程度理解しているようではある。しかし、今後の数週間はまさに決定的である。
 日本政府としても、現地に自衛隊を派遣しているという現実は重い。われわれは対テロ戦争のためにイラク復興支援が必要だと思うからわが同胞を危険にさらしているのである。もしアメリカ軍の行動が、この原則から乖離するのであれば、この方針は維持できなくなるかもしれない。このように伝えるべきであろう。