蛍祭り2004年(2004.06.05)

毎年恒例の蛍祭り、今年も行ってきました。
今年は参加者が極端に少なく、いつもなら必ず同乗者がいるのに今回は一人での熊野まで
のドライブでした。
国道170号線を走ったら羽曳野市で交通事故があり、渋滞に巻き込まれました。熊野に行く
以外には仕事でも年に数回しか走らない国道なのに何故か事故によく出遭います。
近くに古墳がたくさんあることも関係しているのでしょうか。(まさかね)

羽曳野市から見る金剛山

河内長野市から国道310号を通って葛城金剛の山越えをし、奈良県五條市へ。
南方に大峯の山々が展望されます。
ここから見ると、弥山からバリゴヤの頭の間の鞍部がかなり低く見えます。

左側の写真が山上ヶ岳からバリゴヤの頭に至る山々で、右側が弥山、八経ヶ岳、明星ヶ岳が
一塊(ひとかたまり)となっている山塊です。

本宮町で缶ビールを買った以外はどこにも寄らずに和歌山県大塔村の紀州松煙工房へまっし
ぐら。寝屋川から約6時間半かかりました。
カツラさんが食材の調理をしており、川崎から来たS.カズオさんが蕎麦を打つ準備をしております。

カズオさんの手打ち蕎麦はなかなかの評判なのですが、今回は風が強く吹く場所で粉をこねた
ため乾燥が早く、出来は良くないとのこと。

宴会の支度も一通り終わったので温泉に行くことにしました。堀池さん、カズオさんは既にアルコ
ールが入っており、カツラさんの車は車内が色々な品物を載せて5人も乗れないので私の車で行
きます。
ベンツはカズオさんの車。あの坊主頭がベンツの窓からニョキッと出てきたら、ちょっと怖いでしょ
うな。

紀州松煙工房からさらに奥地に走ること15分ほどで、温泉「乙女の湯」に着きます。
初めて堀池さんところにお邪魔したときに浸かって以来です。途中の道で一箇所ガードレールも無く、
深い谷を見ながら離合もできないような道を通るところがあり、それにびびって以来、温泉は本宮
で済ませてくるようにしていたのです。
しかし、新しい温泉ですがとても良い湯です。

湯から出てロビーでくつろいでいると壁に山の写真がかかっています。近寄って見ると「乙女の寝顔」
と説明文が付されています。
乙女の寝顔とは大塔山系中の半作嶺(はんされい)という山の異名で、乙女が寝ている姿に似ている
ことからつけられたとか。20年ほど前に新宮山彦ぐるーぷの玉岡さんに連れられてこの近くの法師山
の頂上で野営したときに、夕暮れせまる中、あれが「乙女の寝姿」と呼ばれる半作嶺だ、と教えられた
とき、寝姿には見えませんでしたが、何とも言えぬ素敵な印象を抱いたことをよく覚えております。
なるほど、乙女の湯とはこの山の名前からとったのか、と納得した次第です。
(あ、私が見て欲しいのは山ですよ。手前の歩く乙女の姿ではありませんよ。誰ですか?そちらばかり
見つめているのは)

聞けば、ここから8分ほど走ったところからその姿は見られるとか。
皆さんにお願いしてそこまで行きました。しかし、雲がかかっていないせいか、乙女の顔の美貌
がいささか損なわれているように感じました。
「鼻のあたりの樹木がだいぶ伐採されたことも影響しているみたいですよ」とカツラさんが言いま
す。
「おっぱいの位置がずれ過ぎているようだが」とか「いや、顔の大きさから見ればあの位置でい
いのだ」とか「たらちねなのだよ」とか「乙女のたらちねなんて聞いたこともない」とか男どもは好
き放題なことを言います。

それではと、実在の乙女と一緒の写真を撮って私たちはそこを後にしました。

工房に戻ってみると、何と、小田さんが来ているではありませんか。
3年間に及ぶ禁酒を解禁したそうで、それでやってきたとのこと。
そうか、小田さんと久しぶりに酒が飲めるのか、と私は嬉しくなってしまいました。

最初、外で宴会をやる予定だったのですが、途中から雨が降りだし、仕方なしに室内に移動。
そのころにやってきたO.エツコさんも加わってベランダで煮炊きをいたします。
エツコさんとは昨年の秋の奥駈以来の再会です。

さあ、宴会が始まります。海南市から坂田氏もやってき、わずか7名という少人数ですが、熊野
修験団の精鋭がそろいましたl。

8時半ころ、柴田さんが到着。今回もオートバイでやってきたのです。神奈川県からですよ。本
当にタフな男です。
途中雨宿りしていたので遅くなったとか。

あとはいつものごとく無礼講。
よく飲み、よくはしゃぎました。
後に「1年分の量を笑いました」とエツコさんがメールをくださるくらい。
雨が振っているので肝心の蛍見は中止。

翌朝起きてみると、坂田氏とエツコさんは帰ってしまったあとでした。。
残りの者で茶粥をいただき、家族が誕生会をやってくれるので急ぎ帰らなければならない私は
9時に皆さんとお別れして堀池さんところを後にしました。

雨が降り続くなか、中辺路町の山村を走ります。熊野古道にほぼ沿って走る道です。

本宮町の熊野川沿いの国道168号に出ました。後は本宮町、十津川村、奈良県の大塔村(紀
伊半島には二つの大塔村がある)と、ただひたすら北上します。

大塔村の猿谷ダムを過ぎたところで、山伏の一団が国道を歩いている姿に行き当たりました。
結袈裟の形から当山派(真言系)の修験団ということが判ります。
通り過ぎてから車を止め、合掌しながら近づいていき、「写真を撮らせてもらってもよろしいでしょ
うか」と先頭先達の人に話しかけたところ、「写真を撮られるのはかまいませんが、ここに車を停
められるのは危ないですから、もう少し先の方の広い場所でお待ちいただけませんか」とその若
い行者は丁重な口調で言われます。
もっともなこと、と私は一礼して車を発進させたところ最初のカーブを曲がって少し行ったところの
道路脇に車一台が停められるスペースがあり、そこに車を乗り入れました。
そこは道から出っ張っているため隊列がやってくるのを写すには格好の場所でした。
当然、奥駈修行の始まりか終わりなのだろう、と思い、どこから下山したのか、もしくは入山するの
か知りたかったのですが、歩行中の修験団の隊列を止めてはいけないと思い、ただ「お気をつけ
ていらっしてください」と声をかけながら隊列の過ぎていくのを見守るだけでした。
しかし、礼を尽くすことはやはりそれなりに報われるのですね。
行列が過ぎ去ったあと、しばらくして私も車を発進させたら、次のカーブをまがったところで1台の
ワゴン車が道路脇の空き地に停めており、鉢巻き姿に白装束の若者が車のそばで隊列を見送っ
ていたのです。あれだけ大勢の修験団ですから、サポートの車が付き添っているのに違いない、
と思って私はすぐにその空き地に車を止め、外に出て行ってその若者に尋ねました。
「お差し支え無ければどちらの修験団でいらっしゃるか、また、大峯のいずれの地から降りてこら
れたのかお聞かせ願えませんか」
その青年は大変気持ちの良いしゃべり方をする人でした。
「私どものリーダーから、我々修験団の写真を撮ってくださった方が後から来られて何かお尋ねに
なったらキチッと応対して欲しい、と言われております」
その青年の話をまとめると、この一行は京都醍醐寺三宝院に所属する修験団の青年部だそうで、
昨日高野山入りして奥の院に泊まり、今朝奥の院を発ってここまで歩行し、このすぐ先の坂本の
分岐で天川村を目指して歩行し、その日は天川川合で泊まり、翌日、洞川まで行って当山派修
験道の寺竜泉寺に泊まり、翌々日山上ヶ岳を目指すとのこと。
この行程を聞いて私が驚いたのが高野山というその大峯修行の出発点のことでした。
関西以外の人はこの距離感というものがピンと来られないかも知れませんが、高野山は大峯山
系とは全然別の山系に属し、高野山から大峯山上ヶ岳の距離というのは大変なものがあり、しか
もその大半は舗装された車道なのです。
私は一度奈良から大阪府枚方市まで夜間歩行をしたことがあるので熟知しているのですが、山
道ではなく舗装された車道を歩くつらさは長時間の歩行を経験したことがない者には絶対に判ら
ないほど厳しいものなのです。
真言宗聖地高野山から大峯山上ヶ岳を目指すとは、さすが当山派修験団の青年たちと驚嘆しま
した。
この青年に撮影の許可を願ったら、こんな姿では恥ずかしいですからと鉢巻きを外し、急ぎ車の
中から取り出した頭巾と数珠を身につけられて撮影に応じてくれました。
先の先頭先達といいこのサポートの青年といい、立ち居振る舞いの優れていることに、さすが醍
醐寺三宝院の行者だな、と感銘を受けました。