三木楽器技術部OB会(2004.06.27)
私がかつて所属していた大阪の三木楽器k.kは来年に創立180周年を迎えます。
もとは書籍店だったのですが、1888年に楽器部を設け、それからでももう116年もた
っており、恐らく日本最古の楽器店ではないかと思います。
私はここで正社員として9年、嘱託社員として17年、合計26年間勤務してきたのです。
この楽器店の歴史の古さがそこのピアノ技術部に独特の気風を醸成し、常に良心的
仕事をすることを強く求め続けられるという大変よい環境のなかで私は調律師として
鍛え上げられていったのです。
9年前に会社の嘱託社員に対する対応の変化を受け入れることができずに決裂という
形で私はこの楽器店から去りましたが、調律師としての今の私があるのはこの楽器店
のおかげであり、そこで出会った先輩や同輩、後輩の調律師たちのおかげであると思っ
てます。
ここでかつて若き日に一緒に遊び、苦労を共にしてきた二人の調律師が5月、6月と相
次いで定年を迎える情報を私は昨年のうちからキャッチしました。
Y社とかK社のような巨大な組織の場合は別として、ピアノ調律師が一つの楽器店で最
初から最後まで社員として勤め通すということは非常に希なことでして、私が知る限り三
木楽器では35年間一度も無かったことでした。これはめでたいことでもあるし、三木楽器
で一度は仕事をしたことのある仲間達でお祝いをする名目で集まれたらよいなと思って
私は同窓会を計画したのでした。
連絡先が解って連絡をした先は28名で、そのうち24名の人が参加したい、と色よい返事
をくれました。
特に私が嬉しかったのは私が入社したときに技術部の女子社員で結婚退職するまで7年
間も勤務したKさんの連絡先を探し当てたことでした。結婚後の名前をウエノということ、
何年かして人づてに新居の電話番号を知り手帳のどこかに記していたことを覚えていまし
たので昭和48年から60年までの仕事手帳を隅から隅まで探しまくってついに見つけたの
です。電話したら当のウエノさんが電話口に出てき、しかも彼女はよく覚えていてくれたの
でした。
それから私は少しでも多くの人が参加できる期日を選ぶのに慎重には慎重を期して、6月
27日(日)と日取りを決定したのが5月の初めでした。
場所を近畿よいよい会の新年会にも使われたヒルトン・プラザの「たちばな」と決定すると
ハガキで案内を出し、そしてついに一昨日、人によっては35年ぶりの再会というかつての
仲間達との集まりを無事に行うことができたのでした。参加者は21名でした。
主賓の一人、マツオさん。彼は5月一杯でもって既に退職しております。私より2年早く三木
楽器に入社したかつての先輩であり、麻雀仲間でもありました。若いころは車をぶっ飛ばし、
祇園で遊んだりするという結構遊び人タイプでしたが、歳と共に堅実な雰囲気を漂わせるよ
うになり、後輩の良き指導者として三木楽器のピアノ調律師を最後まで全うされたのは立派
なことだと思いました。隣はウエノさん。
6月一杯で退職するもう一人の主賓、カナザワさんです。(写真右)私の結婚式で彼に司会
をやってもらい、奥様にはオルガニストになっていただきました。マツオさんもカナザワさんも
奥さんが美人なので有名でした。
写真左はタカハシさん。もう30年前に辞めて調律師そのものも辞めていると聞いていたので
すが、カナザワさんがずっと連絡をとりあっていたことからこうして再会することが出来たので
した。
麻雀が滅茶苦茶強い男でした。
坂本さん。この人は私が入社する2年前に退社していたのですが、辞めた楽器店にしょっちゅ
う遊びにくるのでそれで私も知り合ったのです。後に調律師協会の役員となって献身的な活
動を続けてこられ、私も4年前から大阪地区の運営委員を勤めさせてもらってからこの人の素
晴らしさというものをあらためて認識させられた人でした。
後ろは最長老のウメモトさん。
この方も私が入社する前に独立されていました。
しょっちゅう麻雀を誘いに三木楽器にやってこられてたのでしたが、20年前に胃癌の手術をして
から会うたびにひどく痩せていかれる印象でやがてプツッと姿を現さなくなりましたから、結構多
くの人がもう死んでいるものとばかり思っていたようです。
「まだ、生きてたんですか?」
と右側のコタニさんはあっけにとられてました。
「そうや。とっくの昔に死んどると思っとったやろう?」
ウメモトさんは一度私が調律師したコンサートをたまたま聞きにこられたことがあるのですが、私
が調律を担当したことを知ると、「おまえ、あんな汚い音の調律をしてよう客席に顔出すなぁ」と手
厳しい批評を浴びたことがあります。口は悪いですが麻雀なんか一緒にやっていると本当に楽しい
キャラクターの方なのです。
ウメモトさんは今は息子さんが父親に代わって調律師の仕事を引き継ぎ、調律師協会でも活躍さ
れております。
イセリさん(写真左)は三木楽器を辞めたあと、調律学校の教官をされています。偏屈な職人気質
のようなところがあり、納得がいくまで調律をやめないのですから時間のかかることが多く、彼の後
に行くと調律時間の短い(彼に比べてです)私は手抜きをしているのではないか、と客から疑われ、
非常に迷惑をしたものでした。
でも心の純な人です。
左側のヒガシグチさんは当時50代だった技術部長や副部長たちが相次いで病死していった後、
若くして技術部トップとなり、技術部改革のためにたいへんな苦労を重ねてきた人です。一つ年下
だった私とはお互い平のときから大変ウマがあうのか仲が良かったのですが、彼がトップに立って
からは私が嘱託社員のまとめ役を引き受けたり、彼の孤独なトップとしての悩みを聞いたり、多くの
労苦を共にしてきた同志的間柄でした。三木楽器の仲間うちでは一番酒を一緒に飲んだ仲間で
はないでしょうか。風当たりの強い重職と何人かの調律師を自らの決断で解雇しなければならな
いプレッシャーで心身共に疲れはてて彼が退社したとき、人望が厚かっただけにショックを受けた
調律師たちは嘱託社員も含めて大勢いたのでした。16年前のことでした。
彼の送別会の世話役をやったのがカナザワさんであり、その送別の辞の途中でカナザワさんが絶
句して目をハンカチで拭いたときのことがついこの前のように思い出します。ヒガシグチさんが退社し
た後、彼がトップの地位を引き継いだのでした。
右側のスギハラさんは私の人生における大きな分岐点のときに天が与えてくれた助っ人でした。
彼の励まし、彼の明晰な頭脳と冷静な分析力に果敢な行動力、沈着な胆力などのおかげで私は三
木楽器から独立する勇気をつけてもらい、完璧と言ってもいいくらいの独立(組織とトラブルに起こさ
ずにスムーズに独立できた)を遂行することができたのでした。私より3歳下ですが、先輩のように
尊敬し、相談相手にもなってもらっている人です。
こちら側を振り向いているのはフジタさん。
私の家内がキリストちゃん、とあだ名したくらい、昔はがりがりに痩せた男前までしたが、近年実家の
質屋家業を継いだら楽ばっかりしてしまってこんなに顔が丸くなったとのこと。
私が結婚して車を買った直後、急に思い立って彼と二人で東京に行ったことがありました。そのときに
山城君の下宿先に泊まり、翌朝、しぶる山城君を乗せて関西に戻ってきたのでした。
右側のミハマさんは3年前に大きな自動車事故に遭って一時は再起も危ぶまれたのですが、長い闘
病生活の後かように元気になって調律も続けています。このミハマさんとヒガシグチさんとヨコタさん
(写真左側)の3人で20代半ばのころに行った九州一週ドライブの旅は毎日昼は観光、夜は麻雀とい
う楽しい旅でした。
左側のウエノさんは私と同じ年でして私の結婚式のときに受付をやってくれました。技術部というと誰も
が彼女のことを思い浮かべるくらい、勝ち気で有能な事務員でしたが、年月がそうさせるのでしょうね、
とてもしっとりとした優しい熟女になったという印象でした。この同窓会の知らせをもらってから指折り数
えてこの日を待ったそうです。
右側のダイキュウさんはウエノさんの2代後の事務員です。この頃には私はもう嘱託社員になっており、
嘱託社員だけの旅行のときにたった一人の女性調律師のために彼女に頼んで一緒に来てもらったこ
とがあったのでした。大人しいですが芯の強いものを持っている女性です。この二人の女性は娘時代
の雰囲気そのままの風貌なので嬉しかったですね。
かつての嘱託社員仲間です。左手前のヨシザキさんと右手前のナカムラさんは現在も三木楽器専属で
す。
左奥のタバタさんは18年前に私が大峯奥駈道を全縦走するときに途中から一緒に歩いてくれた山仲間
でもあります。深仙のお堂で待っている私のために風雨をついて前鬼から上がってきてくれた時の嬉し
かったことは忘れることができないものがありました。
右側奥のウエムラさんは私より一回り下の世代ですが、誠実な人柄であり、彼が三木楽器を辞めるとき
にとった態度は当時のトップだったヒガシグチさんを感動させたものでした。今は刃物の会社に勤務して
いてもう16年にもなるそうです。私が嵯峨野の会と言う飲み会を作ったとき、彼は常に参加してくれたも
のでしたが、その場所の居酒屋「嵯峨野」の閉店とともに嵯峨野の会も途絶え、しばらく会えなかったの
でした。
全然風貌が変わっていないとみんなの意見が一致したのがカナザワさんとこのオウギダニさん(写真左)
にヨコタさん(右)でした。
とても63歳には見えません。必ずしも三木楽器に良い思いは持っておられないはずなのですが、気持ち
よく誘いに応じてやってきてくださり、有り難かったです。
ヨコタさんについてはこのホームページにも画像をたびたび載せておりますね。同じ年に三木楽器に入社
し、彼は10年ほどで独立していきました。グレン・グールドの演奏やジャズを私に紹介してくれたのは彼で
した。
入社したてのころ、仕事から戻ってくると楽器店のエレクトーンを使ってバッハのフーガなどを二人で分担
して弾いたものでした。麻雀が鬼のように強かったです。多分ゴルフも相当の腕前なのではないかと思い
ます。
左側はイノウエさん。エレクトーン技術者でした。私が社員だったころの技術部にはピアノ調律師が社員
嘱託を含めて20数名いましたが、エレクトーン技術者は彼ともう一人だけでした。
ヨコタさんと仲が良かったことから、私の家にも遊びに来てくれ、一度彼とヨコタさん、そして私の家内の4
人で九州ドライブ旅行に行ったことがあります。
三木楽器を辞めてからは今はエレクトーン技術とは全然関係無い営業畑の仕事をしているとか。
この日も仕事だったのですが、8時ころに駆けつけてくれました。彼も全然変わっておりません。とても55
歳には見えないでしょう?
右端のコタニさんは彼が昭和44年に三木楽器を辞めたために欠員が一人生じ、そのおかげで私は三木
楽器に就職することができたのでした。彼もサカモトさんやウメモトさんらと一緒で麻雀仲間として若い頃
はお付き合いさせてもらっていたのでした。
場は随分と盛り上がり、宴会は午後10時まで続きましたが、私は途中から寝てしまい、起きたときには
何人かが既に帰っており、肝心な集合写真を撮るチャンスを失してしまいました。
ウエノさんが在社のころは皆20代の独身ぞろいばかりで、よく一緒に麻雀をし、飲みに行き、旅行に行き
と何でも技術部単位でやっておりまして技術部の結束の高さは当時300人ほどいた三木楽器従業員の
中でも有名でした。
こうして左端の写真などを見ると、楽しい共通の思い出を持つからこそこのような笑顔が出てくるのかな、
と言う気持ちになります。
残ったメンバーだけでの記念撮影です。
再会を約束してそれぞれ別れていきました
翌日にウエノさんに電話で聞いたのですが、彼女自身、本当に楽しかったそうであり、みんなもとても喜ん
でくれ、モリワキのおかげだ、と私に感謝していたとのこと。やはり嬉しいですね。