見直しを迫られる「司馬史観」
『坂の上の雲』テレビドラマ化に異議あり
読み物が正史扱いされる疑問 (毎日新聞2004/10/15)
福井雄三:大阪青山短期大学助教授・国際政治学、日本近現代史
司馬遼太郎の代表作『坂の上の雲』が2006年にNHKでテレビドラマ化されることに
なったと聞く。NHK挙げての大プロジェクトで、特別企画の番組になるらしいが、私はこ
こで「ちょっと待ってほしい」と一言申し上げたい。
司馬遼太郎氏が大作家であり、数多くの面白い小説を書き残した業績については、
私はあえて否定しない。だが、この『坂の上の雲』は、ある特定の人物を主人公にした
物語ではなく、明治という時代に生きた人物群像のいわば列伝であり、政治・外交・戦
争といったテーマに触れながら、日本という国家のあり方そのものを論じた国家論であ
る。これがNHKでテレビドラマ化されることによって、あたかも日本近現代史の正史で
あるかのように人々の心に定着してしまえば、どういうことになるのか。この作品の随所
に見られる、あまりにもおびただしい誤りや史実との食い違いが、後世の社会に及ぼす
深刻な影響は、無視できぬものとなるであろう。
『坂の上の雲』は歴史に題材をとった娯楽であり、読み物であって、史実としては不正
確なところがある−−といった批判は、福田恆存氏や桑原嶽氏らの諸氏によって、以
前からなされてきた。福田氏は戦後日本を代表する保守系知識人であり、桑原氏は旧
日本陸軍出身の軍事評論家である。
今年から来年にかけては日露戦争100周年に当たり、それとともに「司馬史観」見直
しの動きも新たな展開を見せている。従来からあった左派系の「戦後歴史学」による批
判に加え、最近は右派からも、日露戦争を近代史の明暗の「分かれ目」とする見方へ
の異議が出ている。司馬氏の持論の「明治は栄光の時代であったのに対し、昭和は破
滅の時代であった」などという単純な対比論は、今や再検討を迫られていると言ってよ
い。
司馬氏の膨大な作品群の中で、この『坂の上の雲』だけが他の作品と区別され、あた
かも日本の近現代史の正史であるかのような特別な扱いを受け、「司馬史観」などとい
う言葉が一人歩きしている現状に対しては、首をかしげざるを得ない。
アメリカでは現在、ウイリアム・E・ナフ教授による『坂の上の雲』の英訳が完成間近で
あり、司馬史観を透徹した歴史検証・平衡感覚・説得力に富んだ、日本を代表する最
高級の歴史観として、英語圏の国々に紹介する予定だという。ここまでくれば、もはやこ
の『坂の上の雲』を単なる娯楽小説や読み物として済ませてしまうことはできず、テレビ
ドラマ化される前に、その真偽を徹底的に検証する必要が出てくると思われるのである。
今月下旬出版予定の拙著『「坂の上の雲」に隠された歴史の真実』(主婦の友社)で
は、ノモハン事件などの諸事例も踏まえながら、この問題をさらに掘り下げて追求し、乃
木大将無能説の誤りとか、旅順攻防戦の誤解などを指摘しつつ、従来の歴史認識に一
石を投じたつもりである。
来年は日露戦争終結100年、第二次大戦終結60年に当たる一つの大きな節目であ
る。「司馬史観」の見直しも含めて、今まさに日本の近現代史を総括するターニング・ポ
イントに来ているのではないだろうか。