ある投稿をながします 投稿者:R-June  投稿日: 1月15日(土)10時42分3秒

みなさま、ご無沙汰しております。
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
私事ですが、昨年の私生活は大きく揺れ動いた日々を過ごしました。
自分のことだけでなく、今昔の近しい人にも激しい波が絶え間なく襲い
そのひとつひとつに、私の理性も感情も激しく揺さぶられました。

昨年の波のひとつが、今回のスマトラ大地震でした。身内が遭いました。

知人からMLで流れているある投稿が送られてきました。
私でしか感じ得ない恐怖や覚悟を「わかるよ、たいへんだったね」と
安易に同調するのではなく、このような投稿を読んだと私に言うことで
知人なりに深く想っているよという表現の仕方に、とても救われました。

9.11のテロ時同様、私は安易に大衆の悲哀を煽り同情を得たいわけでは決してありません。
辛い、哀しい、可哀想に・・・・ではない想いを皆さんのなかにみつけてほしいです。

以下、その投稿を転送します。日本のある大学で教鞭をふるう方が、知り合いの記したも
のを翻訳してMLに流されました。
長文ですので本当にお時間ある方だけご覧ください。

そのひとつの激動・「カオラックのひとたち」
 インドネシア一帯を襲った津波からほぼ2週間あまりが過ぎました。わたくしどもも知って
いるハーグのアメリカンスクールの先生がクリスマス休暇に夫婦でタイのカオラックに旅行
に行き、そこで津波にあった。かろうじて戻ってきた彼女が同僚・友人に宛てたメールが我
が家にも届きました。アルレット・ステイプという中学生のクラスの担任で、ほかにもESL
(English for Second Language )を受け持っている先生です。ご主人のトムはバンジョーを
弾く。「日本にも行ったことがあるよ」と話す気のいい夫婦であります。以下はその彼女か
らのメールです。許可をもらって訳してみました。

 わたしたちはプーケットの北にあるカオラック(一番被害の大きかったリゾートである)に
バンガローを借りていた。バンガローは丘の中腹にあり、ホテルはその上にあった。

 あの朝早くに音響とともに建物が揺れ、起こされたわたしたちはタイではこんな早くから
工事の仕事を始めるのかと文句を言ったものの、時差のせいでまた眠りに引き込まれた。

 ようやく10時ごろ起きて上のホテルまで朝食に行くと、テラスから一望の海がずっと沖ま
で水が引いていた。ひとびとはそれぞれに沖のほうまででて貝殻を拾ったりジョギングをし
たり、浅瀬を楽しんでいた。

 けれども夫は数年カリフォルニアのビーチに住んでいたことがあり、この景色はすこしお
かしいよと言う。どんなに引き潮でもこんなに水が引くことはないというのだ。

 とみるまに沖合いから津波の第一弾が向かってくるのが水平線にみえた。

 夫はわたしの腕をつかみ、走り出した。ホテルの食堂は丘の上にあったが、わたしたち
はホテルを出てさらに上のほうまで走った。こんなに走ったことはない。わたしは息も絶え
絶えになって後ろを振り向くことすらできなかったが、高い波はビーチを越え、ホテルをそ
のまま襲い尽くしてわたしたちの足元までやってきた。津波の音は、離陸する飛行機の真
下にいるかのような凄まじい轟音だった。

 丘の上でわたしたちはイングリッド、マルレーン、ニーナという3人のドイツ人とリサという
8歳のオーストリアの少女と一緒になった。

 高波が引いたあと、わたしたちはホテルまで戻ってみた。ロビーやフロント、ラウンジ、レ
ストランはえぐられたようにゆがみ、波に巻き込まれた家具やソファーに叩きつけられたの
だろう、ぐったりと倒れている人々は血まみれだった。その多くはすでに死んでしまってい
るかのようだった。なかにリサの父親がいて、彼は紙のように白い顔をしていた。わたした
ちは彼を丘の上まで運んだ。リサの母親は見つからなかった。
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 わたしたちは前夜、ホテルのディスコでスウェーデンのユルゲンという大きな体躯の青年
に会った。彼はダンスがうまかったがほとんど英語ができなかったので、わたしたちとビー
ルを飲みながらジェスチャーで会話をした。その彼がいまホテルにいた。体中傷だらけで
血を流し、片方の腕は内臓がはみだしたかのようにぐちゃぐちゃになっていた。わたしたち
は水をかけて砂を流し、体を洗ってあげた。彼はささやくような英語で「救急車を... 」と繰り
返したが、そんな車はなかった。しばらく待った後、トラックが来て、わたしたちは彼を乗せ
、トラックは彼を連れていった。

 彼を病院へ送った後、わたしはぐったりとした。道路は倒木でふさがれてしまっているか
もしれない。波に洗われているかもしれない。けが人は待合室でどれくらい待たされるのだ
ろう。道はそうとうにでこぼこだし、病院はあまりに水際にありすぎる。わたしたちは、彼ら
を死に追いやってしまったようなものではないか...

 若いドイツの女の子が、ボーイフレンドが見つからないとパニックになっていた。わたしは
彼女の重そうなバックパックを背中からおろしてあげようとしたが、彼女はわたしを振り切
って「これがわたしの持っているぜんぶなのよ」と叫び続けた。わたしたちはすっかり疲れ
きっていた。

 だれかがもう一度津波が来るぞと叫んだ。わたしは近くにあったペットボトルのケースか
ら水を一本抜いて持っていこうとしたら、そばにいたタイ人のおばさんに怒鳴られた。だま
って取ったことを怒られたのだと思ったらそうではなく、彼女はもっと持っていきなさい、持
てるだけ持っていきなさいと言ったのだった。

 わたしたちは再び丘の上に避難した。リサのお父さんは肺に水がたっぷりたまっていて
二歩も歩くと倒れてしまった。わたしたちは嫌がる彼を無理やり病院へ送ることにした。

 わたしたちはチョーというタイの男性に会った。彼は海の彼方を見つめて、息子が漁に出
ているのだと言った。彼の目は涙で赤くなっていたが、わたしたちにパパイヤを切ってくれ
、「無事にお帰りください」と言ってくれた。
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 夜になって、わたしたちはホテルに戻ってみた。明かりも電気もなく、ラジオも携帯もない
。誰もいない(つまり死体もない)部屋があったので、わたしたちはそこで休むことにした。
あらゆるものが散乱している階下やビーチまで下りていく勇気はなかった。

 外のスナックスタンドにはイドというタイの若い女性がいて、そのあたりをうろうろしていた
わたし達50人あまりの旅行者たちにタイカレーの夕食をつくってくれた。彼女は叔父が行
方不明になっていたが、肉親を探すよりも先にわたしたちに夕食の用意をしてくれたのだ。
わたしたちはこのような信じられない親切をあちこちで受けた。

 「今朝、プーケット島にいる叔父から津波が来るぞと携帯に連絡を受けたの。それですぐ
にホテルに電話をしてそのことを知らせたけれど、誰も信じてくれなかった。ビーチまで走
っていってみんなに伝えたのに、彼らも聞いてくれなかった」イドはそう話していた。

 みんなでこの津波の経験を話し合ったが、ある男性ははぐれた友だちを探して死人の山
をまたいで歩き、ショックで気が狂いそうになったと言っていた。別の男性は倒れている女
性の鼓動が聞こえたようなので、駆け寄って人口呼吸をほどこした。彼女の歯ぐきはぼろ
ぼろで、欠けた歯が口中に散らばっていた。ふっと、彼女が死んでいるのに気がついた。
鼓動に聞こえたのは、彼自身の心臓だったのだ。わたしはそれ以上聞きたくなかった。

 わたしの印象に残っているのは、スウェーデンの親子の話だ。アンダースという男性は津
波が来た時、娘のソフィと巻き込まれ、いちどは離れ離れになったが、最後には娘を見つ
けることができた。ソフィは怪我をしていたが、それよりも死体に囲まれて海に浮かんだ恐
怖で深く傷ついていた。

 オーストラリアのハリーの話も衝撃だった。津波が来た時、彼は流れてきた車に叩きつ
けられて膝を折った。やしの木が妻にぶち当たり、彼女は木とともに流されていった。波が
去った後、自動車は砂地に沈んで埋まり、ハリーはその窓枠につかまってしばらく様子を
見ることにした。だれかが次の波が来るぞと怒鳴った。彼はぼんやりして時間をつぶしたこ
とを悔やんだ。そんなことならば妻を捜しに行くべきだったのだ。それを思い出すたびに、
涙が出る。これからオーストラリア大使館へ行って捜索願をだそうと思うが、そんなことをし
ても役に立つのかわからない、と彼は言っていた。

 別の男性はバンガローで朝風呂に入っていた。津波が来て、彼はバスタブごと窓からは
じき飛ばされた。妻も別の窓から流されていった。彼は妻が死んだとは信じられないといっ
ていた、「オレは彼女の死体を見ていないのだからね」あとで聞いたところでは、妻は高い
木に引っかかっていたのだという。

 ほかにもいろいろな話を聞いた。波にもまれる中、テレビや冷蔵庫が飛んできて吹っ飛
ばされた、いやおれは飛んでくる自動車にはねられた、とかいう話だ。そんな話を前にして
、わたしたちにはなにも話すことがなかった。わたしたちは幸運な夫婦なのだろう。
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 翌日になって道路は通れるようになり、わたしたちは我が家へ戻ることになった。オラン
ダの我が家だ。ハーグの家だ。

 タイの男性がトラックを運転して、2時間かけてわたしたちをバスの停留所まで運んでくれ
た。彼はわたしたちが渡そうとしたお金を一銭も受け取ろうとしなかった。彼のとなりにはタ
イの女性がすわり、ナビゲートしてくれた。バス停でわたしたちが降りた後、彼女はまたそ
のトラックでおなじ村へ戻るのだと言った。妹を探しに戻るのだ。これもわたしたちが受け
たホスピタリティだった。彼らも自分の肉親より先に、わたしたちの心配をしてくれたのだ。

 バス停では8時間待った。わたしたち夫婦だけが小さなスーツケースを持っていて、ほか
のみんなは持ち物どころかほとんど海水パンツだけの裸だった。わたしたちは自分がバカ
に見えた。

 バス停の向かい側に住む家族がお風呂を使わせてくれた。わたしはリサに片言の英語
を教えながら一緒にお風呂を使った。わたしたちは交代でこっけいなことをして彼女を笑わ
せた。そうすることで、わたしたちは「ひょっとしてわたしは孤児になってしまったの?」とい
う思いからリサの気をそらせるようにした。

 わたしたちは朝6時に飛行場に着いた。あるひとの話では大使館で旅券を発行してもら
おうとして半日待ったということだったが、わたしたちの経験は正反対だった。タイ航空の
ひとがわたしたちを空港の特別室へ案内してくれ、航空券、旅券をすべて整えてくれた。ど
こへでも電話をかけさせてくれ、わたしたちは温かい朝食を食べて新聞を読んだ。

 イングリッド、マルレーン、ニーナ、そしてリサ。わたしたちは津波の後、結局60時間近く
一緒にいたことになる。新しい家族のようなものだった。飛行場に着いて彼らに「さよなら」
を言っているとき、リサのお母さんが生存していることがわかった。マルレーンとニーナが
リサのおばあさんに電話をかけたら、そちらにもお母さんから連絡がいっていたというのだ
った。わたしたちは飛行場全部に響くくらい、思いっきり喜びの大声をあげた。

 バンコックには、ハーグでわたしのアメリカンスクールの教え子だったペギーがタイ人の
夫と住んでいた。わたしたちは彼女の自宅に寄り、休ませてもらった。BBCを見ながらわ
たしはBBCにメールを書き、タイの人々のホスピタリティについて感謝の言葉を書いた。
書かないではいられなかったのだ。

 ハーグの自宅に戻ったら、BBCからインタビューをしたいというリクエストがきていた。オ
ランダの新聞もやってきた(わたしの夫はオランダ人である)。わたしたちは、どんなにタイ
のひとたちが献身的に応対してくれたかについて繰り返し繰り返し話した。

 隣に住む二コルが、放送を見てやってきた。彼女は500ユーロを持っていた。これをNG
Oに寄付するつもりだったが、あなたたちに渡そうと思ってもってきたのだという。わたした
ちはそれを受け取り、ほかの寄付とあわせて、イドのスナックスタンドへ送ることにした。

 わたしたちがこの津波で出会ったタイのひとたちは、みんなすばらしいひとたちだった。
自分たちが肉親や親戚を失っている悲しみの最中に、彼らは危険に立ち向かい、わたし
たちを救いに来てくれた。どのタイのひとたちもそうだった。例外はなかった。ひとりとして
わたしたちを見捨てなかった。そのことをわたしはヨーロッパにひとたちに伝えておきたい。

 わたしたちは、いまもう一度タイへ行こうと思っている。そしてみなさんにも行って欲しいと
思う。わたしたちがまた旅行することで、タイのひとたちに仕事ができ、生活が立ち直り、そ
のことだけでも復興の一助となると思うからである。
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 最後にひとこと ...

 わたしたちは出会った人々に連絡を取り、消息を交換した。スェーデンのアンダースは娘
と一緒に、妻と会うことができた。プーケットで病院に入ったら、同じ病院に妻が5分前に入
院していたのだという。

 リサは今はすでにお父さんと一緒になっていて、彼もうまく回復しているそうだ。お母さん
は、じつは一足先にオーストリアの病院に送られていて、もうじき退院できるらしい。もうじ
きリサの家族は一緒になれるのだ。

 わたしたちの話が報道されてから、寄付のお金が届くようになった。みんなイドに送って
下さいというものだった。見知らぬひとたちから500ユーロ単位で届くようになった。ある家
族は、300ユーロ送ろうとしたら息子たちが500でなければダメだというので、家族会議
の結果、500ユーロにしましたと言っていた。わたしたちはみなさんの好意をバンコックに
いるペギー夫婦に託し、イドへ届くように頼んでいる。

 マルレーンとニーナとも電話で話した。彼女たちは今週末、ドイツから自動車を運転して
ハーグまで会いに来てくれると言っていた。

 マルレーンは、「わたしは怪我したひとに親身になれなかった自分が許せていない」と話
してくれた。わたしも同じ思いを持っていた。怪我人をトラックに送り込むだけでなく、なぜ
一緒に乗って彼らと一緒に病院まで行ってあげなかったのだろう... この思いは辛く、いまで
も胸を刺している。新年になって、まだあそこに浮かんでいる体があるというのに、シャン
ペンをすすり、花火をあげるなんて、ほんとに勝手だ。もし、もう一度、こんな緊急事態の
経験をすることがあったら、わたしはけっして後で後悔しないような行動をとろうと思う。

 わたしたちは、この津波からまったくの無傷で帰ってきた夫婦である。大勢のひとたちに
会ったが、わたしたちくらい幸運だったカップルはいない。わたしたちは生きていられて幸
せである。同時に、わたしたちほど運が良くなかったひとたちのために涙を流したいとも思
っているのだ。
(終)

このレポートを紹介した後にR-Juneさんが談話室で語ったこと
私は両親から姉の事態の一報がありました。
その場で、私は「冷静でのんびりきちんと事態を把握できる人」でいようと自分の役割を決
めました。早口になって尋常ではなくなっている母親の様子に「だいじょうぶだって。私から
いろいろ確認してみるから、ちょっとまってて」と一生懸命のんびり装って応えました。
万が一、姉が非常事態に陥っていても私は感情を殺してそれを受け入れ、どんな状態であ
っても私は姉を日本に戻そうと覚悟しました。
感情を殺してロボットのように冷たい心をもつことにしてでも、「ああ、心配だ心配だ」とただ
泣きわめいて何もしないよりは、自分の感情をだましてでも理性が100%働く状態に自分を
保って、100%の力で姉を日本に戻そうと思いました。それが家族の中での私の役割だと決
めました。実際に動くには語学力で私のほうが安易に動けますし、娘として両親の不安をふ
くれあがらせたくなかったからです(これはきっと姉も同じ気持ちだろうと思いまして)。

で、そのままロボットのままこの波をやり過ごしてきた私は、この「ある投稿」を読んで初めて
「姉を失っていたかもしれない」という恐怖に身をまかせることができました。姉が現地で見て
しまった惨状や人間のエゴは、私には知り得ません。想像しても想像しきれるものではなく、
いまだにそれはしていません。
また私の大切な人がどれだけ哀しい思いをしたかを想像するのが、私には耐え難く怖くもあ
るのがその理由です。
でもこの「ある投稿」のおかげで、心に閉じこめていた不安や恐怖を健全に解放できた気が
しました。
ただ怖い、哀しい、ひどい、可哀想だ・・・という悲哀や恐怖や怒りだけの感情ではない結末
で「私の受け止め方」をつくることができたかなぁと。