少年少女向け小説ドーラの五つ星

皆さん、この小説の名前をご存じですか?
アルプスの少女ハイジで有名なヨハンナ・スピリの子供向け作品です。
原題は「ティトスおじさんの夏の転地」
私が小学校3年生のときから高校時代に至るまでくり返し読んだ愛読書でした。
なぜ、唐突にこの本のことを思い出したかというと、駄才さんが談話室における私の「
しんどい調律でしたが・・」の書き込みの中で音の振動数の単位としてヘルツの名前を
使ったことから、その単位名の由来であるドイツ・カールスルーエ大学のヘルツ教授
のことを教えてくれたことからでした。

そしてこのカールスルーエというドイツの町の名は私にとって懐かしい響きを持ってい
たのです。
「ドーラの五つ星」の物語は主人公の幼い少女、ドーラが退役軍人の父親と二人して
カールスルーエの街中を散歩するシーンから始まります。
父親は普仏戦争で負傷して片足が不自由であり、ドーラはいつも父親の腕を支えなが
ら散歩するのです。
そのようにいたわり合いながら散歩する父娘の挿絵があり、それが私の子供心にとて
も素敵な詩的な印象を残し、そのイメージがそのままカールスルーエの町の印象とな
っているのです。

久しぶりにカールスルーエという名を目にしたとき、私は様々な懐かしい想いにとらわ
れ、随分昔に行方不明になってしまったこの「ドーラの五つ星」の本をもう一度読みた
い、という衝動に駆られました。

この本についてはインターネットを利用するようになった当初にネット検索をして絶版
になっていることは知ってましたが、最近、Amazon.co.jpを利用するようになってからは
まだ一度も探したことが無いのに気付き、試してみたのです。
そしたら「アルプスの白ゆり」というタイトルに変わって1973年に偕成社から出版されて
いたことを知りました。

そしてその古書がアマゾンに展示されているのです。私がすぐさま注文したのは言うま
でもありません。
3日後には本が届き、私は今朝、一気に読んだのでした。
それは小学校3年生から5年生向けの翻訳内容でしたが、私がかつて愛読した「ドー
ラの五つ星」(福音館)に比べて若干、登場人物の会話体が違うところがありましたが
、大筋で私が覚えていたストーリーの省略はなく、私が既に忘れていたようなエピソー
ドもたくさん載っており、初めて読んだときから半世紀もの歳月の隔たりがありながら、
心に染み入るような感慨深いものを感じながら読んだものでした。

この「ドーラの五つ星」の本を私に紹介してくれたのは私が通った福岡市の舞鶴幼稚
園の当時園長であった福永津義子さまでした。
福永津義子さまはお父様が新島襄の高弟であった方で、生まれ育ったときからクリス
チャンだった福永先生は教育者としても多くの人の尊敬を受けてきた方でして、舞鶴
幼稚園に子供を行かせた多くの母親がこの福永先生の影響で洗礼を受け、クリスチ
ャンとなりましたが、その中に私の母もいたのです。
幼稚園を卒園した後も母に連れられて鳥飼教会(今の鳥飼教会ではなく、当時は舞鶴
幼稚園と同じ敷地内にあった西南学院大学児童教育科(幼稚園の先生を養成する科)
内に借家していた伝道所)によく行ったものでしたが、ある夜、祈祷会があって大人たち
が礼拝堂で会合しているときに私は誰もいない職員室で一人母を待っていたことがあっ
たのでした。当時小学校3年生だった私は退屈さに嫌気がさしてきて、やがて「あっ、い
っ、うっ、えっ、おっ」と意味もない声を出し始めたのです。
(懐かしい!今でもそのときのことを鮮明に思い出します)
そしたら、福永先生がやって来られたのでした。こう記していて今、私はふと思いまし
た。非常に世間体を気にする私の母は同じ礼拝堂にいて私の挙げる奇声にすぐ我が
子だと分かったと思うのに、なぜ、自ら注意しにやってこなかったのか、と今とても不
思議な思いにとらわれます。
もしかしたら福永先生に制されて動かなかったのかも知れません。

職員室で私を見つけた福永先生は満面の笑みを浮かべて、私に語りかけたのです。
「ひさおちゃん、退屈なの?それでは私が、あなたにとても面白い本を貸してあげます
から、それを読みながらお母様を待ってね」
そのときに私に渡してくれたのが「ドーラの五つ星」でした。
私は最初、本を読むと言うよりはその本に載っている様々な挿絵に大変心を奪われ、
やがて文章も読み出したのだろうと思います。
やがて祈祷会も終わり、私の母も含む大人達と共に再び現れた福永先生は「どうでし
たか?」と私に読後感を尋ねます。
「全部読んでないけれど面白いです」と私が答えると、福永先生はニコニコしながら、「
それではこの本をあなたにプレゼントしましょう」と言って本を下さったのです。
それが「ドーラの五つ星」と私の半世紀以上にわたる付き合いとなったのでした。

私が幼いころからして「おばあちゃん先生」とみんなに言われていた福永先生は当時
おいくつだったのでしょうね。
息子の福永陽一郎氏は指揮者として有名な音楽家ですが、この手記を書くにあたって
同氏のことをネット検索したら1926年生で1990年没と既に鬼籍に入っておられました。
http://www.asahi-net.or.jp/~VD6K-MSK/yomemory.htm

おばあちゃん先生は多分、20世紀初頭か19世末にこの世に生をうけられた方では
ないか、と思います。
三王システムHPに集う、Capt. Senoh 、某眼科医、ハナパパ、コッツウオルズ、さがら
ちあき、じょうじきやすふみの各氏が舞鶴幼稚園におけるこの福永津義子先生の教え
子です。
1966年、私たちが19才の年に開いた幼稚園同期生同窓会の写真
後列、真ん中よりやや左の老婦人が福永先生。その右隣がCapt. Senoh 、一人置いて
ハナパパ、コッツウオルズ。福永先生の左隣がリワキーノ。バックは旧舞鶴幼稚園舎


「アルプスの白ゆり」の最初のページをここに紹介させてもらいます。
この本は私が注文してから在庫が無くなったようです。
この小説の雰囲気を少しでも皆さんに推し量っていただけたら幸甚です。

 青々としげるボダイジュのなみ木が、どこまでもつづいている白い道。
 ここは、ドイツの国にある、カルルスルーエという町の、町はずれです。
 その町はずれにある白い道は、町のひとたちが、清らかな空気をすったり、心のつ
かれをやすめたりする、たのしいさんぽ道でした。
 お天気さえよければ、いつきても、いく人かのひとたちが、このボダイジジュなみ木道
を、しずかにさんぼしているすがたが、見うけられます。


 そのひとたちのなかに、まい日、おなじ時刻に、かならず、やってくるひとがいました。
 10才ぐらいの、かわいらしい少女をつれた、せいの高いひとが、そのひとでした。
 せいの高いおとなと、子どものふたりづれは、まい日、午後になると、このさんぼ道
を、ゆっくり、いったりきたりしはじめます。そして、夕がたちかくなると、しずかに、かえ
っていくのでした。
 男のひとは、どこか、からだがわるいのでしょう。かた手につえをつき、いつでも、少
女に、よりかかるようにして、あるいています。
「ねえ、おもいだろう?」  
 男のひとは、ときどき、足をとめては、少女のかたにのっている、大きな手を、はずし
ます。
 すると、少女は、そのたびに、男のひとの手を、また、じぶんのかたにもってきて、は
げしく、首をふるのです。
「ううん、ちっともよ。パパ。」
 こうしてふたりは、しばらく、いったりきたりしたあと、ボダイジュの根もとにおいてある
ベンチに、こしをおろします。
 あるきつかれたひとが、こしをおろしてやすむために、ボダイジュのなみ木道には、
こうしたベンチが、いくつもおいてあるのでした。
 この少女の名はドーラ。いっしょにいるのは、ドーラのおとうさんで、ファルク少佐、ド
イツの軍人です。
 ドーラには、おかあさんがありません。ドーラが、もっと小さいときに、びょうきで、なく
なってしまったのです。
 けれど、ドーラは、ちっとも、さびしくはありません。やさしいおとうさんが、それはそれ
は、かわいがってくださったからです。
 そのころ、ドーラたちは、ハンブルグという大きな町にすんでいました。
 ところが、1年ほどまえに、ドイツと、フランスが、戦争をはじめたのです。ドイツの軍
人であるおとうさんは、そのために、ながいあいだ、うちをあけなければなりませんでし
た。
 そのあいだ、ドーラはばあやとふたりきりで、おとうさんのかえりを、いまかいまかと、
まっていたのです。
 戦争がおわると、おとうさんは、かえってきました。けれども、そのおとうさんは、もう
、まえのように、げんきで、じょうぶなおとうさんではありませんでした。
 胸に、てっぽうのたまをうけ、それがもとで、びょうきになってしまったのです。
「ざんねんですが、もう、なおるみこみはありませんね」
 おとうさんをしんさつしたお医者たちは、だれもかれも、そういいました。
(もう、なおらないって・・・・。ああ、もし、わたしに、もしものことがあったら、ひとりぽっ
ちのドーラは、いったいどうなるだろうか・・・・。)
 おとうさんは、いつも、このことをかんがえると、いても、たっても、いられないきもち
になるのでした。
(そうだ!カルルスルーエにいこう。あそこには、わたしのねえさんがいる。ドーラにと
っては、たったひとりのおばさんだ。すこし、やかましやだけれど、きだてのやさしいひ
とだから、わたしに、まんいちのことがあったときには、なんとか、ドーラのめんどうを
みてくれることだろう。)
 こう思いついたおとうさんは、いままでいたハンブルグの家をひきはらい、ばあやに
は、ひまをだしたのです。
 カルルスルーエ町の、ドーラのあたらしいすまいは、おばさんの家の、すぐそばにあ
りました。ごみごみとした、きたない町でした。
 そこで、ドーラとおとうさんは、きれいな空気をすい、あたたかい日光にあたるために
、まい日、さんぽにでかけるのでした。おとうさんのびょうきには、きたない空気が、い
ちばん、よくないのです。
 ドーラとおとうさんは、あるきつかれると、手をとりあって、ちかくにあるベンチに、こし
をおろします。ここできかせてくれるおとうさんのお話、それは、ドーラにとって、どんな
物語よりも、たのしく、すばらしいものでした。
 おとうさんは、じぶんのみてきたことや、けいけんしたことを、りっぱなお話にしたてて
、おもしろく、話してくれるのです。
 おとうさんのお話のなかで、なんといっても、いちばんたのしいのは、なくなったおか
あさんのことでした。
 きょうも、ドーラは、おとうさんに、おかあさんのお話をねだったのです。
「おかあさんは、リリという名まえでね、太陽のようなひとだったよ。いつも、あかるい光
で、みんなをつつんでくれた。おかあさんのいるところには、いつも、わらい声がたえな
かったものなあ。」
「そう、おかあさんは、天使みたいだった?」
「そうだとも、ほんとに天使みたいだったよ。いちどでも、あかあさんにあったことのあ
るひとは、いつまでもいつまでも、おかあさんのにっこりわらった顔を、わすれられなく
なってしまうのさ。」
 そういう話をしているときのおとうさんは、いきいきとして、いかにも、たのしそうでし
た。
「おとうさん!おとうさんの顔も、天使みたいよ。きらきら、ひかっているわ。」
 ドーラは、びっくりしたように、おとうさんの顔をみあげました。
「そうかい。おとうさんも、天使みたいかい?でも、おとうさんの顔のかがやきは、すぐ
、きえてしまうさ。あの、バラ色の雲がきえるときにね。」
 おとうさんは、金色の空をはしっていく雲をゆびさしながら、やさしくいいました。
「だけど、あのバラ色の雲のなかでは、おかあさんが、きっとドーラやおとうさんを、み
おろしてくれているだろうね。」
 夕がたなので、ボダイジュのなみ木が、ながいながいかげを、ベンチの上までおとし
ています。おとうさんとドーラは、うっとりと、空をみあげていました。
 そして、太陽が西にしずみ、バラ色の雲もきえて、つめたい夜の空気が、首すじをひ
んやりとさせるころになって、ふたりは、やっと、立ちあがるのでした。
 おとうさんとドーラは、ゆっくりと、町へもどります。

ドーラのお父さんはこの後しばらくして亡くなり、ドーラは伯母さん夫妻と
共にスイスに行き、紆余曲折があった後に幸せになるのです。