カルメンの白いスカーフ・歌姫シミオナートとの40年」 武谷なおみ著 白水社

実に面白く、そして興味深い本であり、私は一気に読んでしまいました。オペラファンだ
ったら必読の書であり、オペラに興味の無い人でも超一流の人間というのがどんなもの
であるかを知れる有意義な読みものと思いました。
まず、著者の武谷なおみさんのまえがきの一部を紹介しましょう。

読者はディーヴァというイタリア語をご存知だろうか?
もともと古代ローマの「女神」が語源のこの言葉は、今では「天賦の才に恵まれた歌手
や女優」を呼ぶのに使われている。いわゆるプリマドンナのなかでも超メガトン級の、大
スターがディーヴァなのだ。20世紀のオペラ界を見渡したとき、イタリアの音楽批評家
がこぞってディーヴァと讃えるのは3人。マリア・カラスがその筆頭だ。次にカラスのライ
バルと評され、「天使の歌声」の異名をとったレナータ・テバルディ。そしてソプラノの二
人に比べてメゾ・ソプラノという地味な声域でありながら、スカラ座に長く君臨したジュリ
エッタ・シミオナート。
このシミオナートこそ、私にイタリア語のみならず人生の手ほどきもしてくれた「イタリアの
マンマ」である。文通をはじめたとき、私はまだ中学生だった。


シミオナート(右)とテバルディ(左)
武谷さんは10歳のときにラジオでシミオナートの歌を聴いてから熱烈なファンとなり、英
語を学び出す中学生のときにファンレターを出したことからシミオナートとの交流が始ま
り、それは40年も経った今も続いているのです。2002年のシミオナート92歳の誕生
日にはこの著者はイタリアのセレモニー会場に駆けつけ、シミオナートとの40年の交流
を映像を移しながら語るという講演をしたところ、ほとんど自分を語ることのないこの大
歌手のエピソードに接した多くのイタリア人が深い感銘を受けたそうです。
シミオナートとテバルディ

この本に出てくる人物もトスカニーニ、ルキノ・ヴィスコンテ、マリア・カラス、ヘルベルト・
フォン・カラヤンと超一流の芸術家ばかりでして、特にマリア・カラスへ抱くシミオナート
の暖かい思いは胸を打つものがあります。
次はそのエピソードです。(例によって著作権侵害の恐れがありますが、一人でもこの
本を読んで欲しい私の善意に免じて訴えられないことを・・・)

「カラスの舞台をいちど見てみたかったな。舞台の上を本能的に動く人だったの、カラス
は?」(これは武谷さんのセリフ)
「そう、生まれながらにして、ギリシア悲劇の主人公そのものだった」とシミオナートはう
なずき、大きく息をつく。「あの時代にはまだ、これ見よがしで下品な現代風の演出は
存在していなかった。最近の舞台を見てごらん。サーカスみたいにオーバーな動きで、
優雅さんなんてこれっぽちもありゃしない。カラスだって今風の演出に影響されてはい
なかった。我こそは、と目立ちたがる人じゃなかったのよ。それどころか、マリアはひとり
目立つより、共演者全員が最高であることを望んだわ」
(中略)
「マリアは実生活でもすごく苦しんでいた。オナシスと結婚するつもりだったのに、ジャッ
クリーンが現れたでしょう」
「オナシスに会ったことはある?」
「ええ、教養のかけらもない人だった。マリアは知っていたわよ。彼はお金のことしか頭
になくて、だから変なの、といっていたわ。あの男のせいで破滅したのよ。マリアは音楽
そのものだったのに。事実、映画に出演したときの彼女はもう、マリアではなかった」
「パゾリーニ監督の『王女メディア』のこと?日本でもあの映画の評判はいまいちだった
わ」
「マリアはある日、映画を見てくれた?と電話でたずねてきたわ。ええ、とだけ私はこた
えた。あんたの沈黙は意味深長ねと彼女はいうの。私は正直者だからね、と応じると、
自分でも期待したほどじゃなかったの、と打ち明けたわ。それでいったの。ねえ、マリア
、あんたは音楽そのものなのよ。だからケルビーニの音楽がないと、メデーアは存在し
ないわと。いつもながらごもっともな意見ですこと、と彼女はいって、電話を切った。マリ
アってそんな人だったのよ。観客は理解してあげなかったけれど。いつもトラみたいに
歯をむき出していると思われたわ。ただ、踏みつけにされるのを好まなかっただけなの
に」
「でも13歳年上のシミオナートをずいぶん信頼していたんでしょう?」
ジュリエッタの顔から笑みがこぼれる。
「なぜか私を戸籍名のままジュリアと呼んでね。ジュリアだけはリハーサルなしでも共演
します。ジュリアはメゾ・ソプラノですが、私と同額の出演料を払うべきです、とロンドンの
コヴェントガーデン劇場にも持ちかけていた。そしてよく冗談で、ジュリア、あんたはソロ
モン王みたいね、といって笑ったわ」
「ソロモン王といえば叡智の象徴。歌手仲間でもシミオナートの賢さは際立っていたとい
うこと?」



私はこのエピソードを読んだとき、「私のマリア・カラス」の手記を書いたk.mitikoさんが
知ったらどんなに我が意を得たり、という思いになるだろうと想像しました。オードリー・
ヘップバーンの伝記を読んだときも、彼女がエリザベス・テイラーやソフィア・ローレンな
どの大女優に深い友情を寄せられた事実に感銘を受けましたが、傑出した人間は同じ
ような境遇の同類を見出したとき、強い親近感を感じるのかな、と思いました。
カラスのエピソードはこの他にもあり、トスカニーニ、カラヤンのエピソードも素晴らしいも
のでそれらを知るだけでも音楽ファンだったら読む価値はあります。
それとこの本を読むと、イタリアという国ではオペラのプリマドンナがどんなに民衆から
愛され崇敬されているかを実感いたします。80歳を過ぎてもシミオナートが民衆の前に
姿を現すと「シミオナートだ、あのシミオナートだ」と口々に人たちが声を挙げるのを武谷
さんは何度も目撃するのです。
そしてシミオナートはオペラ歌手として偉大であるだけでなく、人間としても高潔な人で
あり、女性としてもまさに淑女そのものの素晴らしい人であることがこの武谷さんの本
から推察されます。


晩年のシミオナート

読み終わった後、私は未だに聴いたことのないシミオナートの名演を聴くためにCDを
手に入れようと思うようになりました。