足で踏み敷くお四国遍路の旅 (1)
                                                    山谷無心  


 大分、前のことになりますが、高田真快先生の本に「捨てて歩け」と言うのがあります。その本を読んでから、四国に行きたいなと思って居りました。
 私のヨガ仲間に柳原さんと言う女性がおります。彼女は、本当のヨガを身に付けた数少ない女性ヨガ実践者の一人です。彼女が、そんなに四国へ行きたければ行けば良い、と言い出しました。十二月の寒い晩のことです。
 生憎、風邪で寝ており、とてもじゃないが、この寒さで四国なぞ行けるものではないと思いました。「いや行ける、太陽保育園の平井先生にお願いし、指導を受ければ絶対行ける」と強く勧めてくれました。そうは言っても、ヨガ活動もあるし、そんなに長い間休むことなぞ出来はしないと言いますと、「いや、出来る。一度、平井先生に会ってご覧」と言われました。
 それならばと、早速、和歌山まで出掛けますと、先生は「行きたければ行くが良い。ヨガ活動は帰って来てからでも充分出来る。但し、行くについては、三つの条件がある」と言われました。一つは全行程を歩いていく。二つ目は、お前は心臓病の持病がある、実は数年前、心筋梗塞で倒れ、救急車で何度か運ばれたことがあったんです、ですから、行くなら、冬に行け、大体、心臓発作は冬に多いんです、だから、冬に行け、三つ目は、お金を持って行くな‥‥‥‥と言う事は、もともと、お遍路と言うものを、原形でやって来い
、と言う意味なのですね。

 だけど、こんな事、本当に出来るかなと真剣に考えました。しかし、こんな絶好の機会を与えられて、ヨガ活動をしばらく休んでも良いと言う条件なら、よし、行こうと思いました。
 ところが行くと決心をしますと、何とヨガ仲間が反対するのです。心臓病の持病の身で命が持たぬと言うのです。家内までが、親しい拝み屋さんに占ってもらったら、今、四国へ行ったら間違いなく死ぬとのご託宣で、行くのに絶対反対。これには参りました。家内は平井先生にまで食ってかかりました。それでも、平井先生は先の条件を守れば行って来れると明言するのです。行くことに決心しました。

 行くなら、正月、一杯飲んでから行こうと思っていたんですが、平井先生は、とんでもない、元旦、家で酒飲んでいるようではあかん、行くなら正月元旦、夜明けと共に出発しなさいとの命令。十二月大晦日、行者仲間で、私の父親の兄弟弟子で今年八十になる実生守と言う人がいるんですが、十二月三十一日、一番忙しい日ですわ、明日、お四国へ立つと聞いて、仕事ほったらかして、飛んで来てくれて、送別会をしてくれました、とても嬉しかったです。それから堺の「ねぼけ」のご主人が鯛の生造りをして祝ってくれました。その上、「鉄砲の玉」が飛んで来るわけじゃなし、行って来いと励ましていただきました。

 正月元旦、日の出と共に発って、先ず始めに高野山に向かいました。高野山に登るのには、極楽橋からケーブルで行くのが普通なのですが、九度山の方から、町石道と言う所があります、一丁ごとに道標が立ててあります、百八十四丁、そこを歩いて登りました。普段ケーブルで上がると、なんとなく、すんなり上がってしまいますが、所々、雪の積もっている山道はとても厳しいものでした。さすがお大師様ご開山のお山です。
 朝、一番に発って、登って来たのですが、奥の院の五時の御勤めには間に合いませんでした。独りで本院を拝み、帰りはケーブルで下り、和歌山市の平井先生の御宅に向かいました。
 JR紀伊駅で下車し、電話して、平井先生の奥さんが、車で迎えに来てくれることになっていました。タクシー乗り場で、女の子が独り待っていました。正月元旦ですから、なかなかタクシーが来ない様子でした。そのうち、奥さんが迎えに来てくれました。気の毒にと思って、奥さんにお願いして、少し回り道でしたが、女の子を乗せてあげました。

 そして先生の家で一休みして、一杯ご馳走になり、よもやま話に花を咲かしていましたが、たまたま、女の子を乗せた話をしたところ、突然、怒りだすんです。
「お前、女の子を送ってやってくれと、家内に本当に言ったのか」
「はい、言いました」
「俺はお前を見損なった、そんな事にいちいち、かかずらっていたら、四国八十八ケ所遍路なぞ行けるはずがないぞ」
「・・・・・・・・?」
「これから向こうへ行ったら、どんな事、変わった事、いきさつやら出てくるやら分からん。行く日にいちいち、そんな女の子にかかずらってどないするんや」
「でも、かわいそうじゃありませんか」
「あかん、そんな助平根性では女でしくじる、歩いて死ぬぞ」
と言う訳で、散々叱られたんです。平井先生は裸の保育園で有名ですが、時にはとても厳しい人です。

 で、寝たんです。朝、暗いうちに起きて、置き手紙を書いたんです。お詫びは帰って来てからさせてもらいます。紀伊駅まで歩いて、和歌山港から徳島へ向かいました。
 平井先生の叱られた真意は、四国八十八ケ所を歩いて廻るのは厳しいのだから、よしよ
しと甘やかしたらあかんと、行ってこいと、バンとはたいたんですね。あの、柔道でも剣道の試合でも、ボクシングでも、試合場に上がる前に選手は、行って来いとバンと突き出さないと勝てません。船の中で、先生の深い思いやりに気が付きました。


徳島

 徳島港へ着きました。
 一番の札所霊山寺へ向かいました。四国の地図をご覧になるとお分りの通り、まず、阿波の国、次に土佐の国、伊予、讃岐となっております。阿波の国は発心の道場、やり抜くんだと固める道場、土佐は修行の道場、伊予は菩提、讃岐は涅槃の道場、このようにお大師様が決められました。
 阿波の発心の道場、歩いてつくづく感じました。まず一番の霊山寺へ正月二日、お参りさせていただきましたが、一杯機嫌のおっちゃんが出てきて、はい、お遍路さん、お接待、と五百円くれました。有り難いですよ。ああ、これならお遍路も楽だわいと思いました。この調子だったら、お遍路と言ったら何処でも泊めてくれるもんだと思いました。

 ところがとんでもない、そんな甘いものではありません。やってみれば分かりますが、今日、何処に、見ず知らずの人を泊める人がありますか。絶対に無い事ですよ。今までにお遍路さんが、皆、良い事をしてきたと言うなら分かりますが、なかには物を盗んだり火をつけたり、結構、悪い人も多くいたようです。そんな訳で、お遍路さんと言えども、なかなか泊めてくれる家はありません。とても厳しいものだと、つくづく思い知らされました。
 私は今回のお遍路には、父親が使っていた金剛杖を持って行きました。父親が修験道をやっていまして、この父親の形見の八十年来続いている杖を持って、いわば家宝です。それで霊山寺へ参りまして、白い衣装と笠を買い求めました。ズボンは、以前、柔道をやっていましたのでそれを着ました。私の柔道の師は長井清昭という先生で、柔道の鬼、牛島辰熊先生の直門です。

 そして歩いていますと、犬がよく吠えるんです。それが始めのうちは気になりまして、だんだん慣れてきますと、勝手に吠えておれと気にならなくなりました。「ワン」ばかりで無く「ツウ」と泣け。しかし、土佐、高知県、あそこの犬は凄いのありますね。土佐犬、道の真ん中にどてっと座って動かないんです。小さい犬がワンワン吠えていますが、私は気にもとめずに歩いて行きますと、その犬だけは黙って見ています。近付いて来ると、吠えはしませんが、立ち上がって低く唸り声をあげるんです。気持ちが悪いですよ。仕方がありませんから、南無大師、遍照金剛、なむだいし、へんじょう金剛、十回位唱えて、金剛杖をトンと道へ突きますと、すうっと退いてくれました。有難うございますと心の中で念じておりましたが、噛みついてきませんでした。

 十番切幡寺までは、割合、順調に行けましたが、十一番藤井寺の道はとてもきつい道でした。阿波へ入って、十里十ケ寺と言って、十里の中に十ケ寺が固まってあるんです。これは行きやすいのです。これならまあ行き着けるわいと思いました。最初の寺で五百円貰ったし、十番まで快調、十番は切幡寺。ここの遍路宿で泊まらしていただいたときに、遍路宿のお神さんが「焼山寺ごえは大変よ、阿波でも一番の難所よ」と言われました。私も
山登りでは、かなり自信がありますし、行けるだろうと思っていました。
 私は始め、大阪から来た時、四国には雪は無いもんと思っていました。ところが四国の山は寒いですね。とても寒いです。
 で、十番切幡寺を出て、十一番藤井寺、十二番焼山寺。それで、十番を飛び出したのは、夜中の一時です。真っ暗、人っ子一人いません。時々、車がごおーと通るだけです。まず吉野川を渡って、大きな川です、お遍路さんは、これを二度、三度、渡ります。行ったり来たり渡り直して、とても分かり難い道です。しかも朝早い、真っ暗、道を聞く人も居ません。自分の勘とお杖に導かれて、とても苦労した道でした。
 心細いですよ。南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、と必死に唱えながら歩きました。 私は朝、目覚めた時が起きる時と、こう決めているんです。

 平井先生から言われた三つの条件、歩いて行け、冬に行け、金持つな。金は五万円だけ持っていきました。これは平井先生宅で、これならいいだろうと許可を得た額です。
 やっと藤井寺に着いてほっとしました。藤井寺さんで焼山寺へ行く道を聞いたんです。そうすると、歩いて行くなら旧遍路道を行きなさい。ただし、旧遍路道はあまり踏まれていない道で難しい、雪道でもあるし行きにくい道であるが、行きたくば行きなさい、これが遍路にとっては本道である、とお聞きして、それならその道を行こうと決心しました。すると、お寺さんは、三十分程雪道を登ると十センチ位の南無大師遍照金剛と書かれたお札が左にある、それが見えたらまっすぐ登りなさい、若し見つからなかったら思い切って引き返しなさい、万一、迷ったら永久に出られなくなる、と言われ、これは必死になって行くところだと、つくづく感じました。

 で、阿波の国で、一に焼山、二にお鶴、三に大龍、名だたる難所が三つあるんです。その最大の難所、焼山寺ごえ、雪の中で、これはかなりきつい山越えでした。焼山寺へ向かう途中でね、柳水庵と言う所があるんです。その柳水庵まで、登って下って、また登り返しがあるんです、とても厳しい道でした。
 柳水庵へ着いたのは昼の二時位でしたか、そこはお接待、四国ではお布施の事をそう言うんですが、お接待していただける、そこで泊めて貰おうかなと思ったんですが、ま、お茶でも飲んでお餅をいただいてからと、‥‥‥‥その時に「あっ、明日、雪や」ひょっと頭に浮かんだんです。聞こえるでも無く、自然に口に出てくるんです。これから出掛けます、明日、雪です。‥‥‥‥不思議な事です。本当に翌日、大雪になりました。もし、其の日、泊まっていたら、二、三日は降り込められて動きが取れなかったと思います。
 そうして、やっと雪道を踏みしめ、踏みしめ、焼山寺へ辿り着きました。本堂で、般若心経一巻、唱えさしていただきました。それから奥の院へお参りさしていただきました。奥の院には、役の行者、父親が尊敬してたんですが、その役の行者を祭っている奥の院まで、本堂から一キロ位離れているんです。だいたい、十二ケ寺くらい、歩いて来ますと、足が棒のようになって、歩いていてもびっこを引いて歩いているんです。びっこを引き引き、走って歩いたんです。

 十二番焼山寺へ行きますと、泊めてくれないんです、晩で。
 こんな山の奥だし、日は暮れて来るし、泊めて下さいと言ったんですが、最初の中は、かっか、かっかするんですね、何故、泊めてくれないのか、だいたい、オフ・シーズンで、高い山ですから、泊まり客など一人も来ませんわ、たった一人の為に、飯を炊いたり、風呂沸かしたり、あほらしくてできへんと言いますのや。
 シーズン中なら、観光バスが何十台とどんどん乗りつけ、例え一人十円づつ落としたとしても、本堂、大師堂等、いろいろ回ったら、最低一人五十円は下らないと思います。それに儲けるでしょう、お札、お守り、朱印等、考えてみたら何千万と金が入るんですよね。年間にしたら億と下らないでしょう。
 それで、シーズン・オフで、独り歩いて廻っている者に、御飯炊いて風呂沸かして、一人の為にそんな事、出来へんと言う訳なんです。
 そりゃーそうかも知れんが、しかしお大師様が、本来、定めたのはそう言う修行者を泊める為の施設として、お堂を建てたのと違うか。泊める泊めないで大口論、山の中で閉じこめられては大変と私も必死でしたわ。

 その時、お大師様が泊めへんと言うてるんやから、それで善いやないか‥‥‥‥後から声が聞こえて来るんです、誰も居ないのに、はっと、気が付いたんです、間違ってた、自分は全てに有難うございますと、何でもお受けしますと、来たつもりのはずなのに‥‥。 その声に助けられました、すいませんでした、有難うございましたと言って、私は山を下りました。
 で、納経帖、私は持って無いんです。あれは、一回、二百円から三百円かかるんです、ですから、3×八十八で全部頂いたとすると、二万六千四百円かかるんです。私の全行程の予算が五万円、とてもやっていけません。
 私は出掛ける前に般若心経を三十巻書き上げておりました。一ケ寺一ケ寺、般若心経を納めて行きました。そして、般若心経一巻ないし三巻、回向、唱えさせていただきました。ですから私が全部、回ったとしても別に証拠があるわけではないのです。十二月末、年賀状書く末になって般若心経を書き出すんです、それを持って遍路に向かったんですが、遍路宿で泊まった夜も心経を一巻、一巻書き足していったんです。全部で九十巻書きあげました。

 話が前後しますが、山の上で大喧嘩したでしょう、まあ、口喧嘩ですが、寄井に行ったら、宿、宿と言ったって、私達の泊まるのは安いお遍路宿、それに泊めていただくのも、だんだん知恵が付いて来るんです、お金無いから、すんません、修行で廻さしていただいている者ですが、素泊まりで結構ですから、二千円で泊めていただけませんか、そうすると、結構です、どうぞ、と言ってくれます。それなら二千円、それでもお茶ぐらいは出してくれます。
 大広間で皆と茶を飲んでいると、一人の酔っぱらいのおっちゃんが入ってきて、いや、今日、おもろい事、聞いたんや、焼山寺の上でジーパンの坊さんが、お寺さんと大喧嘩しているんや‥‥。この日は登り道が雨だったので青い雨具を着用していました。
 「そんなら、何故、止めんのや」「そんな、止められる様な雰囲気とは違うんや、だが、おもろい坊さんやったな」私の目の前で言っているんです。で、私に気が付き、「いや、この坊さんや、あんたの事、今、町で評判でっせ‥‥‥‥この町の者が大勢集まって、この先の辻でその坊さん、一目、見たいと待っているがな」これは、えらい事になったと、内心閉口しました。「俺も、もっと話が聞きたい、もっと、やっつけてくれたら好いのに、だいたい、今時の坊主はどいつもこいつも、碌な奴が居ない」という事になって、まあ、一杯やりましょうと、お酒をご馳走になってしまいました。

 二杯ぐらいは有り難いのですが、それ以上は明日にこたえる、茶わんに茶を入れて飲んでたんですが、その上から、また酒を入れるんです、妙な味で飲めたもんではありません。遍路は頂いたものは全部、頂かねばいけない決まりです、必死に飲まして頂きました。二度と飲みたくない、ひどい味でした。それから、明日の予定もありますので、ほどほどにして、休ませてもらいました。

 翌日、宿を出て、ずうっと回って、十八番の恩山寺、恩山寺と言うのは、いっぺん阿波の山の方へずうっと入って、もう一度、小松島の方へ引き返すんです。ハイキングの様に、ずうっと回って来るなら楽しいか知りませんが、一番、二番と、とびとびにあちらこちら回るんです、気分的に気が滅入ります。だいたい、この道のり、ひと巡り、千五百キロあるんです。つまり、東京、大阪間を往って復ってまた往く距離です。
 雪の中、峠道を歩いていると、「お遍路さん、はいっ」と、ほかほか弁当、呉れるんです、有り難いです、じっとしてては時間が勿体ないですから、歩きながら食べる、しかも雪が降っていてとても寒い遠い道のりの中、十八番の恩山寺へ向かいました。

 その日は恩山寺で泊まりました。恩山寺では専門に歩いているベテランのお遍路さんに会ったんです。金札と言って、最初、貰う時は白、二十回、八十八ケ所巡りで銀、三十回以上で金、その金札を持っているお遍路さんで川田さんと言う方にそこの宿でお会いしたんです。そしたら、初めに話した事を聞かされたんです。「今日び、人は見ず知らずの人を泊めるか、どうか、泥棒した人間もおるし、火付けるもんもいる、あかんぜ、そう言う気持ちで行ったらあかん」
 えらい事になって来たなと思いました。実は、その時まで、托鉢していなかったんです。最初のうちは、なかなか人前に立たれませんわ。しかし、これ、切羽つまって来ると、そう、言って居られません。今までは、歩く事に精一杯でした。歩くことは、千五百キロ、足を引きずっても、どうにか行けるかもしれないけれど、あと、食べて、身体を維持していくとなると、これは、えらい事になったと思いました。 そうして、その人は、部屋で待っていてくれたんです。「あんた、無事に行けると言ったのは、表向きや、本当は高野山の坊さんでも、冬、来て無事に帰る者はいない、然し、あんたさん、わざわざ部屋まで聞きに来るなら教えてやる、托鉢したかい」「いいえ、まだ、して居りません」「よろしい、明日から托鉢しなさい、托鉢出来る所教えてあげる」私、遍路道案内の本を持っていましたから、それに、この箇所、この箇所と印を付けてくれました。

 ところが、行って見ますとね、なんと、冬の田舎の道は何処の家も何処の家も、戸が閉ざして、人が見えない。春先だったら、観光バスも回っているし、戸も開いて、托鉢もやりやすい、冬で、閉まっていると、なかなかやり難い、そんな様々な経験を重ねつつ、歩いたんです。
で、十九番まで来ますと、立江寺があるんです。ここで、だいたい遍路は帰るんです。業の深い人は、遍路は「お帰り」と言う事なんです。ここが遍路の関所です。だいたい、ここまで歩いて来ると、もうへとへとです、精も根も尽き果てる、次の鶴林寺、厳しい、しかも、目の前に小松島の港、帰りやすいんです、誘惑に負けやすい所です。
 ここまで、来た時に、「いいか、お前よ、傲り、と、誹りを避けなさいよ、そしたら、良い業をしている、歩きぬけるよ」と聞こえたんです。「有難うございます」それで、二十番のお鶴さん、それから二十一番の大龍寺、一に焼山、二にお鶴、三に大龍と阿波三難所です。で、鶴林寺のことを、お鶴さんと、近くの方は言いますが、名前は優しいが、これが、きつい。

 ここへ向かう時に、私は、どうしようかな、と、いらん事を考えてしまったんです。平井先生には、お金、五万円しか持たないと言ってきたんですが、泊まりを重ねて、ここまで来ますと、後、残りの金が二万円切れてるんです、徳島でこれです、あと土佐、愛媛、香川とある訳です。少し、心細くなってきたので、友達に電話でもして、お金を借りとこうと思いつきました。
 電話ボックスを捜して、ふらふらと、入ったんです。十円玉を捜したんですが、見つからないんです、百円では勿体ない、ぐずぐず迷っているうち、また、次でかけようとボックスを出て、歩きだしたんです。これが、最後の最後だけれども、いざっと言う時の、用意ぐらいしておかないとあかんわな、と、自分に対しては、言い訳としか言い様の無い事を考えるんです。

 大分、歩いて行ってから、はっと気が付いた、手にした杖がないんです、しまった、電話ボックスまで、走り返したんです。お杖を忘れて来ているんですよ。お杖と言うのはね、お大師さんの足、此れに頼って、此れにすがって行けという事なんです。また、この杖は親父から譲ってもらった、譲って貰ったと言うより、家の代々続いた杖なんです。
 こんな事でどうするんだ、こんな事で先行きずっと、讃岐まで行けるものでは無い、これはいかん、と愕然としました。
鶴林寺まで行く途中に那賀川と言う、大きな河があるんです、河原が広くて、何とも言えん良い河原なんです。よし、ここで水行だ‥‥‥‥冬で冷たかったですが、すっ裸になりまして、頭は出発ししなに、倅に剃ってもらいまして、つるつるなんです、で、水の中に入って、ヨガで、笑いの行法と言って、わっはっは、と、笑うんですよ、おかしく無くても笑うんです。終いに、おかしくなるんです。
 向こうの方で、釣りしている小父さんがいるんです。私がす裸で、わっはっは、と、ちんちんまる出しで、笑っているでしょう、三回くらいやってますと、すうっと、向こうへ行くんですよね。あれ、おかしなのが来た、と、思ったのでしょうね。足らんのが来たと、向こうへ逃げてしもうたんですワ。

 ああ、もう、どう思われてもいいや‥‥‥‥‥その時に、私は分かったと、思ったんです。何が分かったと言いますと、あの戦中戦後を生き抜いてきた、父や母は食うや食わず、だったんですよね、で、子供の為に、無い物でも、自分たちは食わずに残してくれたんです。自分は三度三度、飯を食うて行こうとするから、間違っていたんです。一食二食、一日、食わなくても人間、死にはせん。それを、私達を育ててくれた父や母は、やって来てくれたではないか。お前は、それが、出来ないのか、この大馬鹿野郎と、なったんですわ。よしや、これだったなら、いけると、此の杖と共にお大師さんと一緒に行けるわい。今まで、何回、南無大師、遍照金剛、遍照金剛と唱えて来たけれど、それは、口先で言うだけだった、これからは、お大師様と、本当に二人で、同行二人の声、お大師様、頼みます、わしはやる、命懸けでやる、お願いします、さして下されい、と、なったんです。

それで、何もかも、ふっ切れたんです。それから、食うや食わずの修行が始まりました。初め、お賽銭をあげていましたが、考えました。例えば、二千万、持っている人が、五十万のお賽銭をしないですね。私、二万円しかありません、最後のお寺で、五十円、お賽銭
して、あとは、勘弁して下さい、盗みはしませんが、一銭も用意出来ません、堪忍して下され。
 それから、やっと、托鉢、托鉢の真似事が始まりました。托鉢と言うのは、どうするかと言いますと、般若心経、一巻を唱えて、終わったら、貰うても、貰わなくても、とにかく立ち去るんですね。この作法が大事なのです。物欲しげに、いつまでも居てはいけないんです。で、寒いからと言うて、ぱっぱっと、はしょっても、いかんのです。貰っても貰わないでも、心経一巻、心を込めて、唱えさしていただく。
 そうしますとね、最初、十円、二十円、一円の時もありました。一円は使えませんから、次の番へ行った時に、すいません、これでも、お賽銭にと上げさせてもらいました。
時々、百円あるんです、嬉しいですな、パン買えるんですよ、一個、そのパンが買えたその時、食べる、買えなんだら食べない。
 道、歩いていたら、時々いただくんですよ、パンかなんか、おにぎり、それを、リュックサックに詰めて、今日の晩ご飯、それ迄は、昼は食べない。それから、家もあるから、自分で、托鉢タイム、ここからそこ迄は、托鉢時間として、お願いします!と決める。
 実は私、時計は持って行かなかったんです、そうするとね、お日さんの沈む方向によって、ああ、そろそろ宿をとらなければいかんな、と考えるんです、と言うのは、次の町まで行って、すぐに、宿が無い時あるんです。そのもう一つ先にある時があるんです、最高、九時まで歩いたことがあります。大体、冬の夜は五時半位で暮れるでしょう、暮れて、歩き続けた事が何度もありました。
 で、土佐へ、だんだん近付いて来ると、峠を越えて、これが長いんですよね、そして、二十三番薬王寺さん、ここで泊まらしていただきました。薬王寺さんは、ちょうど縁日で賑やかでした。
 石段の両端にびっしり、一円、十円、百円が置いてあるんです、これいただいたら大分助かるが、とふっと、考えました、勿論、手も出しませんでしたが、後で聞いた事ですが、このお寺さんは、御本尊が薬師如来で、厄除けのお寺だったんです。そのお金を拾うと厄を拾った事になるんです。妙な気、起こさんと、良かったとつくづく思いました。
 宿をとろうと、縁日の回りを歩いていたら、勿論、土産物を買う気は全然ありませんでしたが、蛸焼き屋の小母さんが、そろそろ、店仕舞いの所で、私の顔を見て「売れ残りですけど、お遍路さん、はいっ」と、ちょっと固くなりかけた蛸焼きを二十個程、舟に包んでくれました。助かりましたね、早速、その晩の食事に当てさしていただきました。
 薬王寺さんから、土佐へ、二十四番最御崎寺まで九十八キロ。いよいよ、修行の道場に入って来る訳なんです。

 高知

 発心の道場から修行の道場、土佐へ入ってくると、阿波は山が多かったんですが、土佐は、海、海、海、海ですわ、最初は海が見えた時は、うわぁ、海だ、有り難いなと、感激しました、それに、私、坂本龍馬に憧れてましたから、余計嬉しかったですね。
 ところが二日も三日も海、海、海、海を見せられると、悲しくなって来るんです、成程、お遍路さんは、土佐で飛び込んだな、業の深さをはかなんで、身投げする、意味が分かっ
て来たんです、海を毎日、見て歩きますとね、もの悲しくなって来るんですよ。よし!俺も、海に飛び込んでやれ、又、すっ裸になって、大の字になって、泳ぎました、気持ち、よろしいな、潮水を冬のさ中に浸っていると、何か甦ったような気持ちになります。
 すると、私の泳ぐのを見ていた、おンちゃんが、坊さんカメラ持って無いんかと聞くんです。生憎、持ってませんわ、このおンちゃんカンザシと間違うとるんとちがうか?と思いました。惜しいな、惜しいな、と言って缶ビールを飲んでいました。 そうして、土佐へ、だんだん入って行きました。そして、托鉢して廻っていますと、初めは、居る家ばかり托鉢して廻ってしまうんです、例えば煙草屋さんとか、お菓子屋さんとか、心経を唱えさしていただき、中から出てきて、何がしかの‥‥‥中には、ぴしゃっと、閉められる事もありますが、最後になりますと、いや、そんな事、貰うために、お前は心経一巻あげてるのか、もういいやないか、貰おうと貰わんでも、お前の托鉢タイムには、やれ、と、よし、やると、決めた限り、軒並み、居ても居なくても、やり出したんです、するとね、‥‥‥‥高知へ入りますとね、自転車でね、おンちゃんが、追い掛けてくるんです、血相変えて。
 「おまんか、うちの家、拝んでくれたのは」宗旨が違って、どつかれると違うかと思ったんです。「おまんか」「私です、どうも」「どうぞ、やる」百円銀貨を鷲掴みにして、私の手の中にそっくりくれるんです。
 今度はね、自分は、お金はいいやと考えるとね、お金が追いかけてくるんです。呉れ呉れ坊主には、何も無いの、どっちだって好いや、只、自分は御参りして、そして、番に来て、般若心経を唱える、それを拝んでいるのとは違う、本当の拝むと言うのは、その道中を拝んでいく、そして、そこの家の業を次の番へお預けして行く。その私は一つの渡し人やと、こう思い返して来たんですね。そうしたら、気が楽になりましたわ、それからね、お金、頂けるようになってきたんです。
 不思議です、ある時なんか、バスが突然、止まるんです、「お遍路さん」と運転手さんがバスから降りてきて、はい、お接待、と、お札、一千円下さるんです。それはね、私が歩いているでしょう、バスは何回も往復しますわね、何時見ても、あいつ、歩いてると、あっ、今度の時、千円持って行ってやれ、と‥‥‥‥で、頂けたんではないかと思うんです。
 そんな訳で、お金の方から、追い掛けてくる、有り難いご縁やな、これやったら、行ける、その代わり自分は三食、食べようとは思うまい。だから、私は、必ず、素宿り、宿では食事無し‥‥‥‥初め、私は、寝袋を持って来ていたんです。そうするとね、寝袋持っていますと、それに頼るから、恐らくこんな冬、寒い所で寝たら、凍え死んで終うなと、送り返しました。ある所でお接待を受けている家で送り返して貰いました。だんだん、荷物を軽くしていったんです。
 三十一番竹林寺では、大発見しました。空海、この地に於いてヨガ行法を修したと書いているんです。これは私にとって、驚きでした、又、感激もしました。お大師さんはヨギだったのだ、
 それから、三十三番雪蹊寺に着きました。雪蹊寺さんの御本尊は薬師如来です、拝ましていただき、お寺の横に、小さな茶店があるんですが、その前を通りますと、小母ちゃんが、お茶飲んで行きなされ、と接待してくれたんです。この小母ちゃんが、なかな立派な方で、思わず話し込んでしまいました。
 私はお遍路さしていただいて、ここ迄来さして貰いましたが、御参りしたと言う証拠は何一つありません、と申しましたら、自分がよく知っている、何より、お大師様が知っている、それだけで、良いじゃありませんかと言われ、そうだ、その通りだと思いました。そこを出てから、私はぽろぽろ、涙をこぼしながら、歩きました。しかも、この雪蹊寺は私の師匠の平井先生の師匠、山本玄峰老師のご縁のお寺でもあるのです。
 和歌山県、熊野のご出身で、無們関提唱と言う立派な本をのちに出されるのですが、若い時に、熊野川で船頭をしていて、道楽が過ぎ花柳病にかかり、盲くらになったしまいました。家族、親戚から愛想をつかされ、追放同然の扱いで、お四国遍路へ行かされ、裸足で何回も八十八ケ寺を巡って御参りしてたんです。
 たまたま、この雪蹊寺の門前で行き倒れてしまいました、七回目の時だったそうです。そこで、助けられ、非常に感銘を受けて、私を坊さんにしていただきたい、私のような者でも、坊さんになれるでしょうか、とお寺の住職に尋ねたんです。そしたらその坊さんが偉かった。「普通の坊主にはなれんやろ、しかし、本当の坊主にはなれる」と住職、玄峰老師に諭されて、それから、一意発心して、坊さんの修行を積んで、後には偉い坊さんになられるのです。これは若い日の山本玄峰老師のうちらから発した声だと思います。
 奇しくも、私は、この寺で、お神さんを通して本当の声を、お大師様の声を教えていただいたと思います。

 雪蹊寺さんを越えて、三十四番種間寺向かいました。
 この種間寺さんも立派なお寺でした。そこのお宿のお神さんも立派なかたでした。お神さんの言うのには、「お大師さんは結構なものよ、お寺の山門が古くなって、修理費、五百万円寄進しようとしたら、居ながら、お金が集まった」皆が喜んで持ってきてくれた。このお神さんは、とても信仰心が厚い方なので、集めて廻らなくても、人が持って来てくれるんだそうです。
 その方は自分の事では一切、拝まない、
「そりゃ殺生よ、家内安全、延命息災、交通安全、死んでも命のあるように、ぎょうさん頼んで、十円、お賽銭して、そんな事、聞き取れる訳がありませんよね」「ああ‥‥本当にその通りやな、この人は清い人やな」と思いました。

 で、私もお四国遍路を廻さしていただいている、いきさつを話さしていただいたんです。始めは、張り切ってましたから、大宇宙の大調和ならん事を、これを祈っていたんです、それから私の恩師が一昨年、亡くなられたので、その師の菩提を弔う、これは、沖正弘導師と言う方で、ヨガと言うものを、世界に広められた方なんです。その人の菩提を弔う‥‥‥‥と言う事を念願していたのにも係わらず、結局、実際やってみると、お金に困って来ると、お金が欲しい、食物が欲しい、安全に泊まれたらと、身の安全ばかり‥‥‥‥そう言うばかりの中、そのお神さんのいうのには、そう言う拝み方は本来の拝み方では無いと言うんです。この高知の種間寺さんのお神さんに、ずいぶん教えていただき、有り難い事でした。

 翌朝、宿泊費をお支払いすると、一旦、受け取って、「はい、お接待」「何ですか」「私はね、月に一回、お接待する事にしているんです、しかも、歩いて行く人、清らかな人、あんた、今年、初めての人、これお接待」
 「宿泊、只よ」とは言わない、一旦、受け取って、それを、お布施して下さる、成程、
有り難いな、と思いました、そうすると、道を歩きながら、泣けて来るんです、私は守られている、守られて、こうして歩かしていただいているんだな、足が痛いの何や、しんどいのが何や、そうするとね、涙が出て来る、勇気が出て来る、勇気が出るから、足の痛みも、物の数でも無い、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、唱えながら、道を歩き続けました。

 旅の空でお遍路して、教えていただいたんです。最初の時、お杖で教えていただき、十番切幡寺さん、宿屋、歴代続いた遍路宿のお神さん、杖を玄関に置こうとしたら、「駄目よ、お杖は、ちゃんと拭いて、床の間に置きなさい、これ、お大師様の足よ」
 ああ、そうですか、だから、それ以後、私は、泊まる度に、お杖は、部屋の一番、大事な所に置く様にして来たんです。
 歩いた行程一日、十里、四十キロ、最高は五十三キロ位、一日に歩いた事があります。大体、十里が、昔の旅の人の相場なんですね、そうすると、翌日もまあまあ歩けます。あまり無理して、距離を稼いでしまうと、次の朝、痛くて歩けなくなります。大体十里、そうすると、不思議なことが起こって来ます、一里、四キロだから、道路標識を見ても、何処そこまで十キロと書いてあります、ところが、石の案内には何里と書いてある、この方が便利なんです。どう言うことかと、言いますと、一里一時間と見るんです。成程、昔の人はうまいこと考えるもんやと、だから、昔の人は一里半刻、二里一刻ですわ、二時間です。

 で、石のお地蔵さん、あれは伊達に立っていないです、ほんまに、道標べなんです。四辻で此に立っていたら、真っすぐ行きなさい、あそこにあったら、こっちに曲がりなさい、そっちにあったら、あっちに曲がりなさい、お地蔵さんに道を聞きなさいとは、地蔵さんの位置で道が分かります。
 道を迷ったら大変なんです、一時間ロスするとね、一時間迷うて行ったら、一時間で帰って来れない、えらくて、一時間以上かかります。それが、自然に気が付くんです、お地蔵さんに、自然に導かれて行くんやなあ、だから、古い旧街道、旧街道と歩いていきます。そうすると、お地蔵さんに導かれて居るんだなと自然に分かって来るんです。
 そう言う事が、だんだん開けて来ると、私は、大宇宙の大調和ならん事を、沖導師の菩提を弔う!嘘を言え、嘘を言え、となって来るんですよね、何んでや、涙をぼろぼろ流して、お前はそんな事、口先で言うているけど、本心は何や、お前の本心は何やと、そうや、おかしい、こうなって来る。

 私はね、生まれは、あの、大阪の九条、あの松島遊廓のあった所で生まれ、育ちました。私の母親は小学校五年の時、死んだんです、一年して、新しい母親が来たんです、ですから、私は、継母に育てられたんです。継母に育てられた為に、前のお母ちゃんを思いだすと、今のお母ちゃんが、悲しがる、だから、そう言う思いは捨てよう、前のお母ちゃんの知人とも付き合うまい、と決めて来たんです。
 今、考えると、私を育ててくれた、生みの親は、この讃岐の出なんです。十八の時、大阪に出てきて、言わば口減らしなんですね、そして、親父と結婚して、その親父も、死んで今年で八回忌、もう九年たちます。今の母親に「あんた、誰や」とボケられてみると、私は、生んでくれた母親に会いたい、お母ちゃんに会う為に、私は来て居るンや。そうや、お前はええ格好言う必要無い、そのお母ちゃん恋しくて来たんやろう、そうや、‥‥‥‥
 そうや、讃岐へ行ったらお母ちゃんに会えるか、会える、行こう、こうなったら、勇気が出ますわ。
 母を尋ねて何千里!本当の心、そんなら、どんな事が起ころうと、私はそこまで行く、骨舎利になっても、お母ちゃんに会いに行く。母親と言うものは、幾つになっても、子供の明かりやと思います。そこへ、逢いにいくんやったら、どんな事でもする。元気も出る、疲れも飛んでしまいます。

 そうして、歩いて行きますと、色々な事が分かって来ます。例えば、番があって、非常に有り難い、有り難い所は同じ様な反対のものがあります。
 良いものばかりと言うのは、世の中、ありません、例えば、焼山寺越えの時、感じた事は、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛と繰り返しながら歩いていると、突如、がつん、と凄い音。「あっ!頭蓋骨、今、どんと割った音やな」
 はっと、聞こえるんです。ここで、人殺しがあった、見えるともなく、見えるんです。老巡礼が雲助に殴り殺され、若い娘が攫われて行く。恨みと悲鳴、老巡礼の声なき叫び。
 般若心経一巻、たむけました。
 私は帰ってから、資料を調べて見ると、間違いなく、そこの場所で、焼山寺越えの、手前の所で、そう言う事実が残って居るんです。昔の街道では、雲助、物盗り、この様な事は、いくらでも有った事なんです。

 四国は昔から四県有るんです。四県有ると言う事は、関所、関所を越えていかなければならない、土佐の国は山内家が守ったり、長曽我部が守ったりして、こっちからあっちへ入るのには、関所を設けて、調べるでしょう、敵のスパイが混じるかも知れない、お遍路って何故、そんな者が通過出来たのか。
 出来たんです、何故か、それは、例えば、ここ、金屋町なら金屋町の庄屋さんの証文を貰って行きますね、そこへね、これは、こう言う者やと、私は○○○○というもんやと、証明するのと、別に二行だけ、厳しい文句が書かれているんです。「この者、その地に於いて、果てるとも、出生地に送り返す事、及ばず、その地に於いて、葬られたし。」
 そこで、この二行が有るからこそ、お遍路さんは行けたんですね。だから、言わば死ぬ覚悟で、死という事と、たいたいとなって、それをやり抜く、というのが、本来のお遍路の姿なんです、行き倒れ、覚悟です。
 同行二人、あらゆる不安、あらゆる恐れ、こう言うものとまったく一緒になって、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、と唱え続けながら、同行二人と言う事が初めて、生きて来るんです。そうすると、雨、風、雪、毎日晴れる日もあれば、色んな天候があります。雪の中も歩かなければならない、雨の中も歩かなければならない、唯、ひたすら、唯、ひたすら歩く。余計な事を考えず、唯、ひたすら歩く。
 けれど、初めの中は、なんぼでも、さっき、言った様な不安、これで行けるのだろうか、お金の事が心配や、諸々の雑念が湧くんです。それが、唯、御参りして、無事に行けたら、幸だ、そうすると気が楽になって、無心に歩けます。

そうして、ひたすらに高知に向かって歩き続けました。
 海と川が一緒になって、今では、大きな橋が掛かって、ハイウエイになっている所に出ました、そこを、とぼとぼ歩いて行きました。そして青龍寺さんに辿り着きました。
 三十六番青龍寺、このお寺も美しいと言うか、清らかなお寺でした。今でも目に浮かびます。このお寺は、お大師さんが、唐に渡った時に長安で、恵果和尚に真言密教を譲られた、で、何千人もあるお弟子さんの中から、日本から来た空海と言う一沙門に対して、僅か三ケ月位の間に全部譲ってしまう‥‥‥‥‥‥と言う事は、どう言う事かと言いますとね、真言密教を譲ったと言う事は中国にその事が残らないと言う事なんです。
 一日本人、一沙門の空海に全て贈られたと言う事ですね、これは、大変な事です、しかし、これは、私が歩かしていただいて、つくづく感ずるのは、また、後になって、三教指帰、お大師様の書かれた本を読んでみて、つくづく感じますのは、お大師さんと言う方は、我三八の時と言いますから、二十四才にして阿国、大龍の峰に登り、土州、室戸の崎に於いて、谷響き惜しまず明星来迎す、と言う様に命掛けの修行をされているんです。
 この命懸けの修行があったればこそ、恵果和尚がこの一介の沙門、空海を見た時、この人物と言う事を見込んだのだと思います。そう言った謂われのある有り難いお寺なんです。 青龍寺を出て三十七番岩本寺、この道のりもきつい道でした。岩本寺から三十八番金剛福寺まで百八キロあるんです、足摺の先まで。
 ここをどんどん歩いて行った時は、勿論、間に宿屋に泊めていただきましたが、ここは、大関まで行った朝汐の生まれた所を通りました。

 金剛福寺さんまで歩いて歩きぬきました、夜も七時を過ぎていたと思います、非常に寒いし暗い、この間、不思議な事に、電灯もつけなかったんです。見えるんです、見えないんですけど見える、そんな感覚が非常に深くしたんです、私のような者でも、見さしていただけたなぁと言う感じを、つくづく感じました。
 これは何かと言いますとね、人間と言うものは、光を放つ、発光体だと思います、だから、真剣に自分が一つの目標に向かって歩いた時に、まっ暗い道であっても、分かる、町と違って、ネオンサインも電灯も街灯も無い訳ですが、見えて来る、かすかな明かりと言うものを感じます、それを頼りに道の石ころにけつまずこうが、何にしようが、一生懸命歩いていますと、自然に見えて来るんです。
 こうして歩かしていただいていると‥‥‥‥四国四県でね、気質が違うと言うのがよく分かりました。例えば、道をしょっちゅう聞かねばなりません、阿波の人は、ああ行ってこう行って、こう行ってああ行って、と最後まで教えようとするんです、終いには面倒臭くて聞いていても、聞かんでもいいわと言った感じです。土佐人、この道を右にまわって、突き当たったら、誰かに聞け。こういう言い方、先の方を聞いても覚えんと言う話し方、ちょっと、荒っぽい言い方ですが、ここの人は、親切ですよ、お金を追い掛けてまで持って来てくれる。

 前後しますが、いよいよ、室戸に着きました。
 台風上陸の地、という碑が立って、あの時、小学校の女の先生が子供を庇って死んだ事があるんですが、実は、私の生まれた所、大阪、西区九条の小学校の話なんですが、九条東小学校、小さい時からなぜかその碑をみて育ちました、それが、あの晩、ここから、台風が上陸したんだな。車で、さあっと通り過ぎたんでは分かりません、丁度、お婆さんが居りましたので、「お婆ちゃん、どうやったの、あの時は、恐かったか」「恐いなんてもんじゃ無い、海が山になってきたけんな」「エエッ」ちょっと想像して見てください、海が山に、凄いでしょう。
 山へ逃げろと、逃げ延びた人は助かった、海が山になった、想像した、恐ろしいな、自
然はね、どんな人間の考え方、ちょこまかした機械、コンピュータ、越えますよ、凄い事がおこりますから。そう言う事をね、一つ一つ教えてもらいながら行ったんです。

 金剛福寺さん、足摺岬の先、ここまで何と百八キロ、どんどんどんどん歩くんです、その間、一ケ寺も無いんです、その前は固まって十ケ寺あったんですが、海は広いでしょう、そこに見えているのに、なかなか、つかないんです。
 金剛福寺さんに着いたのは、九時頃でした、この時、夜遅くまで歩いた最高だったと思います。こんな遅く、と大分ぼやかれましたが、冷飯をいただき、泊めていただきました。このお寺には中岡慎太郎の銅像がありました。お寺の横にあって、拝見させていただきました。
 私の好きな坂本龍馬の銅像が桂浜にあるんですが、この桂浜へ廻ると言う事自身、そこの、近くを通り掛かった時に、一時間回り道すれば、いけるんですが、それを、やったら、私は、お四国回り切れなかったと思います。観光と言う感じで廻ってはいけない、御参りに来た限りは、その事に専心する、唯それだけを願う、そう言う一途な姿勢が無いと、歩き抜けないと思います。
 翌朝、そこの住職が庭を掃いていたので「道、どう行ったら好いか」と尋ねると「それは、引き返して三原村と言う所に行ったらな、善根宿とかがあると、聞いた事があるの」「えっ、善根宿、今の時代にそんなもんが、あるんですか」善根宿と言うのは無料で泊めてくれる所なんです。

 で、またてくてく歩いていると、後から自動車が追いかけてきて、私のそばで止まって、ドアを開けて「遍路さん、乗って行きませんか」と言うのです、その時、はっと、思い当たる事があったんです。ここまで来る途中で、小さな田舎家で、小母ちゃんから、お茶の接待を受けたんです、その時、奥で晩酌していたおんちゃんなんです。ちょっと、軽く酒の匂いで気が付いたんです。その車が見えなくなるまで、手を合わせて、その方の交通安全をお祈りしました。
 でも、今回は素直に有難うございますと乗せていただきました。と、申しますのは、この寒空の夜道を、良い機嫌で晩酌していて、見知らぬ一遍路の為、わざわざ車を出して、おっかけてきますか。私ならやりませんね、一杯飲んで、ご機嫌で、何が悲しくて、こんな寒空に車を出しますか、身も知らぬ人に。
 胸が熱くなる位、感激しました、で有り難く、乗せていただきました、初めてです、車に乗ったのは、それ一回だけでした、三分位でしたが。有り難かったですね、本当に、現在は何でも、あります、外国の物も、冷蔵庫、開ければ何でも入っています、本当に冷蔵庫をすっからかんにして、自分が一日に、見直す日があっても、私は罰が当たらんと思います、今、とぼとぼ歩いている私には、何も無いンです、今晩は、はい、有難うございます、何もありません、水ばかり、茶腹も一時で、あい過ごさしていただきます、そんな様にやって来たんです。

 さあ、止まった所が立派な酒屋さんなんです。宿屋に行くもんと思って居ましたから、驚きました、「ここですか?」「気に入りませんか」「いや、滅相もない!」
 おんちゃんは、ずかずか、玄関に入って声をかけるんです。中からきれいな奥さんが出て来て、どうぞ、と言うんです。ここが、善根宿だったんです。しかも、お大師さま以来、一千年続いている善根宿だったんです。
 善根宿なんて、看板、あげていません。本当に実行する人は、そ知らぬ顔している、うちはやったってんねん、なんて顔、一切しない。お風呂をよばれ、夜食をいただき、しかも、コーヒーまでいただきました。コーヒーほど贅沢なものはないですよ、別に腹が膨れるわけでもなし、飲みたくても飲めません、おいしかったですね。出掛けに、お弁当までいただきました、有り難かったですね。
 お礼と言っても残す物もありません、般若心経、一巻を書かしていただき、お便所の掃除をさせていただきました、便器に便がこびりついて、なかなか取れないので、爪で掻き落としました。一生懸命磨かしていただき、きれいも汚いもありません、こんな、きれいな家に掃除をさしていただけ、私のほんの気持ちだけ、これしか出来ない、さしていただきました。

 翌朝、弁当いただいて、その弁当は今日の、朝食、いただいたから、昼抜いて、夜の食事に当てようと思いました。今夜は素泊りしても食事は大丈夫、有り難いなあと、思わず、涙がこぼれてくるんです。あの時、私は、善根宿から朝のうち中、泣きながら歩きました、おいおい声を上げながら歩きました。
 有り難いなあ、今はそんなに人の気持ちが冷たい世の中です、しかも千年、脈々と続いている善根宿と言うこう言う奇特なお人がある、その上に私をそこへ運んでいただけた、あの、おんちゃん、こんな事は世の中ないですよ。
 声をあげ、泣きながら歩いた、だから、力が付いた、よし、次は伊予から讃岐必ず行く、お母ちゃんに会える所まで行く、と私は勇気をいただいて、その時その時の心をいただきながら‥‥‥‥‥‥‥‥そうすると、銭金や無い、銭金よりも、もっと嬉しいものが、この八十八ケ寺の想いの中にある、あるやろ!と言うことを私は、詰まらぬ、初めは何も分からぬ奴が、一歩、一歩手に取るようにして、色々な人から、いろんな事を一つ一つ学びながら、私はずうっと、これから又、伊予へ向かって行ったんです。

伊予

 いよいよ、伊予に着きました。
 宿とか民宿とかが沢山ありました、内子の町を過ぎて、山道に差しかかる所で日が暮れ掛かって来ました、ふと見ると松野屋と言う政府観光旅館、ばんと、物凄く綺麗、お遍路なんぞの立ち入る所じゃ無い、ところが、その付近には、その旅館しか無い、三キロ山の方へ行ったら宿屋が一軒ある、三キロ、もう夜道を回り道して、また、明日、ここまで戻ってくる、よう、しませんわ。
 「よし、お願いしてみよう」政府観光旅館、玄関が綺麗に掃き清められていますわ、私が、今まで、泊まっている、下駄や靴が散らばっている所と違いますからね。

 「すみません、修行で回っている者ですが、素泊りで、二千円で泊めていただけませんか」「どうぞ」「‥‥‥‥」聞き違えたと思いました、「えっ、泊めていただけるんですか?」「どうぞ、お遍路さん、お腹空いていませんか」「はい、空いています」「何か冷たい御飯でもあるでしょう」‥‥‥‥なんと、暖かい御飯、しかも、サザエの壷焼きまでついているんです、しかも、おひつまで置いて、食べ放題、嬉しいですね、今日び、町中で、腹一杯、飯食べて、嬉しくも何ともありませんが、お腹空き切った所で、こんなに出して貰ってご覧なさい、嬉しいですね。
 しかし、二千円でと、お断わりしたけど、出て来る料理が、良過ぎますわ、聞き違えたかと思って、わざわざ、下まで降りて行って「すいません、二千円で素泊りとお願いしたんですけど」「そうですよ」「でも、あんなご馳走、いただいて良いんですか」「どうぞ、どうぞ、余ったものですけれど」とお神さん、にこっとするんです。
 今まで、食うや食わずに来ているでしょう、何杯、食べたと思いますか‥‥‥‥八杯、食べられますね、今、食べてもげー出ますわ、町中なら。食うや食わずで、そこまで来た訳ですわ。戦後の物の無い時でしたら、御飯に当たったら、殆どの人がはしゃいで、そんな時代でした、腹が空き切って、いただいたら、そんなものです。歩いているから、すぐにお腹が空きます。

 四十五番岩屋寺さん、奥岩屋と言うくらい、山の中で厳しい道でした。四十四番大宝寺さんから山道を下って、雪が降って夕暮れでとても寒い、その中を歩くんです。車ですと、広い道を下から、すっと行きますから、それ程に感じませんが、きつかった所です。
 やっとお寺に辿り着き、すいませんが、泊めていただけませんか、とお頼みしたんですが、うちには、水道も何も無いんじゃ、ここでは泊めんのじゃ、剣もほろろだったんです。そうですか、有難うございます、と、心の中で実は横着な気が起きまして、中を見れば、この坊さん、ストーブ炊いて、暖かく暖かくしているんです、よし、水行じゃ、と思いまして、丁度、その横に岩清水の水たまりがあって、バケツが置いてあるんです、そこの所で、素っ裸になって、もう誰もいませんから、水を三杯から五杯、頭から被ったんです。心経一巻、唱えたら、寒々、その社務所から見ているんです、ストーブに暖まって、ぬくぬくと、で、びっくりしてしまって、私がす裸で、拭いて、衣服をつけていますと、どうぞ、泊まって下さい、と言うことで、ちょっと、ハッタリ利かして、泊めていただきました。

 ここは、本当に、何も無し、布団を貸していただいて、坊さんも、夜は居ないんです、誰も居ない、全く無用心です。おそらくこの日は住職さんが他出されていたと思います。
 お寺さんと言うものは、坊さんも、ちゃんと泊まって、留守番するものだと思います。御本尊さんも大師堂もありますし、万一、不審火でも出たらどうするのかと、思いましたね。今、八十八ケ寺で、毎朝、正味、朝のお勤めしている所、何ケ寺有るかいっぺん、聞いて見たいと思います。と言うのは、後に泊めていただいたお寺で、客僧と言うのが居て、よそから坊さんが来ておって、その坊さんがお経を唱えている、中には、ひどい所では、テープレコーダでやっています。修行していないな、と言うことがありありと見えるんです。町中だったら、なんじゃ、こんな事してんのか、と一つの誹りが入るんですが、山寺では分かりませんわ。

 そこを出て、十夜ケ橋、四国の大州の先に十夜ケ橋と言う所があります、ここが又、有り難い所でして、お大師さまが一夜、泊まって、非常に寒かった、一夜が十夜に当たったと言う所。此はお遍路さんは、杖を突きません。作法は、橋では必ずお杖は突かないで、抱えて渡る。寒い時に、お大師様が橋の下で寝はった。橋の下に、お大師様の寝た姿があります。信仰の厚い方がいつも立派な布団を掛けておりますわ。
 私もここへ泊めていただこうと思いまして、何も無いけど、ここは番外でして、そこのお接待で火の気は無いけど、お大師さんも泊りはったから‥‥‥‥そこへ、若い奥さんが出て来て、泊める施設が無いんですよ、と断られた、あかんと言われて、なにくそ、と前にやった通りにしたのでは、あきません。
 有難うございます、十夜橋には小さい橋があるんです、私は、そこでお大師さんに心経一巻唱えさしていただきました。すがすがしい、気持ちが良い、それぐらい気持ちが進んできます。先ほど話した三原村、それを過ぎて、ああいう人とお会い出来た故だと思います。十夜ケ橋を素足になって、もちろんお杖を抱えて、履物を持って渡らせていただきました。

 そして、道後まで来たんです、道後には私が勤めていた時の所長が居るんです。引退して居られるんです。もしも居られ無いなら、それも運命、試しに十円、電話してみよう、もし居られたら、来いと言われたら泊めていただこう、そう思って、電話したんです、「もしもし○○です」「なに○○、何処から電話している、何、道後に来てる?すぐ来い」訪ねました、早速、道後の、あの坊っちゃんの温泉に連れて行っていただいて、晩は一杯、よばれまして、骨休めさしていただきました。
 この方は、俳句をよくやられる方で、「桃の夕、遍路の道をいそがざる」「青海に遍路のひとり背の真っすぐに」と読んでました。この方の実父は戸谷勝四郎と云われ、あの南方熊楠先生を神島へ案内された方です。
 一杯飲んで歓談してますと、もし、お前が一寺建立する時は、柱の一本でも寄進さして貰う、お前の様にこんなに、立派に廻っているのは、俺も初めて見た、四国へ来て長く居るけど、大体、坊主と言う坊主、ろくな奴がいない、皆、修行していない、修行せずに、世襲制ばかりやって、ぬくぬくしている、あんなのをみると、俺は腹立って仕様がないんじゃ」と言って怒ってました。

 次の日、道後から新居浜、五十三キロ歩いたんです。
 温泉に入ると、足が物凄く浮化します、それまでに何度も、けつまづいて転ぶんですわ、それが痛いんですわ、びっこを引き引き歩きました。そして五十六番泰山寺でもお接待で泊めていただきました、番でお接待して下さるのが皆無と言うのでも無いのです、しかも、そういう坊さんは修行しているとありあり分かる、乞食遍路を泊めてくれると言うお寺は、立派な山門が在って、大勢の人が参詣して、線香の煙が絶えない、と言う所は、絶対、泊めてくれない、鄙びた様な所では、たまには、声をかけてくれます。
 この泰山寺さんでは、お母さんだと思うんですが、急病で、ばたばたしていて、車で運ばねばいけない、難しい状況の中で、私を泊めてくださいました。道を歩いていて、難渋するという事は、やった人間でなければ、分からない、相身互い、行者同志の労わり合い、同病、相哀れむ、とか色んな言葉が在りますけど、自分が苦労している人は必ず他人の苦労が分かるんです。

 で、この泰山寺の若い住職さんは非常に出来た方だと思いました。特に泊めていただいて、まったく放たらかしで寝さしていただくだけでも、有り難いのに、それを気の毒がりまして、たてこんで、何もお接待出来ないと、私にまで、配慮していただいて、布団の上で寝かしていただくと言う有り難い事がありました。
 お山の上にある、難所と言われる所は、全て、役の行者の開基です。修験道の開祖は、厳しい所を番に選ばれます、お大師さんは、役の行者さんの後を慕うたとも言われています。これは、大峰のお山にも奥駈けと言いまして、吉野から熊野へ掛ける、現在のシルクロード、千三百年続いた日本の一番古い道、最高の修行を積んだ行者のみが、渡りきれる、厳しい道、ずっと、途絶えつつ、途切れる事も無く、続いている道、ほんの少数の山伏しか、渡りきって居ない険しい道、この道を開かれた役の行者さんが開基されると言う事はやはり、四国の中でも全て厳しい所です。横峰山、雲辺山、全て役の行者の開基です。

そうして、いよいよ、四国、最大の難所、雪の横峰寺六十番に掛かって来るんですが、ここを、どう打つかが最大の課題です。順序から行きますと、五十八番仙遊寺、五十九番国分寺を打って六十番横峰寺と打つんですが、実は今はその道が車道になっていて、車が多い、そして、舗装道路、これは、歩いて見ると分かりますが、非常に足が痛いんです、地道の方が足には楽です。ここを歩いて行く時は、国分寺から横峰を打つのは、非常にロスが多いんです、この時は私は逆打ちしました。

 五十九番国分寺を打って六十一番香園寺を打ち、香園寺で泊めていただいた時に、そこの住職さんから、香園寺から横峰寺へ抜ける山道を教えていただいたんですが、後で分かるんですが、聞いて歩くのと、歩いて、自分の足で迷うのでは、雲泥の差がある、で、山の地図もはっきり書いていただく訳でも無し、大体の目印と言う形で、高い山道は、樵道などが迷路の様に入り組んで、変な道に迷いこんだら帰って来れない、しかも、登山用の支度していない、身一つ、磁石一つ持っていない、山登りの方から見れば裸同然、とても厳しかった。

 香園寺さんの奥の院から山道に掛かる、横峰寺さんを打って、また香園寺さんへ帰る、このコースを選びました。だから日のあるうちに往復しなければいけない、ですから、朝早く抜け出して行ったのを覚えています。
 横峰さんは、戒律の厳しい所です、車で行っても、途中から、険しい山道を歩かされます、上まで車で来た人には、朱印はいたしません、と看板に大きく書いてあります。さすが役の行者開基の寺です、厳しさが残ってます。
 そこの住職さんが、わざわざ出て来てくれまして、この道はとても滑るから、私、車で送ってあげると、車にチェーンを巻き付けて、それで厚意だけいただいて、土下座するばかりに、ご辞退さしていただきました。
 立派な方です、やはり、八十八ケ寺、ぼんくらばかりでは無い、こう言う光っている坊さんも居る、だから、遍路が続いている、泥田の中にこそ、蓮の花が咲くんだと思います、世の中が乱れたり、気持ちが冷たくなったり、人間の皮を被っているだけかいな、と言う人が多ければ多い程、光る人は光る、唯、当たり前に生きているだけで光る。
 世の中は闇だけでは無い、合掌してますと、自分自身が光だと言うことを気づかせてくれます、唯単に物質だけでは無い、エネルギー、光、こういう魂の光、そのようなものが光るように思えてなりません。一目でこれは出来る、と見抜く人は、その人自身が発光体です、だからそう言う人と出会った時はあまり言葉は要らない。
 人間、追い込まれないと、駄目です、追い込まれて、追い込まれて、もうどないするのや、死ぬのじゃないかと、もう死んでも良いと、その瞬間に道が開かれる、大抵の人はそこへ行く迄に難儀やからと、引き帰してしまう、とことん行き着くと、素晴らしい喜びがあるんです。

 それからの道は割に平坦で楽な道が続きました。
 三角寺六十五番、このお寺、ヨガを習ってつくづく感じたんですが、三角、所謂、ピラミッド・パワーです、今は三角寺の池を見た時にありありとその原形が分かった、今ある池は変形しているのでは無いかと思います、しかし、お大師さんが築かれた時の三角は本当のピラミッド・パワーだったと思います、そのパワーの中に大護摩を炊いて、三角寺と言う事を定められた、と思います。

 次が六十六番雲辺寺、伊予から讃岐に掛かる所にあります。この雲辺寺さんの前に椿堂と言う番外があるんです。八十八ケ寺ある中で、大体、立派なお寺ほど冷たい、月に何千万稼いで、一年間、中には億がつく所もあるかもしれん。そんな所は、剣もほろろ、乞食遍路なんか、泊める所は何処も無い。
 番外は良いですね、椿堂も良かったし、その外、鯖大師、お大師さんが、鯖を一杯積んでいる商人に、一匹、所望した所、この鯖は腐っていると断られた、そうか、その鯖は腐ってるか、そうすると、その鯖はパァと、一変に腐ってしまった。そこで、商人はびっくりして、心を入れ替え、お大師さまに、お許しを乞うと、鯖は元通りになった、と言う伝説。
 私は、これは、全くの嘘では無いと思います。どう言うことかと言いますと、そう言う修行をなさった方が発する気、此をヨガの方ではプラナと言いますが、ぱっと発する気、これが、不可能を可能にするエネルギーではないかと思います。私の少ない体験でも、お婆さんが道端でうずくまって、横に手押し車が置いてある、前を通りかかる、アッお婆さんの左足、悪い、何となく、分かる、お婆さんと言って、南無大師遍照金剛、遍照金剛、唱えながら、足をさすってあげる、私なりに気を入れて差し上げる。お婆さん、立ち上がる、「はい直りました、有難うございます」お婆さん、走って家に帰り、すぐ戻って来て、「お大師さん、来て、来て」私はびっくりして、「いえ、そんなん者ではありません」「いえ、いえ、お大師さん、来て」とうとう、昼の御接待、昼御飯を食べさしていただきました。それですから、私達の様な者でも、本当にふっきって、歩いていると、ふっと、浮かんで来るんです。あの、伝説に似たこの話は、私は事実だったと思います。これは、科学を越えた世界です。

 それで、その椿堂に泊めていただいたんです。この椿堂のお住職さんが、また素晴らしい方でした。回られるなら、是非ここへ寄られたら良いと思います。椿堂のここは、お接待で、只で泊めていただいたんです。「すいません、泊めていただけますか」「貴方、ご本尊さんにご挨拶したか」「はい、今から行こうと思います」「うん、泊めて貰えるか、どうか、聞いておいで」「はい」
 その頃になると、ご本尊に、聞くとか、そんな事、当たり前の様になってきているんです。本当に不思議な様でしょう、お大師さんに聞いておいで、はい、‥‥‥‥戻って、ご挨拶すると、茶湧かしてくれて、御飯のご接待、もう一人同宿していた、老人が、お経を唱えたんです、私等の経と違って、陀羅尼、で唱えるんです、こりゃ、偉い人と一緒になったと思いました。お遍路姿のお年寄り、後で聞いたら、六十五才や言ってました。
 偉い人と一緒になったな、こういう人に道を聞こうと思いました。「打つ」とよく遍路では言いますが、昔は木札をお寺に打って回ったから、打つと言われてきたんです。その人は名古屋の方で、バス、電車を乗り継いで来ている方なんです。お経は達者な方なんです、その方の言うのには、「俺は、生涯に雲辺さんは横峰さんと並ぶ難所、ここだけは、自分の足で行きたいと思って居た所なんだが、しかし、わしも、年だてな、行けるかなあ」と言われる。「それだったら、おまかせ下さい、私で良ければ、ご一緒します、明日の日は、幸い、道も乾き切ってるし、行けそうです、ご一緒しますわ」

 それで、その晩に、遍路同士の身の上話になったんです、その名古屋の‥‥鈴木さんと言うのですが、その方の話を聞いて、私は、はっと、私の親父の立場に気づかせていただきました、鈴木さんは、奥さんを亡くされ、後妻さんを貰った、で、前の先妻さんの子供、この子の味方をすれば、嫁が可哀そう、後妻の方の肩を持てば、子供が可哀そう、俺は黙っているしか、無いんじゃ。
 あっ、うちの親父は修験道で修行し、達観していたから、知らん顔してたと思っていたが、違う、どっちの味方についても、成さぬ仲と言うのは辛いんですよ、だから、知って知らん振りしていた。

いよいよ‥‥‥‥讃岐。
 お母ちゃんに会いに来るんだったら、その時、ぱっと、聞こえて来たんです。「私に会いたかったら、お父さんを分かってからおいで!」「そうや!この名古屋の親父さんを、どうでも、雲辺さんへおつれする」と決心しました。
 早いほど良い、遍路の早立ちと言いまして、朝は、何時に発っても良いんです。朝飯替わりに、椿堂で、大きなぼた餅を、二ついただき、二時に発ちました。山道に掛かる頃に、明ける、四時間位、歩きましたか、山道に掛かる頃、鈴木さんが、私の親父さんの立場の人が、「もう、お腹がへって来た、食べようか」と言うので、「はい、食べましょう」で、一つ出して渡し、私はこの、ぼた餅は、昼かあわ良くば、晩に食べようと、取っておいたんです。「やっぱし、違うわ、力餅、食べたら、力が付いて来た、行こう」とまた歩き出したんです。
 私はその道中で、鈴木さん、元気の様でも、やはり、年ですし、山も険しいですから、休みの度に、一つ一つ、荷物を引き受けて、登って行ったんです。最後には、その人の荷物、全部持って登って行きました。

 十二時頃、また「お腹がすいてきた」それはそうでしょう、朝の二時から歩いて、八時頃食べても、昼でしょう、「お腹へってきたなぁ」とくるから、「昼飯にしましょうか」と、こう来る、物入れから、餅を出す、鈴木さんは、それを見て、「あっ」と、「あかん、それは、あんたの分や」「いえ、僕は、お腹すきませんのや、ずっと、旅慣れしてますので、お願いいたします、食べてください、お願いします」「そうか、悪いのぅ」名古屋弁で言って、食べてもらいました。
 そして、雪の雲辺寺さん、滑りましたが、無事、打たしていただきました。山から、降り下り‥‥‥‥

 「あんた、お母さんに、勉強してるのう、遍路が遍路を接待するのもおかしいけど、今晩、あんたは、金、持ってないやろ、よし、今夜は、俺が接待する」嫌も応もなく、宿に連れられてしまいました。「君、お酒、飲めるんか」「ハイ、好きです」「飲め飲め、かまわん」三本、いただきました、それ以上飲むとしんどいですから、飲ましていただいて、翌日鈴木さんを、バスステーションまでお送りしたんです。それが、不思議な事に、七十三番出釈迦寺と言う所があるんですが、空海が子供の時に、もしも私が人類を救えん様な人間だったら、此処で死なして下さい、と崖から飛び降りた所、お釈迦様の手が現われて、救ったと言われる出釈迦寺と言う、お釈迦様が出たと言う寺、その寺で、ばったり会ったんです。

 私は歩いているでしょう、むこうは、電車バスで行ってるのに、あんた足、早いなあ、これはご縁や、もう一晩、泊まろう、またご馳走になりました。その人も忘れられない方です、私は遍路で、もう一つの条件は名乗らない、大阪、堺の○○ですと、名乗らない、だから、鈴木さんにも、私は名乗らない、写真を写って下さったんですが「送り様が無いじゃないか」と言われたので、「そちらのお名刺いただいて、帰ってから、お手紙、差し上げましょう」そうして別れました。
 と言うのは、お遍路と言うものは、托鉢して、分かる様に、皆さんからいただいて、歩いているから、どこでも、のたれ死する訳、唯、そこで、迷惑掛けてはいけませんから、平井先生のお名刺をいただきまして、太陽保育園、平井先生の裏に死体引取り人と書きまして、私の住所、氏名、一切、持って行かない、もしもの事があれば、平井先生にはご迷惑でも、頼みまっせ‥‥言う気持ちで、そう、さしていただきました。
 ですから、私には、一切、証明するものが無い。しかし、お大師様が知っている、同行二人、お大師さんと一緒、何よりもかによりも、自分が一番よう知っている。バスに乗った、電車に乗ったか乗らなかったか。何より、自分が一番知っている、これ程、確かな証明は無いですよ。
 テレビで写っている犯罪を見て、ああ、自分のやった事をやってない、と言う犯罪の卑劣さ、それだけで、罰を受けていますわ、やったもんはやった、正直に、やっていないものは、やって無い、いえ、私は一切車に乗ってません、乗らずに行きました、とは言ってません。さっき、言うた様に、車に乗せていただきました、追いかけてまで乗せてくれた、あのおんちゃん。

 人間とは、そう言うものだと思います。なんぼ、繕うても、繕い切れない、自分自身の心なんです。私は、神仏、昔から色んな名前で呼ばれてますが、そう言う事やなあ、自分の本当に清い気持ちには嘘はつけない、それが、一番よく知っている、その人の力を我がものとして、自分の心を正さす限りに於いては、自分の病気は自然に治って来る。
 私は心筋梗塞になって、ニトログリセリンと言う薬があるんです、あれを、手放しているんです、もう‥‥‥‥あれ、心臓病の人に聞いていただいたら分かりますが、不安ですよ、最初、あれが無くても、自分は自分を生かせるとは、そう言う事やと思います、自分の心に正直にして、正しい呼吸法をして、瞑想していたら、収まって来る。
 それは、お四国を廻らさしていただいてあの方、お大師さまの力。自分を出し切ったと言う事。お大師さまの心が、そうや、自分が満足したら、それで良い、自分が普段感じている通り、行を行なっていけば好い。

 私はお四国を歩かさしていただいて、やりきったと思っていません。まだまだ修行を続けて行きます、然し、あの時は、あれなりに、出し切ったな、他の事は仕方無かったなと思っています。そういう気持ちが、私は病気を直していくもんやと思います。自分の身体の中に、奥底に、毒も薬も皆持っているんだと思います。例えば、人を誹って、怒って、叫んで、一辺に、死んでしまいます。喧嘩する度に体、悪くすると、思います。
 ですから、お四国を歩かせていただいて、分かった事は‥‥‥‥唯、ひたすらに、淡々と、対立の無い生かし合い、唯、ひたすらに、淡々と‥‥‥‥これが、ふっと、出てきたんです。対立の無い生かし合い、物凄く対立しているんです、私達、人と比べ合いしてたんです、なぁに、負けるもんか、負けても勝っても、同じ事、と言う事が、何となく、納得出来る様になり、あぁ、この生き方で、今後、生かしていただこう。

 ですから、トイレに入る、私ね、こう言う事してますとね、一日、六回トイレ行くんです。便秘、ヨガでは一日、一回は便秘すると言います。六回行きます、不思議に、駅で、便所へ入りますわ、今ね、駅の便所、汚れて、新聞紙がちらばって、あれを、掃除するんです、中には、便器の外に、もっこり、汚物が積んでありますわ、便器の中にすれば良いのにね、それを綺麗に素手で掃除するんです。
 お遍路の時、便所を磨いた癖がついたんですね。そうする事が、気持ちが好いんですよ、自分が‥‥‥‥便所掃除したら好いと思いますよ。初めは、汚いと思うでしょうが、水で洗ってしまえば綺麗なもんですよ、気持ちがすかぁっとして、好い気持ちですよ。そのまま出た時は、何か残るんですな。
 私だって、たまに、よそに行く時は、すっきりとスーツで決めて行かなければあかん時もあります、そんな時、便所に入って、これから人を訪問するのに、服を汚しては具合悪い、えらい、すいません、今日は勘弁してくだされ、逃げる時もあります。

 何にしても、すかっとして生きて行く方が気が楽ですわ。お金、持ってる、持たない、あまり関係ない様にに思います。必要なお金さえあったら、それで良いんだと言うのが、托鉢さしていただいた、お遍路の結論です、無ければ無いのもまた良し。
 托鉢してますと、心経一巻、大分、慣れて来た時分でも、宗派が違うんでしょうかね、有りますでしょう、絶対、他のものを認めんと言うのが、旨いことやりますよ、外へ出て行く振りをして、ぽんと当てるんです、肩でごーんと、こちらは、経、上げてますから、隙だらけですわ、おまけに御飯食べていないから、腹減っていますわ、どんと、よろけますわ、有難うございます、絶対、怒りません。
 そうするとね、人の心が分かってきます、山は上から見れば、景色が分かります、道も分かります、人は下から見た方が、よく分かります。なんぼ、俺は偉いんだと、言う必要無いなと思いました。あっ、そんな事する人は、気持ちが寂しいんやなぁ、何で人を受け入れると言う気持ちに、それは、宗教上の違いか、何の違いか知らんけど、せんでも、ああする人の心は寂しいんだな、気の毒やなぁ、何とかして上げたいけど、僕には、まだ力が足りない、御免なさい。そう言う気持ち、それが、町を歩いている時の以前の私だったら、ちょっと待て、まるで、やくざ、大立ち回りでしたろう。だから、お四国と言う所はね、本当に有り難い所です。

 電車、バス、観光バスで回られるのも結構です。だけど、一ケ寺ぐらいは歩く、三軒でいいから、托鉢してみる。私はこれをお勧めします、そしたら、一銭も貰えんでも、何か分かる様な気がするんではないかと信じています。

七十一番彌谷寺さん、ここも凄い所です、歩いて歩いて、歩きぬかされました。
 初め、山門を潜り、石段を登ると、ご本尊のお祭りしているらしき所がある、拝んでも、ご本尊とは書いて無い、大師堂とも書いて無い、それでもう一度、石段をあえぎあえぎ登ると、又、お堂が在る、やっと来たなと思うと、それも違う、あれっと、まだ上があるから、又、登る、四回か五回、上へ上がらされる、これはヨガだと思いました。これでもか、これでもか、とことん追い詰める、しんどい、ここで終り、とはしない。最後の最後は履き物を脱いで上がらされました。
 
七十三番出釈迦寺、お大師さまが崖から飛び降りた所。

 七十五番善通寺、言いたか無いが、あまり俗化して、私はこの八十八ケ寺、ここまで来たら、マンダラを見さしていただけるもんやとばっかり思って、楽しみにして来たんですが、がっかりしました。夕暮の五時が終いなんです、私が着いたのは五時五分前くらい、ところが門が閉まっているんです。
 私は般若心経をお供えする事が出来ない。門前からご挨拶して、翌日、すぐ朝一番に発って行きたいので、ご挨拶出来ない。どうしようか、と近くの店屋さんに寄って、お聞きしたら、裏口から入れると言うのです。店屋さんの言うのには、この頃弱っている、五時に門を閉めるのに四時半に閉めてしまう、何やこれ、と言う事でかなり、近所からも批判が出てるとの事でした。
 裏口から入って、信頼の出来そうな坊さんに、実はこうして、廻っています、明日、ご挨拶する時間、七時からでは、私の発った後になりますので、すいませんが、心経一巻、納経の所に収めていただけませんか、とお願いしました。確かに、しかと承りました、と、しっかりした坊さんでした、この方にお預けて善通寺を去りました。後にわかった事ですが、この方が天台門の村上先生です。

 七十八番郷照寺、ここまで辿り着いて、ご住職にご挨拶して、出てくると、綺麗な三十そこそこの女性に声をかけられました。「よくお見掛けしますね」、私は夢中で歩いていますから気が付かない、「ここへ来る以前のお寺でお目に掛かりました、熱心な方だと感心していました、実は相談があるんですが、」と言われ、びっくりしました。
 「実は最近、夫婦別れをして、夫婦の事で悩んでいます、時々この郷照寺の住職に相談に来ている、なかなかうまくいかず、悩んでいます」、さめざめと泣くんです。「今夜は私の家に泊まって、ゆっくり、相談に乗って欲しい」何も無いけれど、食事の接待をさせて欲しい、色気たっぷりで、ぐっと来るような美人さんでした。
 これだな、平井先生が、出発の際、女に惑わされるぞ、厳しく忠告されたのはと気が付きました。郷照寺のご住職にしっかり相談なさい、私は道を急ぎますので、と体よく逃げ出しました。背中が汗でびっしょりでした。

 七十九番高照院、このお寺には崇徳院と言う方が祭られていました。高照院の事を近くの人は天皇さんと呼んでいます。崇徳院と言う方は非常に気の毒な方で、保元の乱の時か平治の乱の時に此の地に島流しに合って、この地で果てられた方なのです。
 百人一首に「瀬をはやみ、岩にせかるる、滝川のわれても末に合わんとぞ思う」と言う歌を残されていますが、この方が亡くなられた時に、時の権力者は平清盛、元天皇さんともあろう人でも、清盛に気を使って、土地の人は葬ることが出来ない、四国から京都まで、お伺いを立て、返事を貰ってから葬る、こんな時間の掛かる事をした、その時、この高照院さんには、とても綺麗な清水が出る、その清水に漬けておいたら腐らなかった、と言う伝説のある、ご縁のあるお寺でした。

 八十番国分寺を打って、夜道を歩きながら、明日は難所の白峰寺、様子を聞いておこうと、たった一軒、明かりがついていた床屋さんに立ち寄りました。
 この床屋さん夫婦が有り難い方達で、丁寧に道を教えて下さり、明日の朝、出掛ける前に寄りなさい、弁当を作って置くからと、「いえいえ、朝、四時起きで、ご迷惑ですから」とご辞退したんですが、本当に作って下さり、朝食までいただきました。
 感激しました、出来ない事です、見ず知らずのこの乞食遍路に、朝早く、ご飯を炊いて
下さるとは。遍路道が今も廃れず、永々と続くのは、この様な人達がまだ居るからだとしみじみ感じました。

 そして、白峰さんに向かいました。
 やはり、険しい道でした、山の上にあるお寺、そこを打って、同じ険しい山道を抜けて、八十二番根香寺さんに向かいました。根香寺では実は迷いました、この山を真っ直ぐ下りると、すぐ香西と言う所に出るんですが、私の実の母親の生まれた所なんです。またと無い遍路の機会だから、母親の菩提を弔うには、絶好の機会だと思ったんです。
 然し若しも、私がそこへ下りたなら、母親の菩提は弔う事は出来たとしても、遍路としては失格だと思います。これには、非常に厳しいものがあると思います、又、そうでは無ければならないと信じます。
 私は高西へ下りず、八十三番一宮寺へ長い道中でしたが、真っ直ぐ向かいました。

 後の話になりますが、私の親友で庄村さんと言う方が国分寺に住んでいて、この後、そこで泊めて貰ったんですが、その夜、夢を見たんです。その夢の中で、小さな私を母親が抱いて、にこにこして笑っているんです、私が忘れ様としていた母親、それは、継母のもとで育てられましたから、今の母に悪いと必死に思い出さないで来たんですが、今は旅の空で何の気がねも無く、遍路の旅に母親の懐に抱かれて、にこにこ嬉しそう笑う母親の顔、本当に久しぶりだったですね。
 幼い時の夢がいくらでも出て来るんです。不思議な事に、目が醒めて、けらけら、私、笑っているんです。で、枕はびっしょり、涙で濡れていたんです。
 ああ、お母ちゃんに会えたと言う事はこの事だと思いました、会いに、そんな事、見ようと思っても見られない、わざわざ行く事では無い、自分が行ったから、どうのでは無くて、自分が合掌し行じた時に、厳然と父母、ご先祖と、私と一体なんだと言う形を、教えていただいたと思います。暗いうちに起きて般若心経の写経をし、庄村家ご繁栄を祈念して一巻お供えしました。

 こうして、廻らさしていただいて、八十六番志度寺に辿りつきました。
 八十六番志度寺、ここは、藤原不比等、鎌足の息子、玉を龍に取られて、それを取り返す為に、この浜に行って、海女を妻にして、子供を生んで、その子供を必ず、藤原の一族に入れるから、お前が龍の玉を取ってきてくれ、と頼んだんです、その海女さんは、我が子の出世の為と、潜って行って、龍の玉を取り返して来るんです、その為に、海女さんは乳房の中に玉を隠し持って来て、乳房を欠き切って、玉を取り出し、死んでいく。
 こう言う、言われのある志度寺と言うお寺、それを越えた時に龍の印象があるか知らんけど、後から、龍が私を守って呉れてる、その感じがとても、強くなって来たんです。

 実は七十五番善通寺を過ぎた頃から何となく、そんな感じがしていたんですが、余り気にもしていなかったんです。実は帰って、平井先生に、その話をしたんです、「それは何時か」「二月の初めです」、平井先生が龍を感得して送って下さって、一週間後だったんです、何と、帰って、和歌山の藤波駅の所に藤原さんと言うお婆さんが居るんですが、そこへ、平井先生と行った時に、白龍の書を拝見しました、目黒絶海老師の筆です、私が感得したあの白龍が目の前にありました。
 何とも不思議な一致に、こんな事があるものなのかと、つくづく考えさせられました。私は今まで、
 長々と話さしていただきましたけど、結局、守っていただいて、お四国、八十八ケ寺をお遍路さしていただいた。それは、お日さんに守られ、私が行じて来た沖導師の教えに守られ、或いは行く先々の人々に守られ、色んな形を替えて、守っていただきました。パンであったり、飴玉であったり、お握りであったり、宿屋のお神さんであったり、しかもこれも、それも、皆、お大師さんのお陰、形の無い物、形を通して守っていただけたなぁと、私は思います。
 それが私の実感です、だから、何かをお伝えして、何かを持っていただこう、四国へ行ったのを自慢したろうとか、そんなんで行ったんではありません。何か知らん、そう言う気持ちでお四国へ修行さしていただいただけ、大宇宙の大調和たらん事、或いは、沖導師の菩提を弔う、なんて、偉そうな事言ってましたけど、お母ちゃんに会いに行った、それだけで良いと思います、夢に出て来るんですね、私の幼い時の記憶の母親が、会いに行って会えた、それだけで善い、何も要らん、有り難い、「今後、そう言う生き方していきや」「うん、至らぬ身だけれど、そう言う生き方を練習します」「励んでいきます、欲ぼけしません、欲ぼけた時には、土下座して謝って、その道を正す様な生き方をして行きます」  要は、私の今の本当の思い、唯、ひたすらに、淡々と、対立の無い、生かし合い、唯、ひたすらに、淡々と‥‥‥‥

 高松

 高松に着きました。
 昔、駅伝を走っていました。その時、監督した人がそこに住んでおられるんです。会社辞められて、自分で自営業をやっておられ、庄村さんと言うのですが、電話一本で通過しようとしたら、「何、すぐ来い、何言うか、すぐ来い」と又呼ばれて、泊めていただいたんです。
 その時に、その方は、九州の人だけど、大阪に住んで、転勤で高松に住んでおられた方なんですが、四国へ来てから分かったと言うんです、四国八十八ケ寺の朱印帳、ばぁんと、表装した朱印帳、五〜六十万するんだそうですが、出してきて、わしゃ、軸、三本持っている、車で回ったんやと言うです、三本持って行って、八十八ケ寺の中、一ケ寺だけ、断られた、あかん、押さん、何してんね、一人で三本も持って、そりゃそうでしょう、三本持って行って怒られたのが一ケ寺だけ、八十八分の一、そしたら、如何にその番の坊んさんが修行してるか修行してないか分かる。

 たいがいの寺が世襲制になっている、息子はぬくぬくとそこの住職さん‥‥‥たった独り、乞食遍路の喜びや苦しみ、ぜんぜん分からない。その程度の貧しさで生きてる。寂しいなぁ、と私は思いました。私は何も持っていないけど、有り難いなぁと、何か、奥から喜びがね、溢れて来るんです、何も無いけど。
 持って、別にあっちの世の中に持って行けるものでも無いんですよね、俺はこの寺だけは、俺はこのお金だけは、財産だけは、土地だけは‥‥‥‥持って行けないですよ。この身体すら持って行けない。何をあくせく、持っていく宝物があるやろかなぁ、有り難いなぁ、私は御供養さしていただいた事によって、何かその生きる元になる様な事を教えていただいた様な気がします。

 それで、昭和ひと桁生まれなんです、その監督は、そこへ行ったんです、○○が来たと言うので、私の同期で仲の良かった男も来てくれたんです。今は課長になっている、僕等の同期が偉いさんになって、丸善石油に勤めていたんです、今、コスモ石油になっていますが、課長、やっぱりねえ、昭和ひと桁生まれの方が年上だけれど、課長の方が世間的には出世している、自然と態度もでかい、言葉遣い、何やらかしても、見え見えなんですよ、僕は怒ったんです、お前、何言うてんや、課長か何か知らんけど、長と付けば皆、偉いんか、大阪弁でどついてやったんです。チョウが偉かったらイチョウも盲腸も皆エライぞ‥‥
 然し、それは友達だから「お前なぁ、先から聞いておったら、この庄やんになぁ、お前、思い上がっているのが、分からんのか」、こんな事、言い難いことですよ、久しぶりに会うて、私は誇る気持ちもぜんぜん無いから、そのままでいたら、可哀そう、別にその男も怒っていない。「そうか、ひさしぶりだけど、お前、相変わらずやのう」喜んでくれる。

 その時、「庄やん、不思議な事に、八十八ケ寺回っているけど、チンチン、一度も立たへんのや、どうなっているんやろ」「帰れば何とかなるぜ」「そうでも、これで立たんのと違うか」
 四十日近くなってるんですよね、帰ったら嫁さんに申し訳立たん、と思って、これは又後に、平井先生にも言ったんですが、平井先生は「心配すんな、立つよ、帰ってみぃ」‥‥‥‥無事立ちました、嫁さん、ニコニコしてますワ。
 不思議なもんです、何故か修行中、あっちの方、立たん様ですわ、四十日、僕なんか、放っといたら、夢精すると思いますわ、鼻血ブウですワ。不思議です、修行中は。人間と言うものは、必要な時に与えられるもんやな、と感じました。必要な時に必要なものが与えられる、これが沖導師の教えだったんです、病気いただく、これも必要だから与えられる、良い物いただいて、有難うございます、そんな乞食心、出すな、よく、叱られたものです。病気が与えられたら、有難うございます、十円でも感謝。悩みに有難うございます。

 いよいよ、最後の八十八番大窪寺、歩いて行きますと、結願石と言うのがあるんです。そこへ着いたとき、私は思わず、その岩に抱きついて、おいおい泣いてしまいました。男泣きに大声出して泣いたのは、この時だけです。
 二月八日、雲一つ無い青空でした。風がびゅうと吹いて、物凄い寒い日で、太陽がかんかんと照って、天気晴朗だれど、波高し、と言った気持ちの高揚と爽やかさ、有り難さが一緒になった様な素晴らしい日でした。今後の生き方の決意を、日本のあの日、伊予松山の人、秋山真之が打電したように‥‥‥

 ここでは、ゆっくり座り込んで、般若心経十巻、唱えさしていただきました。そうすると、一人の人が写真、写さして下さい、と言うんです、あまり気は乗らなかったんですが、その方も熱心に頼むものですから、どうぞ写して下さい、すると、送らしていただきますから、お名前と住所をと言われる、前と一緒、名乗らず、その方の名刺を頂き、後で送っていただきました。だから、私にはお四国廻った証拠は何一つ有りませんが、写真が二葉だけあるんです。
 早速、和歌山の太陽保育園に電話したんです。園長さんが出られたので、「お陰で結願(けちがん)しました」「何、けつ割った?」「いや、結願、願結んで、今八十八番大窪寺に来ております」そうしたら、おめでとうと言って、喜んでくれました。そして、平井先生を呼んでくれました。それまでは、平井先生に一切連絡していません、勿論、家にも。それが、第一声でした。平井先生は非常に喜んでくれて、「よくやった、よくやった」「すぐ帰って来い」

 すぐ帰って来いと言う事は、先生の言われるのには、八十八番打っただけではあかん、もう一度、一番に戻り帰せ、八十八番から一直線に一番霊山寺さんへ向かえ、と言う事なんです。これには深い深い意味があったのですネ。つまり円を画く、始めなく終わりなく、宮本二天の円明です。終わりなく、始めなく、対立のない生かし合い、一切の責任は自分にある、つまり「元はこちら」です、果には必ず因があり、この因は一切自らにある、したがってこの与えられた果、病であったり悩みであったり、それらは丁度よい事であり、あたり前の事であり、最適のものであるわけです。右や左や、好きだ嫌いだ、善いや悪いや、と云わず、あるがままに拝受し、おわびとお礼を素直に合掌してゆく。その修業を重ねる事により、自らが全くこの大宇宙と同根同一体のものであると覚する、これが生まれてきた使命であり、意味であり、目的であったのです。この道をただ淡々とただ淡々と‥‥‥‥

 八十八番から十番切幡寺まで戻り、切幡さんで泊めていただきました夜、電話したら、明日帰って来いと、言われました。
 翌朝、一番霊山寺へ御参りしました。本当は、八十八ケ寺で結願すると、一番札所で賞状を呉れるんですが、私には証明するものは何も無い、だから貰えない、期待もしてませんでした。私の話を興味深く聞いていた、お寺の坊さんの一人が、だんだん聞いてみると、その坊さん、私と同じ九条の出身と分かったんです、しかも、駅の端の本屋の、あの倅かいな、となったんです。それを、そばで聞いていた住職が、うん、この人に上げなさい、と言われ、四国の満行したと言う、ハンコ入りの証明書をいただいたんです。

 不思議な事がありました。霊山寺さんから徳島港へ向かいましたが、舗装道路で歩きにくい、タクシーで行こうと思ったんですが、これが捕まらない、結局、徳島港まで歩いてしまいました。
 今まで、嫌と言う程、遍路さん乗っていきませんか、誘われ、その都度、丁重にお断わりして来た、車乗るのは訳は無いと思っていましたが、今度は、車に乗ろうとしたら乗れない、今まで、断ってきた報いだと思いました。これは四国中、歩いて行け、と言うお大師さまのお告げだと思いました。ところが、道を聞こうにも、人は居ないし、タクシーも捕まらないし、この道が一番しんどい道でした。

 徳島港から船に乗り、ほっとしました、衣装も脱いで、ゆっくりくつろごうと思ったんですが、待てよ、ひょっとしたら、和歌山港に平井先生が来る可能性があるな、と思い、笠だけ取って、まだまだ、気を抜いてはいけない、雨風に晒され、衣装も汚れているが、汚れていても綺麗なものだと思い返しました。
 そして、船が着く、笠を結び直し、きちんとして、桟橋を降りようとして、ふと見ると、何と埠頭の所に平井先生がお迎えに来てるんです。家内と娘と、倅は修行中で他に行ってたと思います。平井先生が握手、肩抱いてくれて「よう、やってくれたなあ」と涙ぐんで下さる、涙声の平井先生の、ほんまに数少ない事でした。
 堅い握手していただいて、すぐ来いと言う事で、車に乗せていただいて、平井先生主催の勉強会、月曜会に出席して、お話さしていただきました。それから、先生の命で、あちらこちらで、お四国遍路の話をさしていただいております。
 この話をさしていただく事、それが私の今の修行だと心得、有りままの気持ちを述べさしていただきました、有難うございました。
(完)