七十一番彌谷寺さん、ここも凄い所です、歩いて歩いて、歩きぬかされました。
 初め、山門を潜り、石段を登ると、ご本尊のお祭りしているらしき所がある、拝んでも、ご本尊とは書いて無い、大師堂とも書いて無い、それでもう一度、石段をあえぎあえぎ登ると、又、お堂が在る、やっと来たなと思うと、それも違う、あれっと、まだ上があるから、又、登る、四回か五回、上へ上がらされる、これはヨガだと思いました。これでもか、これでもか、とことん追い詰める、しんどい、ここで終り、とはしない。最後の最後は履き物を脱いで上がらされました。
 
七十三番出釈迦寺、お大師さまが崖から飛び降りた所。

 七十五番善通寺、言いたか無いが、あまり俗化して、私はこの八十八ケ寺、ここまで来たら、マンダラを見さしていただけるもんやとばっかり思って、楽しみにして来たんですが、がっかりしました。夕暮の五時が終いなんです、私が着いたのは五時五分前くらい、ところが門が閉まっているんです。
 私は般若心経をお供えする事が出来ない。門前からご挨拶して、翌日、すぐ朝一番に発って行きたいので、ご挨拶出来ない。どうしようか、と近くの店屋さんに寄って、お聞きしたら、裏口から入れると言うのです。店屋さんの言うのには、この頃弱っている、五時に門を閉めるのに四時半に閉めてしまう、何やこれ、と言う事でかなり、近所からも批判が出てるとの事でした。
 裏口から入って、信頼の出来そうな坊さんに、実はこうして、廻っています、明日、ご挨拶する時間、七時からでは、私の発った後になりますので、すいませんが、心経一巻、納経の所に収めていただけませんか、とお願いしました。確かに、しかと承りました、と、しっかりした坊さんでした、この方にお預けて善通寺を去りました。後にわかった事ですが、この方が天台門の村上先生です。

 七十八番郷照寺、ここまで辿り着いて、ご住職にご挨拶して、出てくると、綺麗な三十そこそこの女性に声をかけられました。「よくお見掛けしますね」、私は夢中で歩いていますから気が付かない、「ここへ来る以前のお寺でお目に掛かりました、熱心な方だと感心していました、実は相談があるんですが、」と言われ、びっくりしました。
 「実は最近、夫婦別れをして、夫婦の事で悩んでいます、時々この郷照寺の住職に相談に来ている、なかなかうまくいかず、悩んでいます」、さめざめと泣くんです。「今夜は私の家に泊まって、ゆっくり、相談に乗って欲しい」何も無いけれど、食事の接待をさせて欲しい、色気たっぷりで、ぐっと来るような美人さんでした。
 これだな、平井先生が、出発の際、女に惑わされるぞ、厳しく忠告されたのはと気が付きました。郷照寺のご住職にしっかり相談なさい、私は道を急ぎますので、と体よく逃げ出しました。背中が汗でびっしょりでした。

 七十九番高照院、このお寺には崇徳院と言う方が祭られていました。高照院の事を近くの人は天皇さんと呼んでいます。崇徳院と言う方は非常に気の毒な方で、保元の乱の時か平治の乱の時に此の地に島流しに合って、この地で果てられた方なのです。
 百人一首に「瀬をはやみ、岩にせかるる、滝川のわれても末に合わんとぞ思う」と言う歌を残されていますが、この方が亡くなられた時に、時の権力者は平清盛、元天皇さんともあろう人でも、清盛に気を使って、土地の人は葬ることが出来ない、四国から京都まで、お伺いを立て、返事を貰ってから葬る、こんな時間の掛かる事をした、その時、この高照院さんには、とても綺麗な清水が出る、その清水に漬けておいたら腐らなかった、と言う伝説のある、ご縁のあるお寺でした。

 八十番国分寺を打って、夜道を歩きながら、明日は難所の白峰寺、様子を聞いておこうと、たった一軒、明かりがついていた床屋さんに立ち寄りました。
 この床屋さん夫婦が有り難い方達で、丁寧に道を教えて下さり、明日の朝、出掛ける前に寄りなさい、弁当を作って置くからと、「いえいえ、朝、四時起きで、ご迷惑ですから」とご辞退したんですが、本当に作って下さり、朝食までいただきました。
 感激しました、出来ない事です、見ず知らずのこの乞食遍路に、朝早く、ご飯を炊いて
下さるとは。遍路道が今も廃れず、永々と続くのは、この様な人達がまだ居るからだとしみじみ感じました。

 そして、白峰さんに向かいました。
 やはり、険しい道でした、山の上にあるお寺、そこを打って、同じ険しい山道を抜けて、八十二番根香寺さんに向かいました。根香寺では実は迷いました、この山を真っ直ぐ下りると、すぐ香西と言う所に出るんですが、私の実の母親の生まれた所なんです。またと無い遍路の機会だから、母親の菩提を弔うには、絶好の機会だと思ったんです。
 然し若しも、私がそこへ下りたなら、母親の菩提は弔う事は出来たとしても、遍路としては失格だと思います。これには、非常に厳しいものがあると思います、又、そうでは無ければならないと信じます。
 私は高西へ下りず、八十三番一宮寺へ長い道中でしたが、真っ直ぐ向かいました。

 後の話になりますが、私の親友で庄村さんと言う方が国分寺に住んでいて、この後、そこで泊めて貰ったんですが、その夜、夢を見たんです。その夢の中で、小さな私を母親が抱いて、にこにこして笑っているんです、私が忘れ様としていた母親、それは、継母のもとで育てられましたから、今の母に悪いと必死に思い出さないで来たんですが、今は旅の空で何の気がねも無く、遍路の旅に母親の懐に抱かれて、にこにこ嬉しそう笑う母親の顔、本当に久しぶりだったですね。
 幼い時の夢がいくらでも出て来るんです。不思議な事に、目が醒めて、けらけら、私、笑っているんです。で、枕はびっしょり、涙で濡れていたんです。
 ああ、お母ちゃんに会えたと言う事はこの事だと思いました、会いに、そんな事、見ようと思っても見られない、わざわざ行く事では無い、自分が行ったから、どうのでは無くて、自分が合掌し行じた時に、厳然と父母、ご先祖と、私と一体なんだと言う形を、教えていただいたと思います。暗いうちに起きて般若心経の写経をし、庄村家ご繁栄を祈念して一巻お供えしました。

 こうして、廻らさしていただいて、八十六番志度寺に辿りつきました。
 八十六番志度寺、ここは、藤原不比等、鎌足の息子、玉を龍に取られて、それを取り返す為に、この浜に行って、海女を妻にして、子供を生んで、その子供を必ず、藤原の一族に入れるから、お前が龍の玉を取ってきてくれ、と頼んだんです、その海女さんは、我が子の出世の為と、潜って行って、龍の玉を取り返して来るんです、その為に、海女さんは乳房の中に玉を隠し持って来て、乳房を欠き切って、玉を取り出し、死んでいく。
 こう言う、言われのある志度寺と言うお寺、それを越えた時に龍の印象があるか知らんけど、後から、龍が私を守って呉れてる、その感じがとても、強くなって来たんです。

 実は七十五番善通寺を過ぎた頃から何となく、そんな感じがしていたんですが、余り気にもしていなかったんです。実は帰って、平井先生に、その話をしたんです、「それは何時か」「二月の初めです」、平井先生が龍を感得して送って下さって、一週間後だったんです、何と、帰って、和歌山の藤波駅の所に藤原さんと言うお婆さんが居るんですが、そこへ、平井先生と行った時に、白龍の書を拝見しました、目黒絶海老師の筆です、私が感得したあの白龍が目の前にありました。
 何とも不思議な一致に、こんな事があるものなのかと、つくづく考えさせられました。私は今まで、
 長々と話さしていただきましたけど、結局、守っていただいて、お四国、八十八ケ寺をお遍路さしていただいた。それは、お日さんに守られ、私が行じて来た沖導師の教えに守られ、或いは行く先々の人々に守られ、色んな形を替えて、守っていただきました。パンであったり、飴玉であったり、お握りであったり、宿屋のお神さんであったり、しかもこれも、それも、皆、お大師さんのお陰、形の無い物、形を通して守っていただけたなぁと、私は思います。
 それが私の実感です、だから、何かをお伝えして、何かを持っていただこう、四国へ行ったのを自慢したろうとか、そんなんで行ったんではありません。何か知らん、そう言う気持ちでお四国へ修行さしていただいただけ、大宇宙の大調和たらん事、或いは、沖導師の菩提を弔う、なんて、偉そうな事言ってましたけど、お母ちゃんに会いに行った、それだけで良いと思います、夢に出て来るんですね、私の幼い時の記憶の母親が、会いに行って会えた、それだけで善い、何も要らん、有り難い、「今後、そう言う生き方していきや」「うん、至らぬ身だけれど、そう言う生き方を練習します」「励んでいきます、欲ぼけしません、欲ぼけた時には、土下座して謝って、その道を正す様な生き方をして行きます」  要は、私の今の本当の思い、唯、ひたすらに、淡々と、対立の無い、生かし合い、唯、ひたすらに、淡々と‥‥‥‥