高松

 高松に着きました。
 昔、駅伝を走っていました。その時、監督した人がそこに住んでおられるんです。会社辞められて、自分で自営業をやっておられ、庄村さんと言うのですが、電話一本で通過しようとしたら、「何、すぐ来い、何言うか、すぐ来い」と又呼ばれて、泊めていただいたんです。
 その時に、その方は、九州の人だけど、大阪に住んで、転勤で高松に住んでおられた方なんですが、四国へ来てから分かったと言うんです、四国八十八ケ寺の朱印帳、ばぁんと、表装した朱印帳、五〜六十万するんだそうですが、出してきて、わしゃ、軸、三本持っている、車で回ったんやと言うです、三本持って行って、八十八ケ寺の中、一ケ寺だけ、断られた、あかん、押さん、何してんね、一人で三本も持って、そりゃそうでしょう、三本持って行って怒られたのが一ケ寺だけ、八十八分の一、そしたら、如何にその番の坊んさんが修行してるか修行してないか分かる。

 たいがいの寺が世襲制になっている、息子はぬくぬくとそこの住職さん‥‥‥たった独り、乞食遍路の喜びや苦しみ、ぜんぜん分からない。その程度の貧しさで生きてる。寂しいなぁ、と私は思いました。私は何も持っていないけど、有り難いなぁと、何か、奥から喜びがね、溢れて来るんです、何も無いけど。
 持って、別にあっちの世の中に持って行けるものでも無いんですよね、俺はこの寺だけは、俺はこのお金だけは、財産だけは、土地だけは‥‥‥‥持って行けないですよ。この身体すら持って行けない。何をあくせく、持っていく宝物があるやろかなぁ、有り難いなぁ、私は御供養さしていただいた事によって、何かその生きる元になる様な事を教えていただいた様な気がします。

 それで、昭和ひと桁生まれなんです、その監督は、そこへ行ったんです、○○が来たと言うので、私の同期で仲の良かった男も来てくれたんです。今は課長になっている、僕等の同期が偉いさんになって、丸善石油に勤めていたんです、今、コスモ石油になっていますが、課長、やっぱりねえ、昭和ひと桁生まれの方が年上だけれど、課長の方が世間的には出世している、自然と態度もでかい、言葉遣い、何やらかしても、見え見えなんですよ、僕は怒ったんです、お前、何言うてんや、課長か何か知らんけど、長と付けば皆、偉いんか、大阪弁でどついてやったんです。チョウが偉かったらイチョウも盲腸も皆エライぞ‥‥
 然し、それは友達だから「お前なぁ、先から聞いておったら、この庄やんになぁ、お前、思い上がっているのが、分からんのか」、こんな事、言い難いことですよ、久しぶりに会うて、私は誇る気持ちもぜんぜん無いから、そのままでいたら、可哀そう、別にその男も怒っていない。「そうか、ひさしぶりだけど、お前、相変わらずやのう」喜んでくれる。

 その時、「庄やん、不思議な事に、八十八ケ寺回っているけど、チンチン、一度も立たへんのや、どうなっているんやろ」「帰れば何とかなるぜ」「そうでも、これで立たんのと違うか」
 四十日近くなってるんですよね、帰ったら嫁さんに申し訳立たん、と思って、これは又後に、平井先生にも言ったんですが、平井先生は「心配すんな、立つよ、帰ってみぃ」‥‥‥‥無事立ちました、嫁さん、ニコニコしてますワ。
 不思議なもんです、何故か修行中、あっちの方、立たん様ですわ、四十日、僕なんか、放っといたら、夢精すると思いますわ、鼻血ブウですワ。不思議です、修行中は。人間と言うものは、必要な時に与えられるもんやな、と感じました。必要な時に必要なものが与えられる、これが沖導師の教えだったんです、病気いただく、これも必要だから与えられる、良い物いただいて、有難うございます、そんな乞食心、出すな、よく、叱られたものです。病気が与えられたら、有難うございます、十円でも感謝。悩みに有難うございます。

 いよいよ、最後の八十八番大窪寺、歩いて行きますと、結願石と言うのがあるんです。そこへ着いたとき、私は思わず、その岩に抱きついて、おいおい泣いてしまいました。男泣きに大声出して泣いたのは、この時だけです。
 二月八日、雲一つ無い青空でした。風がびゅうと吹いて、物凄い寒い日で、太陽がかんかんと照って、天気晴朗だれど、波高し、と言った気持ちの高揚と爽やかさ、有り難さが一緒になった様な素晴らしい日でした。今後の生き方の決意を、日本のあの日、伊予松山の人、秋山真之が打電したように‥‥‥

 ここでは、ゆっくり座り込んで、般若心経十巻、唱えさしていただきました。そうすると、一人の人が写真、写さして下さい、と言うんです、あまり気は乗らなかったんですが、その方も熱心に頼むものですから、どうぞ写して下さい、すると、送らしていただきますから、お名前と住所をと言われる、前と一緒、名乗らず、その方の名刺を頂き、後で送っていただきました。だから、私にはお四国廻った証拠は何一つ有りませんが、写真が二葉だけあるんです。
 早速、和歌山の太陽保育園に電話したんです。園長さんが出られたので、「お陰で結願(けちがん)しました」「何、けつ割った?」「いや、結願、願結んで、今八十八番大窪寺に来ております」そうしたら、おめでとうと言って、喜んでくれました。そして、平井先生を呼んでくれました。それまでは、平井先生に一切連絡していません、勿論、家にも。それが、第一声でした。平井先生は非常に喜んでくれて、「よくやった、よくやった」「すぐ帰って来い」

 すぐ帰って来いと言う事は、先生の言われるのには、八十八番打っただけではあかん、もう一度、一番に戻り帰せ、八十八番から一直線に一番霊山寺さんへ向かえ、と言う事なんです。これには深い深い意味があったのですネ。つまり円を画く、始めなく終わりなく、宮本二天の円明です。終わりなく、始めなく、対立のない生かし合い、一切の責任は自分にある、つまり「元はこちら」です、果には必ず因があり、この因は一切自らにある、したがってこの与えられた果、病であったり悩みであったり、それらは丁度よい事であり、あたり前の事であり、最適のものであるわけです。右や左や、好きだ嫌いだ、善いや悪いや、と云わず、あるがままに拝受し、おわびとお礼を素直に合掌してゆく。その修業を重ねる事により、自らが全くこの大宇宙と同根同一体のものであると覚する、これが生まれてきた使命であり、意味であり、目的であったのです。この道をただ淡々とただ淡々と‥‥‥‥

 八十八番から十番切幡寺まで戻り、切幡さんで泊めていただきました夜、電話したら、明日帰って来いと、言われました。
 翌朝、一番霊山寺へ御参りしました。本当は、八十八ケ寺で結願すると、一番札所で賞状を呉れるんですが、私には証明するものは何も無い、だから貰えない、期待もしてませんでした。私の話を興味深く聞いていた、お寺の坊さんの一人が、だんだん聞いてみると、その坊さん、私と同じ九条の出身と分かったんです、しかも、駅の端の本屋の、あの倅かいな、となったんです。それを、そばで聞いていた住職が、うん、この人に上げなさい、と言われ、四国の満行したと言う、ハンコ入りの証明書をいただいたんです。

 不思議な事がありました。霊山寺さんから徳島港へ向かいましたが、舗装道路で歩きにくい、タクシーで行こうと思ったんですが、これが捕まらない、結局、徳島港まで歩いてしまいました。
 今まで、嫌と言う程、遍路さん乗っていきませんか、誘われ、その都度、丁重にお断わりして来た、車乗るのは訳は無いと思っていましたが、今度は、車に乗ろうとしたら乗れない、今まで、断ってきた報いだと思いました。これは四国中、歩いて行け、と言うお大師さまのお告げだと思いました。ところが、道を聞こうにも、人は居ないし、タクシーも捕まらないし、この道が一番しんどい道でした。

 徳島港から船に乗り、ほっとしました、衣装も脱いで、ゆっくりくつろごうと思ったんですが、待てよ、ひょっとしたら、和歌山港に平井先生が来る可能性があるな、と思い、笠だけ取って、まだまだ、気を抜いてはいけない、雨風に晒され、衣装も汚れているが、汚れていても綺麗なものだと思い返しました。
 そして、船が着く、笠を結び直し、きちんとして、桟橋を降りようとして、ふと見ると、何と埠頭の所に平井先生がお迎えに来てるんです。家内と娘と、倅は修行中で他に行ってたと思います。平井先生が握手、肩抱いてくれて「よう、やってくれたなあ」と涙ぐんで下さる、涙声の平井先生の、ほんまに数少ない事でした。
 堅い握手していただいて、すぐ来いと言う事で、車に乗せていただいて、平井先生主催の勉強会、月曜会に出席して、お話さしていただきました。それから、先生の命で、あちらこちらで、お四国遍路の話をさしていただいております。
 この話をさしていただく事、それが私の今の修行だと心得、有りままの気持ちを述べさしていただきました、有難うございました。
(完)