話が前後しますが、山の上で大喧嘩したでしょう、まあ、口喧嘩ですが、寄井に行ったら、宿、宿と言ったって、私達の泊まるのは安いお遍路宿、それに泊めていただくのも、だんだん知恵が付いて来るんです、お金無いから、すんません、修行で廻さしていただいている者ですが、素泊まりで結構ですから、二千円で泊めていただけませんか、そうすると、結構です、どうぞ、と言ってくれます。それなら二千円、それでもお茶ぐらいは出してくれます。
大広間で皆と茶を飲んでいると、一人の酔っぱらいのおっちゃんが入ってきて、いや、今日、おもろい事、聞いたんや、焼山寺の上でジーパンの坊さんが、お寺さんと大喧嘩しているんや‥‥。この日は登り道が雨だったので青い雨具を着用していました。
「そんなら、何故、止めんのや」「そんな、止められる様な雰囲気とは違うんや、だが、おもろい坊さんやったな」私の目の前で言っているんです。で、私に気が付き、「いや、この坊さんや、あんたの事、今、町で評判でっせ‥‥‥‥この町の者が大勢集まって、この先の辻でその坊さん、一目、見たいと待っているがな」これは、えらい事になったと、内心閉口しました。「俺も、もっと話が聞きたい、もっと、やっつけてくれたら好いのに、だいたい、今時の坊主はどいつもこいつも、碌な奴が居ない」という事になって、まあ、一杯やりましょうと、お酒をご馳走になってしまいました。
二杯ぐらいは有り難いのですが、それ以上は明日にこたえる、茶わんに茶を入れて飲んでたんですが、その上から、また酒を入れるんです、妙な味で飲めたもんではありません。遍路は頂いたものは全部、頂かねばいけない決まりです、必死に飲まして頂きました。二度と飲みたくない、ひどい味でした。それから、明日の予定もありますので、ほどほどにして、休ませてもらいました。
翌日、宿を出て、ずうっと回って、十八番の恩山寺、恩山寺と言うのは、いっぺん阿波の山の方へずうっと入って、もう一度、小松島の方へ引き返すんです。ハイキングの様に、ずうっと回って来るなら楽しいか知りませんが、一番、二番と、とびとびにあちらこちら回るんです、気分的に気が滅入ります。だいたい、この道のり、ひと巡り、千五百キロあるんです。つまり、東京、大阪間を往って復ってまた往く距離です。
雪の中、峠道を歩いていると、「お遍路さん、はいっ」と、ほかほか弁当、呉れるんです、有り難いです、じっとしてては時間が勿体ないですから、歩きながら食べる、しかも雪が降っていてとても寒い遠い道のりの中、十八番の恩山寺へ向かいました。
その日は恩山寺で泊まりました。恩山寺では専門に歩いているベテランのお遍路さんに会ったんです。金札と言って、最初、貰う時は白、二十回、八十八ケ所巡りで銀、三十回以上で金、その金札を持っているお遍路さんで川田さんと言う方にそこの宿でお会いしたんです。そしたら、初めに話した事を聞かされたんです。「今日び、人は見ず知らずの人を泊めるか、どうか、泥棒した人間もおるし、火付けるもんもいる、あかんぜ、そう言う気持ちで行ったらあかん」
えらい事になって来たなと思いました。実は、その時まで、托鉢していなかったんです。最初のうちは、なかなか人前に立たれませんわ。しかし、これ、切羽つまって来ると、そう、言って居られません。今までは、歩く事に精一杯でした。歩くことは、千五百キロ、足を引きずっても、どうにか行けるかもしれないけれど、あと、食べて、身体を維持していくとなると、これは、えらい事になったと思いました。 そうして、その人は、部屋で待っていてくれたんです。「あんた、無事に行けると言ったのは、表向きや、本当は高野山の坊さんでも、冬、来て無事に帰る者はいない、然し、あんたさん、わざわざ部屋まで聞きに来るなら教えてやる、托鉢したかい」「いいえ、まだ、して居りません」「よろしい、明日から托鉢しなさい、托鉢出来る所教えてあげる」私、遍路道案内の本を持っていましたから、それに、この箇所、この箇所と印を付けてくれました。
ところが、行って見ますとね、なんと、冬の田舎の道は何処の家も何処の家も、戸が閉ざして、人が見えない。春先だったら、観光バスも回っているし、戸も開いて、托鉢もやりやすい、冬で、閉まっていると、なかなかやり難い、そんな様々な経験を重ねつつ、歩いたんです。
で、十九番まで来ますと、立江寺があるんです。ここで、だいたい遍路は帰るんです。業の深い人は、遍路は「お帰り」と言う事なんです。ここが遍路の関所です。だいたい、ここまで歩いて来ると、もうへとへとです、精も根も尽き果てる、次の鶴林寺、厳しい、しかも、目の前に小松島の港、帰りやすいんです、誘惑に負けやすい所です。
ここまで、来た時に、「いいか、お前よ、傲り、と、誹りを避けなさいよ、そしたら、良い業をしている、歩きぬけるよ」と聞こえたんです。「有難うございます」それで、二十番のお鶴さん、それから二十一番の大龍寺、一に焼山、二にお鶴、三に大龍と阿波三難所です。で、鶴林寺のことを、お鶴さんと、近くの方は言いますが、名前は優しいが、これが、きつい。
ここへ向かう時に、私は、どうしようかな、と、いらん事を考えてしまったんです。平井先生には、お金、五万円しか持たないと言ってきたんですが、泊まりを重ねて、ここまで来ますと、後、残りの金が二万円切れてるんです、徳島でこれです、あと土佐、愛媛、香川とある訳です。少し、心細くなってきたので、友達に電話でもして、お金を借りとこうと思いつきました。
電話ボックスを捜して、ふらふらと、入ったんです。十円玉を捜したんですが、見つからないんです、百円では勿体ない、ぐずぐず迷っているうち、また、次でかけようとボックスを出て、歩きだしたんです。これが、最後の最後だけれども、いざっと言う時の、用意ぐらいしておかないとあかんわな、と、自分に対しては、言い訳としか言い様の無い事を考えるんです。
大分、歩いて行ってから、はっと気が付いた、手にした杖がないんです、しまった、電話ボックスまで、走り返したんです。お杖を忘れて来ているんですよ。お杖と言うのはね、お大師さんの足、此れに頼って、此れにすがって行けという事なんです。また、この杖は親父から譲ってもらった、譲って貰ったと言うより、家の代々続いた杖なんです。
こんな事でどうするんだ、こんな事で先行きずっと、讃岐まで行けるものでは無い、これはいかん、と愕然としました。
鶴林寺まで行く途中に那賀川と言う、大きな河があるんです、河原が広くて、何とも言えん良い河原なんです。よし、ここで水行だ‥‥‥‥冬で冷たかったですが、すっ裸になりまして、頭は出発ししなに、倅に剃ってもらいまして、つるつるなんです、で、水の中に入って、ヨガで、笑いの行法と言って、わっはっは、と、笑うんですよ、おかしく無くても笑うんです。終いに、おかしくなるんです。
向こうの方で、釣りしている小父さんがいるんです。私がす裸で、わっはっは、と、ちんちんまる出しで、笑っているでしょう、三回くらいやってますと、すうっと、向こうへ行くんですよね。あれ、おかしなのが来た、と、思ったのでしょうね。足らんのが来たと、向こうへ逃げてしもうたんですワ。
ああ、もう、どう思われてもいいや‥‥‥‥‥その時に、私は分かったと、思ったんです。何が分かったと言いますと、あの戦中戦後を生き抜いてきた、父や母は食うや食わず、だったんですよね、で、子供の為に、無い物でも、自分たちは食わずに残してくれたんです。自分は三度三度、飯を食うて行こうとするから、間違っていたんです。一食二食、一日、食わなくても人間、死にはせん。それを、私達を育ててくれた父や母は、やって来てくれたではないか。お前は、それが、出来ないのか、この大馬鹿野郎と、なったんですわ。よしや、これだったなら、いけると、此の杖と共にお大師さんと一緒に行けるわい。今まで、何回、南無大師、遍照金剛、遍照金剛と唱えて来たけれど、それは、口先で言うだけだった、これからは、お大師様と、本当に二人で、同行二人の声、お大師様、頼みます、わしはやる、命懸けでやる、お願いします、さして下されい、と、なったんです。
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